旧約における預言中すでに間然する所なく成就したものが少なくない。なかんずくバプテスマのヨハネの出現、主イエスの生誕及びその受難等に関するものは最も著しき例である。「視よ、我れわが使者を遣わさん。彼れわが面の前に道を備えん」(マラキ三の一)といい、「見よ、処女孕みて子を生まん」(イザヤ七の一四)といい、「その六十二週の後にメシア絶たれん。ただしこれは自己のためにあらざるなり。また一人の君の民来たりて邑と聖所とを毀たん(紀元七十年のエルサレム滅亡)」(ダニエル九の二六)というがごとき、またイザヤ書五十三章のごとき、その他挙げ来たれば際限がない。実に今や歴史をもって預言を証明し、事実をもって旧約を解釈するは、甚だ愉快にしてかつ困難ならざる事業となったのである。
しかしながら旧約中の主要なる預言にして未だ全く充されざるままに存しているものもまた決して少なくない。しかしてすでに充されたる預言が人生の希望に関する最も高貴なるものなりしがごとく、未だ充されざる預言もまた全人類の運命に関する極めて重大なるものである。
その第一はイスラエルに関する預言である。イスラエルはいわゆる選民であった。彼等の始祖アブラハムは特にその国と親族と父の家より別たれて、神の示したもう地に至らん事を命ぜられた。また彼によりて天下の諸々の宗族は福祉を得ん事を約束せられた。しかしてアブラハムに対する神の約束はまたイサク、ヤコブに対しても繰り返された。このごとくにして選ばれたるイスラエルが、異邦の民と異なる特別の使命を帯ぶるは実に当然である。異邦の歴史は人の生活を前景とし、神の摂理を背景とするに対し、イスラエルの歴史は神を前景に、人を背景に立たしむるものである。歴史は偉人の伝記なりとの真理もイスラエルについては必ずしも妥当でない。彼等にありては歴史は神の計画の直接なる発表であった。世界何の邦にかイエス・キリスト出現以前に神の意思について明白なる啓示を受けたるの民があるか。およそ全地の表面に散らされたる叛逆の民等(創世一一の八)が再び神を憶うの機会は、わずかにこれを天然と良心とに委ねらるるに過ぎなかった(ロマ一章参照)。しかるに独りカナンの地を与えられしアブラハムとその子孫とは、常に親しく神の声を聴くことを許された。神は先ず限りなき恩恵の約束をもって彼等を導きたもうた。次に峻厳なる律法をもって、人に対する神の要求の何たるかを示したもうた。従ってまた人その罪のゆえにいかばかり神の要求に副うの難きかを明らかならしめたもうた。しかしながらかく律法をもって人を罪の下に閉じ籠めたまいしは、これを信仰に導かんがためであった(ガラテヤ三の二二)。ゆえに神はまた同時に幕屋の儀式と祭司の職分と献供の祭事とを制定して、もって救贖の途の那辺に開かるべきかを予め悟らしめたもうた。しかるにイスラエルのこれを悟らず、かえって罪を重ぬるを見たもうや、神はさらに幾多の預言者を送りて、切々にその悔い改めを促したもうた。
約束あり、律法あり、預言あり、イスラエルの歴史を織り成す経糸はかくも鮮やかなるものであった。これ皆他のいずれの民族も有せざる所の特権である。イスラエルは実に選民の名をもって自ら誇るに足る。彼等は救い主出現の暁に、躊躇する所なくこれを迎えて、その福音を万邦に宣伝せんがために選ばれたのである。彼等もまた「燈を執りて新郎を迎えんがために選ばれたる十人の童女」であった。しかしながら彼等は果たしてその備えをなしたか。新郎初めて来たりし時にも、燈と共に油を携えたる賢き童女はいと少数であった。イスラエルは全体として愚かなる童女であった。油を買わんとて往きし間に、婚筵の門は閉ざされて、選ばれたる彼等はかえって外に残さるるに至った。見よ千三百万のユダヤ人今いかにしてありや。国なく地なく、かつ福音のために何の勤むべき役目もなくして、空しく諸方に散らされているのである。キリストは異邦人に迎えられ、選民今はかえって斥けられたるの民である。かくて「イスラエルの子等は、多くの日、王なく君なく犠牲なく表柱なくエポデなくテラピムなくしておらん」(ホセア三の四)、「我すなわち命を下し、篩にて物を篩うがごとくイスラエルの家を万国の中にて篩わん。一粒も地に落ちざるべし」(アモス九の九)、との旧き預言はそのままに成就したのである。
