二 イエスの苦難の目的論的考察

藤井武

それ多くの子を光栄に導くに、その救いの君を苦難によりて全うしたもうは、よろずの物の帰するところ、よろずの物を造りたもうところの者に相応ふさわしき事なり。(へブル二の一〇)

人生の事、一として偶然なるはない。我らの宇宙に大いなる中心がある。万物がそれに向かって帰りゆくべき目的たるもの、万物がそれによって造り出さるる原因たるもの、かくのごとき中心的存在者が我らの宇宙にある。

私は世界の歴史が一つの目標にむかって動きつつあるを見る。西部アジアに起こりし人類歴史の主潮流が過去数千年のあいだある明確なる原理に従い一つの目標をめざして全地を巡りゆきつつあるこの大いなる事実を、私は疑うことが出来ない。かくのごとくに見て、始めて日々に起こりつつある世界のすべての出来事が意義を成すことを私は知る。

私は地上の万物が共同の歎き苦しみの下にあるを見る。始めにはその消息を明らかにし得ずして、ただ何となきさびしみを天然の中に感ずるに過ぎなかったが、一度ひとたびパウロに教えられて天然のこころを解するに及びて、私の目は開けたのである。すべての造られたるものひとしく神の子の光栄に参与せんことを待ち望む。その事を知って天然の謎はみな読み得る。これにまさる天然観を私は知らない。

私は自分の生活が自分以外のある者のために営まれつつあることを知る。自分の欲求を最後の目的とするとき、矛盾と煩悶と失望とが絶えない。これに反して、たとえ自分のためにはいかに成りゆこうとも、ただ彼の聖意みこころの成らんことをのみねがう時に、きわみなき平和が私に実現する。私はこのみちが人としての正統なる軌道であることを疑わない。

しかし私は歴史または天然または自己についての証明にもとづいて、全宇宙の中心的存在者を信ずるに至ったのではない。かえって私はまずキリストにおいて神をみとめて、しかるのちにすべてこれらの事実を知ったのである。事は証明よりもむしろ信仰の問題である。

信仰の目をもって見るとき、我らは神が万物発達の目的として、はたその発生の原因として実在することを知るのである。「すべての物は神よりで神によりて成り神に帰す」(ロマ一一の三六)、「我らには父なる唯一の神あるのみ、万物これよりで、我らもまたこれに帰す」(前コリント八の六)とパウロの言うとおりである。

神は万物の目的であり、またその原因である。彼は歴史と天然との中心である。全宇宙は彼において無限の調和を見いだす。物として彼の支配より漏れるはない。事として彼の意思に基かぬはない。二羽一銭にて売らるる雀だに彼の許しなしには地に落ちない。我らの頭の髪までもみな数えられてある。宇宙全体を包括して永遠より永遠にわたるところの彼の偉大なる経綸の中に、一切の事物は各々その適当なる地位を定められてあるのである

この神の経綸の中におけるイエスの苦難の地位如何。

まず注意すべきはその事の重要さである。これ「万物の帰するところ、万物を造りたもうところの者に相応ふさわしき事」であるという。「相応ふさわし」とはその事において神が最も神らしく見えるとの意味である。その事において宇宙の中心的存在者としての神の姿が最も明白に現われるとの意味である。すべての事彼の聖意みこころによる。しかしすべての事彼に相応ふさわしくはない。多くの事において神の姿はただおぼろにしか表われない。ひとりイエスの苦難において、万物の目的にして原因たる神の姿は遺憾なく表われたのである。我らはここにいと高き義と愛と限りなき智慧と能力とをもって永遠の目標にむかい全人類を導きつつあるところの神の姿を明らかに見る。誠にゲッセマネの祈りにつづくゴルゴタ丘上十字架のイエスにおいてほど、神が神らしく現われたことは、いまだかつてなかったのである。イエスの苦難はさほどに重要なる出来事であった。

