罪を負いたるアザゼルの山羊

藤井武

英国の画家ホルマン・ハントの画に「アザゼル」と題するものがある。寂しき夕陽を浴びたる一帯の連山と、濃藍色の重き水をたたえたる死海の湖とを背景として、積雪かと見紛う塩のきつめたる曠野に、一頭の山羊の徐々として歩めるを描きしものである。その骨格はたくましきも、かおには自ら悲痛の色を帯びて、わずかにこうべをもたぐるがごとき容子ようすである。周辺一樹の影を投ずるあるなく、満目まんもくの光景落莫らくばくとしてそぞろに人に迫る。こはいかなる山羊ぞ。その指して往く目的地は何処ぞ。画家は題材をレビ記第十六章に取ったのである。

かく彼れ聖所きよきところと集会の幕屋と壇のために贖罪あがないをなして、かの生ける山羊を引き来たるべし。しかる時アロンその生ける山羊のかしら両手もろてき、イスラエルの子孫ひとびともろもろの悪事と、そのもろもろ悖反もとれる罪をことごとくその上に承認いいあらわしてこれを山羊のかしらに載せ、選び置ける人の手をもてこれを曠野におくるべし。その山羊彼等の諸悪を人なき地に負い往くべきなり。すなわちその山羊を曠野におくるべし。(レビ一六の二〇~二二)

事はユダヤの大贖罪日における祭事の一つであった。この日祭司長さいしのおさは自己とその家族の罪祭のために牡牛を取りて贖いをなすのほか、またイスラエルの全会衆の罪祭のために、二頭の牡山羊を取りて贖いをなしたのである。すなわち彼は先ず、会衆の中より取りたる二頭の山羊を集会の幕屋のかどに置き、その各々のためにくじを引いた。くじの一つはエホバのためにするもの、他は「アザゼルのために」するものである(「アザゼル」は「除去」を意味する語)。しかしてくじの定まりし二頭の山羊のそこに立てる間に、祭司長は自己とその家族のためなる罪祭の牡牛を屠り、幕の内に入りて定められたる贖いの儀式を果たし、次に出で来たってさきにエホバのくじに当りし一頭の山羊を屠り、また幕の内に入りて全会衆のために前のごとき贖いの儀式を果たし、しかる後に生きのこれる一頭の山羊すなわちさきに「アザゼル」のくじに当りしものを引き来たりてその処分に移った。この山羊はこれを屠らずして曠野に放逐したのである。何のゆえぞ。「イスラエルの子孫ひとびともろもろの悪事とそのもろもろ悖反もとれる罪」をことごとく彼が頭の上に負わしめて、しかしてこれを「人なき地」に運び去らしめんがためであった。イスラエルの男女の大小一切の罪を、神と人との記憶より拭いて、その痕跡をもとどめざらしめんために、この一頭の山羊を犠牲として、彼等の罪と共にこれを見えざる所に葬らんがためであった。かくて大いなる罪の重荷をひとり己が頭に負い、行方も知らずただ人なき地に向かいて飄然ひょうぜんと歩み往く一頭の山羊が、かのハントの傑作に捉えられたる画題であったのである。

人の罪を「山羊の頭に載せ」という。いかにしてか。ことにこれを「人なき地に負い往かしむ」という。曠野をさまよいて、何処にまで往きたらば足れりとするのであるか。その思想の幼稚なる、笑うべしあわれむべし、と賢明なる現代人は言うであろう。しかしながら彼等イスラエル人はこの種の誹謗に値すべき民ではなかった。彼等の詩人は歌うて曰うた、「我れ何処いずこに往きて汝の聖霊を離れんや。我れ何処いずこに往きて汝のみまえを逃れんや。我れ天に昇るとも汝彼処かしこいまし、我れわが床を陰府よみに設くるとも、見よ、汝彼処かしこいます云々」と(詩一三九)。祭司長より放たれたる山羊の、たとえアラビヤの曠野を往き尽くし地のはてにまで到るとも、その頭に負いたる罪を神の記憶の外に運び去らん事の不可能なるを、最もよく熟知せる者は実に彼等であった。また彼等の預言者は疾呼して曰うた、「エホバ言いたまわく、汝等が献ぐる多くの犠牲は我に何の益あらんや……空しき祭物そなえものを再び携うることなかれ……汝等己を洗い己を聖くし、わが眼前よりその悪しき業を去り云々」と(イザヤ一章)。自ら罪より離るるにあらずば、幾百の牡山羊を犠牲として野におくるも何の益なき事は、現代人の注意を待たずして彼等のわきまえる所であった。しかり彼等は儀式の無益を十分に解しておった。しかるにも拘わらず、年々歳々、七月十日の到る毎に、彼等の祭司長はその全身を水に洗い、特に飾りなき白麻の衣をまといて、うやうやしくこの奉仕に当り、民等は深き敬虔の念と最も緊張せる心とをもって自ら「身をなやまし」つつこの祭事を迎えたのは何がゆえであるか。ユダヤ暦中その重要において大贖罪日に及ぶものなく、ラビ等は単に「その日」といいてこれを呼んだのは何がゆえであるか。他なし、儀式そのものの無益なるにも拘わらず、これをもって表現せられたる精神は、実に人の宗教的意識の最も深き所より発露したるものなるがゆえである。彼等ユダヤ人はすべて罪になやめる霊魂の切なる叫びを代表してこの奉仕に当ったのである。

