四 敵を承足とするまで

藤井武

詩人は預言者である。彼は見えざる世界を見、聴きがたき声を聴く。彼は霊に感じて天の国と未来の時との秘密を解する。

ダビデはしばしば来たらんとするメシヤすなわちキリストの事を歌うた。しかし大抵いつも自分の経験の上にキリストの経験の小さき模型を彼は認めたのであった。ただ一度だけ彼は自ら全く第三者の立場に立ってキリストの幻を見たことがあった。詩篇第百十篇はすなわちその記録である。

「エホバわが主にのたもう」以下僅かに七節のこの小詩は、実はたぐれなる意味深き預言である。新約の使徒たちはよくその事を解した。新約中に引用せらるる詩篇多しといえども、この一篇に及ぶものはない。福音書に行伝に書翰に黙示録に、前後およそ二十箇所、イエス自ら少なくとも二度びこの詩をもって自己を説明した。"Der haupt Psalm"(詩篇の主なるもの)とルーテルはこれを呼ぶ。

メシヤ預言の詩も少なくない中に、ひとりこの詩が主要の地位を占めるは何故か。けだし昇天のキリストの幻を示すものとして、この詩は旧約中ほとんど独一なるものであるからである。キリストの栄光の預言はその苦難の預言とともに旧約中に満ちている。しかし彼が十字架のあがないを果たしたのち、復活して天に昇り、しかしていかなる地位いかなる能力に入るべきかの具体的光景は、何人も明白にこれを予見することを許されなかった。しかるにこの大いなる秘密を蔽うとばりは、ただダビデの前に掲げられた。後年使徒ヨハネが霊感を受けて、開けたる天とその中のもろもろの奇しき出来事(遠き未来の)とをみとめたように、詩人ダビデもまた千年の昔にしてすでに、昇天せるキリストの幻を歴然と見ることが出来たのである。

エホバわが主にのたもう、
われなんじの仇をなんじの承足しょうそくとするまでは、
わが右に坐すべし。
エホバはなんじの力の杖をシオンより突きいださしめたまわん。
汝はもろもろの仇のなかに王となるべし。(詩一一〇の一、二)

そこは天のシオンであった。聖座のうえに坐したもうエホバがあった。その前に立てるひとりの人があった。それは今しがた昇天し来たりしキリストであった。エホバは彼にむかうて口を開いていうた、「われなんじの仇をなんじの承足しょうそくとするまでは、わが右に坐すべし」と。この言を聴いたときに、ダビデは何か大いなる杖がシオンから突きいだされるかのような予感をもった。しかして彼がもろもろの仇のなかに、すべてこれを支配するところの王と成るべきを確信せざるを得なかった。

これは明白にキリストの勝利の預言である。さらにくわしくいえば、エホバがキリストに対して与えし終局的勝利の保証と、それに基づくダビデの確信との発表である。

「われなんじの仇をなんじの承足しょうそくとするまでは、わが右に坐すべし」。承足しょうそくといい、右に坐するという、もちろん譬喩ひゆである。ダビデがかかる譬喩ひゆを通してエホバの言を聴いたのは、恐らくイスラエル歴史上に類似の事例があったからであろう。ヨシュアがギベオンに攻め上ったとき、彼はアモリ人の五人の王を捕らえ、おのが部下の将軍たちをして五王のくびに足をかけさせ、しかしてのちに彼らを殺戮さつりくした(ヨシュア一〇の二四)。敵を承足しょうそくとするはすなわち完全なる征服の象徴であった。またソロモン王の母がある願いをもって王のもとに進み出たとき、王はちて彼女を迎え、しかして己が右に特に王母の座を設けさせた(王上二の一九)。王座にあるものの右に坐するはすなわち最上の名誉の象徴であった(詩四五の九参照)。神は昇天のキリストを最上の名誉の地位に据え、しかしてこれに完全なる勝利の保証を与えたのである。

キリストの完全なる勝利とは何か。サタンとその業績との全滅である。罪とそれにもとづく一切のわざわいとの根絶である。死が生命に呑まれてしまう事である。人の目の涙ことごとく拭い去らるる事である。すなわちそれはキリストの勝利であると共に、またそのままに人類の勝利である。

復活して天に昇ったキリストが先ず受けたところの報償は、この勝利の保証であったとダビデはいう。しかし、キリストの勝利は始めより定まれる事ではなかったか。彼の地上の生涯がすでにその実現ではなかったか。その曠野の誘惑、そのゲッセマネの苦祷、その十字架と復活、これみな偉大なる勝利の記録ではなかったか。何ぞ昇天の後にして殊更ことさらに彼は勝利の保証を神より受くることを要したであろうか。