しかしながらイスラエルはかくしてついに滅ぶべきであろうか。彼等は果たして亡国の民であるか。否、史家は言う、ユダヤ人の保存は聖書の保存と共に最も驚くべき事実であると。イスラエルの使命は今なお決して廃滅に帰さないのである。彼等の未来はその過去のごとくに、否むしろさらに光輝あるものである。神は再び彼等を集め、彼等の心に大いなる信仰を起こし、しかして末の日に彼等を中心として万民に恩恵を施さんと欲したもうのである。見よ、未だ充されざる左のごとき預言を。
汝の目を挙げて、汝のおる所より西東北南を瞻望め。およそ汝が見る所の地は我これを永く汝の裔に与うべし。(創世一三の一四、一五)
汝たとえ天涯に逐いやらるるとも、汝の神エホバそこより汝を携え帰りたまわん……しかして汝の神エホバ汝の心と汝の子等の心に割礼を施し、汝をして心を尽くし精神を尽くして汝の神エホバを愛せしめ、かくして汝に生命を得させたもうべし。(申命三〇の一~六)
見よ、我れわが震怒と憤恨と大いなる怒りをもて彼等を逐いやりし諸の国より彼等を集め、この処に導き帰りて、安然におらしめん。彼等は我民となり、我は彼等の神とならん。(エレミヤ三二の三七、三八)
我彼等に唯一の心を与え、新しき霊を汝等の衷に授けん。(エゼキエル一一の一九)
末の日にエホバの家の山は諸の山の頂に堅く立ち、諸の嶺よりも高く挙がりて、すべての国は流れのごとくこれにつかん。多くの民往きて相語り曰わん、いざ我等エホバの山に登り、ヤコブの神の家に行かん、神我等にその道を教えたまわん、我等その路を歩むべし云々。(イザヤ二の二~三)
誠に「幾分のイスラエルの頑梗は異邦人の数満つるに至らん時まで」である(ロマ一一章)。アブラムの聖別に始まりしイスラエルの使命は、末の日に至りてついに成就するのである。遠大なるかな、ユダヤ人の希望!未だ充されざる旧約の預言の第二は異邦人に関するものである。アブラム神に召されて以来、イスラエルが選民として神の子の来臨に備えつつありし間、異邦人は暫く救贖に関する神の計画の矢面に立つ事を許されなかった。しかしながら彼等は決して神の目より斥けられたのではない。曰う、「至高者人の子を四方に散らして万の民にその産業を分かち、イスラエルの子孫の数に照らして諸の民の界を定めたまえり」と(申命三二の八)。彼等の産業と地の界とはまたエホバの定めたまいし所にして、しかもその選民との関係を最も適当に顧慮してこれをなしたまえりとの義である。ゆえに異邦人は救贖の器として選ばれざりしも、その目的物として均しく摂理の聖手の下に在ったのである。イスラエルの選ばれたるはすなわち異邦人のためであった。しかるに選民一度び躓くや、その使命は暫く移されて異邦人に渡った。「オリブの幾許の枝折られて、野のオリブこれに接がれ」たのである。ここにおいてか異邦人の責任はその名誉と共にまた甚だ重しと言わざるを得ない。
しかるに異邦人もまた全体として躓きつつある。千九百年間のキリスト教歴史は明らかにこの事を証明するのである。その使徒時代末期における異端との結合、その四乃至七世紀における国家との抱擁、その長き中世時代における法王制度の腐敗、その近世における批評主義の跋扈、殊に現代におけるキリスト教国の堕落のごとき、決して「嘉きオリブの根によりその汁漿を受くる」所の接枝の状態ではない。殊に異邦人の大多数は今に至るまでユダヤ人と均しく福音の敵である。このごとくにして彼等自身もまた早晩切り棄てられんとするの危険においてあるのである。
しかしながら異邦人の最後もまた滅亡ではない。
天下の諸の宗族汝によりて福祉を得ん。(創世一二の三)
諸の国は汝の光に行き、諸の王は照り出づる汝が光輝に行かん。(イザヤ六〇の三)
時来たらば諸の国民と諸の族とを集めん。彼等来たりてわが栄光を見るべし。(イザヤ六六の一八)
我れ彼等(イスラエル)及びわが山の周囲の諸の処に福祉を下し、時に従いて雨を降らしめん。これすなわち福祉の雨なるべし。(エゼキエル三四の二六)