しからば目的論テレオロジーの立場より見て、イエスの苦難にどれだけの意義があったか。先ず第一にそれはイエス自身の人格の完成のために必要なる試煉であった。「その救いの君を苦難によりて全うしたもうは……相応ふさわし」という。全うする(teleioun)とは未了のものを終了すること、あるいは不完全のものを完成することを意味する。イエスの人格は時きたるまでは未了あるいは不完全なるものであった。彼は一個の人として、元始はじめにアダムが置かれしその立場に置かれた。アダムと同じように白紙の人格をもって彼は出発した。アダムと同じように全く新しき自由をもって彼はその地上の生涯を始めた。しかして彼が人の子として神に対する自由なる服従を成就するときに始めて彼の人格は完成せられるのである。その時までは未だし。ゆえにある時一人のもの走り来たりて「善き師よ」と彼に呼びかけたときに、「何ゆえ我を善しと言うか、神ひとりの他に善き者なし」と彼は答えたのである。善き人はすでに全うせられたる人でなければならぬ。すでに神に対する服従を成就した人、完全なる従順を体達した人、かくのごときが人の理想である。イエスはかくのごとき人たるべくあった。しかしそのためにまず彼の経験せねばならぬ試煉があった。

イエスが人として全うせらるるために必要なる試煉こそは、苦難の経験であったのである。苦難を避けて悦楽を選ぶは人の最大の本能である。従って人が全く自己を棄てて神に従うか否かは、彼が神のために苦難を忍ぶか否かによって試みられる。苦難によって人は従順を学ぶ。イエスは理想の人たるべきであった。ゆえに彼は最大の苦難を忍ぶべきであった。十字架は何よりも先ずイエスの人格完成のために必要なる試煉であった。「キリストは必ずこれらの苦痛を受けてその栄光に入るべきならずや」(ルカ二四の二六)。

イエスは見事にこの試煉を通過した。彼は「己をひくうして死に至るまで、十字架の死に至るまで、従」うた(ピリピ二の八)。彼は「受けしところの苦難によりて従順を学」んだ(ヘブル五の八)。かくて彼は「全うせられた」(九節)。イエスが十字架の上に「事おわりぬ」というて首を垂れその霊を父の手に渡した時に(ヨハネ一九の三〇)、彼の人格は完成せられたのである。世界は創造以来ここに始めてひとりの完全なる人を見たのである。

この完全なる人こそは、神の創造の理想であった。「神よりもただ少しくひくく造りて光栄と尊貴とうときとをかぶらせ万物をその足の下に従わす」べき理想の人の子はここに実現した。このゆえに「神は彼を高く上げて、これに諸々もろもろの名にまさる名を賜いたり。これ天にあるもの地にあるもの地の下にあるもの、ことごとくイエスの名によりて膝をかがめんためなり」(ピリピ二の九、一〇)。イエスは人の子として全うせられて、人の子の光栄に入った。我らは「ただイエスの、死の苦難を受くるによりて栄光と尊貴とうときとをかぶらせられたまえるを見る」(へブル二の九)。

しかしながらこのようにイエスが苦難によって全うせられたのは、彼自身のためではなかった。イエスと全人類との間に特別の関係がある。「それ多くの人の子を光栄に導くにその救いの君を苦難によりて云々」という。彼はひとりの人の子であると共にまた多くの子の救いの君である。「君」(archegos)とは単純なる敬称ではない、君侯の意味である、ルーテルはこれを Herzog(公)と訳した。英訳には captain(首領)とある。人類の首領にして支配者たるもの(行伝五の三一)、人類の最前線に立ってこれを指揮し誘導するもの(へブル一二の二には同じ語が「導師」と訳されている)、人類の福祉のためにおのが生命をささぐるもの、従って人類の完全なる代表者たるもの、かくのごとき者がその君である。

イエスは「多くの子の救いの君」である。神は全人類の救いのために彼らの上にイエスを君として立てたもうたのである。これ人類を救うに人類そのものを直接の対象となさず、まずその代表者なる君を対象となし、彼において全人類を救わんとするの方法である。すなわち先ず君たるイエスをして理想の人たらしめ、しかるのち全人類をして彼に連なる事によって彼のごとくに化せしめんと欲するのである。さらにくわしくいえば、多くの人の子のひとりびとりを全うしてこれに人の子たるの光栄をかぶらす代わりに、まずただひとりの人の子イエスを全うして彼にその光栄をせ、しかるのちすべての人の子をして彼に結び付かしめて、もって彼イエスの人格をそのまま彼らの人格たらしめ、彼イエスの光栄をそのまま彼らの光栄たらしめんと欲するのである。