しからずである。キリストの勝利は決して始めより定まらなかったのである。否、かえって彼の地上の生涯は、勝敗の数が全然未決であったところに意味を有したのである。人の子イエスは勝つも負くるも一にその自由に委ねられた。神はいわば手をひいて上よりこれを傍観したもうた。もちろん祈りに応じて援助は送られたとはいえ、勝利の保証は絶対に与えられなかった。イエスは何処までもおのが自由の意思によって勝敗いずれとも定まらぬ悪戦を続くべきであった。敗北の危険は常に彼の身に附きまとうた。イエスがこの世にて経験したる道徳的生活は最も真実なる意味においての冒険であった。彼の感じたる誘惑は人みなの感ずるもののさらに強き牽引であり、彼の味わいし苦難は肉をもつ者にえがたき種類の脅威であった。

しかしながらイエスは遂にえた。彼はその最も人らしき柔らかき生命を挙げて、神に対する絶対の従順の実現に供してしまった。それは幾千億という人が昔から地上に出ながら、唯一人だに実行し得なかった事であると思えば、どのくらい驚異すべき事績であるかを測り知ることが出来る。人の子イエスの生と死こそは神を喜ばすに足るだけの絶大なる功業であった。

かかる絶大なる功業が完うせられたからには、それに相応する結果が何処かに起こらねばならぬ。もしイエスの従順が神を喜ばしめたならば、その神の喜びは何らかの形において発現するが自然である。

我らはおのずからイエスの功業に対する神の報償を予想させられる。

しかしてこの報償の一つがすなわち右のものであった。最後の勝利の保証である。今やキリスト・イエスの戦いは第二期に入ると共に、その性質を一変したのである。昨日まで彼は人としてのあらゆる弱さをもって唯ひとり悪戦し苦闘した。しかし今日よりは最早もはやさびしき孤軍奮闘ではない。

主はなんじの右にありて
その怒りの日に王たちを撃ちたまえり。
主はもろもろの国のなかにて審判さばきをおこないたまわん。
此処ここにも彼処かしこにもかばねを満たしめ、
ひろらかなる地をぶる首領かしらをうちたまえり。
彼れ道のほとりの川より汲みて飲み、
かくてこうべを挙げん。(詩一一〇の五~七)

エホバ彼の右にありて戦いたもう。エホバ彼のためにその敵を撃ちたもう。もちろん彼みずからもまた共に戦う。しかして戦いは決して容易でない。サタンとその全軍を滅ぼし、死をも陰府よみをも滅ぼし尽くすまでには、数多度び壮烈なる接戦を続けねばならぬであろう。その苦戦にキリストは疲れもし喘ぎもするであろう。しかしすべての困難に拘わらず、勝利は確実である。エホバこれを保証したもう。疲れても喘ぎても、キリストは倒れない。かれ一たび道のほとりの川より汲みて飲めば、新しき力さらに滾々こんこんうちに湧くであろう。かくてまたそのこうべを挙げて誇りやかに彼は追撃を続けるであろう、しかり、遂に一切の敵を滅ぼしつくすまで。

キリストの勝利、従ってまたすべて彼に属して戦う者の勝利は、天にて堅く保証せられる。しかしてその理由は一に彼が地上にて果たしたる功業にある。ダビデは我らにこの消息を伝えてくれた。これは我ら各自にとって意味浅き音信おとずれであろうか。我らの日々の生涯に関係なき詩人の夢に過ぎなかろうか。

人はいざ知らず、私は日々におのが戦いに危くも敗れようとする。私の戦いが勝利に終わるべき徴候は極めて微弱であって、反対にそれが敗北に帰すべき危険は私の身辺に満ちている。もし私が自分の業績によって前途を予測すべきであるならば、私は平明に絶望するよりほかない。

しかし私は自分を見ずして、彼をあおぐ。私はダビデに指示せられて、天の聖座に坐する私の主をのぞむ。見よ、彼処かしこに大いなる事実がある。神はわが主の勝利を約束したもう。これを約束したもうの理由は何か。彼の地上の生涯である。ことにその十字架の死である。これあるがゆえに神は彼の敵を彼の承足しょうそくとするまで彼を己が右に坐せしめたもう。

しからば彼に従うて戦うところの私の戦いがいかばかり苦戦であろうとも何であるか。私自身の今日までの業績がいたましき敗北に過ぎぬとも何であるか。勝利は他の理由によって定まるのではない。ただキリストの功業による。そのゆえに勝利は確く保証せられる。私としては側目わきめもふらずに、ひとえに彼に取りすがってありさえすればよい。何処までも彼に附随してゆきさえすればよい。事毎に彼を呼び彼に訴え彼にまかせさえすればよい。しからば私もまた彼と共に必ず勝つ。私の霊の願いはことごとく満たされる。私は必ず栄光を見る。