人の霊魂のなやみは多くある。しかしながら何ものか罪の悩みにしくものがあろうか。わざわいなるは罪の意識に醒めたるたましいである。罪とは完全に対する不完全にあらず、強きに対する弱さにあらず、博愛に対する利己にあらずして、天地の造り主なる神に叛く事、聖なるエホバの法を踏みにじる事、神の独子ひとりごを十字架にくる事、それが我等の罪なるを知ると共に、平安は我等の胸より消え失するのである。おもい見よ、我等が唇に上りし一語の虚偽、我等が胸に湧きし一片の不潔も、上より見たもう者の心を傷くることまさにいかばかりなるかを。「死にし蝿は和香者かおりづくりあぶらを臭くし、これを腐らす」(伝道一〇の一)。罪のなやみのえ難き所以ゆえんは、わが胸中の小さき死蝿しにはえによりて天地の和香者かおりづくりの聖きあぶらを臭くしこれを腐らすにある。これあるによりて罪人の心一度ひとたび罪の責任をさとるや、あたかも巍々ぎぎたる高山のその根底よりゆるぎ出して我一人の上に倒れかからんとするを見るがごとく、我が罪の存在をもって宇宙に係わる最大問題と感ずるに至るのである。「我はわがとがを知る。わが罪は常にわが前にあり。我は汝に向かいてただ汝に罪を犯し、聖前みまえに悪しき事を行えり」。すべての罪は神に向かいての罪である。我等は常に聖前みまえに悪しき事を行いつつある。神はことごとく我等の罪を記憶したもう。たとえ今より悔い改むるとも、すでに犯したる大小無数の罪を如何いかんせん。罪の回想は悔改者をして戦慄せしむ。ああ、えがたき記憶!神わが一切の罪を忘れたもうにあらずば、平安は絶対に我心に臨まないのである。ゆえに我等もまた詩人と共に衷心ちゅうしんより叫んで曰う、「願わくは聖顔みかおをわがすべての罪よりそむけ、わがすべての不義を消したまえ」と(詩五一の九)。我等もまたアザゼルのくじに当りし山羊を要求する。我等の「もろもろの悪事ともろもろ悖反もとれる罪」をことごとくその頭に載せて、これを人なき地に負い往くべき犠牲の山羊を要求する。我等の一切の罪を運びて、神の目の届かざる所に葬り去るべき聖なる犠牲を要求する。

神は罪人のこの切なる願いに耳を傾けたまわないか。彼は何人かを我等のための「アザゼルの山羊」としておくりたまわなかったか。見よ十字架上の主イエスを。「誠に彼は我等の病患なやみを負い我等の悲しみを担えり……エホバは我等すべての者の不義を彼の上に置きたまえり」(イザヤ五三の四~六)。彼は我等の一切の罪を担うて、これを「人なき地」に運びたもうたのである。彼は何処にこれを運びしか。我等は知らない。ただ我等は知る、すべて彼を信ずる者の一切の罪の再び記憶にかえらざる事を。神は彼によりて「我等のもろもろの罪を海の底に投げ沈め」たまいし事を。彼を信ずる我等は全く新たに造られたる、罪の責任なき者として神の前に立つを得る事を。これ誠にいかばかりの恩恵であるか。

アザゼルの山羊は当歳のきずなき立派なる牡山羊であった。しかるに彼はイスラエル人の罪の犠牲となって曠野に放逐せられ、何処ともなく彷徨さまよいて、遂に独り寂しく野末にうちたおれたであろう。我等は画家の筆に描かれし彼の姿を見てうたた同情の涙にえない。しかしながら彼の姿のかくして視界より消え往くを見守りしときに、イスラエルの男女の心に大いなる歓喜があったのである。「彼は我等のとがのために傷つけられ、我等の不義のために砕かれ、自ら懲罰こらしめを受けて我等に平安を与う。その撃たれしきずによりて我等は癒されたり」。我等のための「アザゼルの山羊」もまたその罪なき身をいたましく十字架の上に懸けた。しかしながらこれを仰ぐ時にのみ我等の心に平安は臨むのである。彼れかくのごとくして我等の罪を忘却の野に運びたまいてこそ、我等罪人の心よりえがたき重荷は落ちたのである。神の聖前みまえに犯せしわがもろもろの罪永遠に消え果てたりと聞きて、初めて我等の心は躍り、鷲のごとく翼を張りて昇るのである。罪人に対する平安の供給者はアザゼルのくじに当りし山羊である。

附言 こはすなわちすでにみたされたる預言である。しかしていまだみたされざる預言の成就はこの大いなる事実にその根拠を置く。キリストの再臨は彼の贖罪が結ぶべき当然のである。