何ゆえに神はかくのごとき特殊の方法を取ったのであるか。答えて曰く「すべての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず」であるからである(ロマ三の二三)。すべての人の子は神にそむきたるがゆえに、もはや全うせられ光栄をかぶらせらるるにふさわしからぬものと成ってしまったのである。我らは自身についてその事を実感する。我らは神の前に立ち得べきものではない。我らは罪のゆえに死にたる者、呪われたる者、望みなき者である。我らは到底、人の子の光栄に値せざるものである。

ゆえに神が人類を救いたもうためには、新しき創造の必要があった。新たに第二のアダムを創造し、しかしてまず彼を人として全うし、しかるのち古き罪のアダムに属する子らをこの新しき全きアダムに属せしめ、もって彼らをして彼の人格と光栄とにあずからしむるのほか、人類を救うのみちは絶えたのである。イエスが君として全人類の上に立てられし所以ゆえんはここにある(君の原語 archegos は archegetes の短き形であるが、フィロはアダムを呼ぶに後者をもってしている。人類の君たるの使命においてイエスは第二のアダムであった)。

このゆえにイエスの苦難はただに彼自身の人格の完成のために必要なる試煉であったばかりでない。それはまた実に全人類が光栄に入るべき門であったのである。すなわちいう、「多くの子を光栄に導くに、その救いの君を苦難によりて全うしたもうは云々」と。君たるイエスが先ず全うせられて光栄を受くる事なくば、すべての人の子が光栄に入るの望みはない。しかしてイエスの全きさは彼の苦難によって実現すべきであった。イエスがもし苦しまなかったならば、彼は全うせられなかったであろう。従って全人類は救いにあずかるのみちなく、遂に滅亡に陥ったであろう。しかしイエスは受けしところの苦難によって従順を学んだ。彼は世にあるかぎり悩みを忍んだ。彼はエルサレムのために泣いた。彼はゲッセマネの園に血の雫のごとく汗しながら祈った。彼は十字架のうえに「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫んだ。これを見るもの何人もその意義を悟らなかった。彼らは、「見よ、エリヤを呼ぶなり」などと言うて、他人事ひとごとのように傍観した。最も親しき三人の弟子さえ、死ぬるばかりの彼の祈りを他所よそに眠った。何ぞ知らん、ここに人類の君たるものが彼らの救いのために限りなく苦き酒杯さかづきを飲みつつあったとは。イエスの苦難は畢竟ひっきょう彼自身のためではなくして、我ら全人類のためのものであった。

かくのごとくにして人類の救いのみちは開かれたのである。すべての人の子は神の光栄を受くるに足らない。しかし彼らに代わりて人の子イエスは限りなく苦しんだ。苦しみつつこれを避けようとせず、かえってその烈しき火におのが意思をさらして、これを全く聖意みこころにかなうものと化せしめた。ひとりの全き従順の人格がここに実現した。みずから進んで己を神にささげ切りたる人、神の意思をそのままに己が意思となしてしまった人、神のごとき自由をもって善を行い得る人、かかる人を見んことを神は永らく期待したもうたのである。しかるに今やその期待は遂にむくいられて、神は創造以来かつて例なき歓喜を覚えたもうた。すなわち彼はイエスを復活せしめ、これに天上天下一切の権力をあたえ、これをおのが右に坐せしめて、己に似たる光栄と尊貴とをおしみなくこれにかぶらしめたもうた。

しかしてこのイエスこそは人類の救いの君であった。彼は我らの代表者であった。彼の上に実現したるものは、すべて彼に結び付く者の上にも実現する。我らは神のまえに絶えて望みなき者であるが、しかし信じてイエスを受け入れるとき、彼の人格は我らの人格となり、彼の光栄は我らの光栄となるのである。我らは「キリストと共に光栄の世嗣よつぎ」である(ロマ八の一七)。我らの光栄のためにキリストは苦しんだのである。

人類が全うせられてキリストの栄光にあずかるの日をおもえ。その日我らはみな神に似たるものとなりて、聖き愛の生活を実現し得るであろう。我らの社会は「いと貴き玉のごとく透徹すきとおる碧玉のごとく」輝くであろう。天地もまた新しきものに化せられて、神の栄光に満たされるであろう。

この大いなる理想の実現は一にイエスの苦難にもとづく。彼のゲッセマネとゴルゴタとの経験の中に新天地の胚子がひそんでおったのである。まことに人類の光栄のためにその君を苦難によりて全うするは、万物の目的たり原因たる者に相応ふさわしき事である。