その他類似の預言は一々挙げて数えることが出来ない。しかしてこれらの預言の成就は何の日においてあるか。過去においてあらず、現在においてあらず、もし神の預言にして失する事なく必ず充さるべきならば、異邦人の前途また極めて多望である。イスラエルと異邦人との間に超ゆべからざる墻壁を樹つるものは旧約聖書である。されども末の日において彼等が均しく福祉の雨に浴すべきを預言するものもまた旧約聖書である。
イスラエルの完成と異邦人の救済とに次いで、旧約聖書はまた万物の改造を預言する。万物はその創造の初めに当りてことごとく神の善しと見たまいし所であった。しかるに人の堕落は延いて天然の敗壊を招くに至った。アダムその妻の言を聴き神の禁じたまいし樹の果を食らいしによりて、「土は彼のために誼われ」たのである(創世三の一七)。爾来万物に元始の調和は失われて、天然界もまた人と共に争闘荒敗の奴となった。狼は小羊を噛み、獅子は小牛を襲い、蛇と蝮とは毒気を貯え、荒野と砂漠とは死の蔭に蔽われ、山と岡とは憂色を帯びて黙し、野にある木はしばしば悲調を奏でている。人よ、万物に同情せよ。その日夜絶えざる無声の呻吟に耳を傾けよ。しかして祈るべき所を知らざる彼等のために自ら言いがたきの歎をもって祈れよ。彼等の受けつつある呪誼の責任は実に汝人類に在るではないか。
しかして人類の完成を約束する旧約聖書は、同時に万物の完成をも預言するのである。すなわち神の救済は人類より天然にまで及ぶべしという。すべての受造物は敗壊の奴より脱れて神の子の自由に参与すべしという。かくて預言者の目に映じたる新しき世界の姿はいと鮮やかなるものであった。
狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢小獅子肥えたる家畜共にいて小さき童子に導かれ、乳子は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの児は手を蝮の穴に入れん。かくてわが聖き山の何処にても害う事なく傷る事なからん。そは水の海を蔽えるごとくエホバを知るの知識地に充つべければなり。(イザヤ一一の六~九)
荒野と湿いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランの花のごとくに咲き輝かん、盛んに咲き輝きて喜びかつ喜びかつ歌い、レバノンの栄えを得カルメル及びシャロンの美わしきを得ん。彼等はエホバの栄えを見、我等の神の美わしきを見るべし。(同三五の一~二)
山と岡とは声を放ちてみまえに歌い、野にある木は皆手を拍たん。(同五五の一二)
見よ我れ新しき天と新しき地とを創造す。(同六五の一七)
エホバ統御めたもう。全地は楽しみ多くの島々は喜ぶべし。(詩九七の一)
美わしきかな平和と歓喜と生命とをもって充つるの天地。しかしてこれ未だ充たされざる預言の第三である。
イスラエルと異邦人と万物、彼等は現在においてあるいは棄てられ、あるいは躓き、あるいは呪われている。しかしながら神は完全なる自由と栄光とをもって彼等の将来に備えたもう。神はいかにしてこの限りなき恩恵を実現したもうのであるか。全人類とすべての受造物との完全なる救済のために神の取りたもうべき最後の方法はいかん。旧約の預言は自らここに及ばざるを得ない。しかしてこの点に関するエホバの黙示はまた極めて光輝あるものである。すなわち栄光の王の出現及びその政治に関する預言はその一である。主の日に関する預言はその二である。
栄光の王とは誰ぞ。一度び来たりて苦難を受けたるメシアすなわちキリストである。苦難と栄光とは預言者がキリストについて伝えたる二大証明であった。「イエス曰いけるは、預言者のすべて言いたる事を信ずる心の遅き愚かなる者よ。キリストはこれらの苦難を受けてその栄光に入るべきにあらずや」(ルカ二四の二五、二六)。「汝等が受くる所の恩を預言せし預言者等はこの救いに係わる事を探索めかつ推究ねたり。すなわち彼等その衷に居るキリストの霊、キリストの受けんとする苦難とその後得んとする栄光とを預め証したる、こはいずれの日いかなる時を示せると推究ねたり」(前ペテロ一の一〇、一一)。彼等は遂にキリストの栄光がいずれの日において実現すべきかを明白に知る事が出来なかった。しかしながらそのいずれの日なるにもせよ、キリストは必ず栄光を帯びて来たりたもう。しかして全人類と万物とに完全なる救いを施し、とこしえに平和の政治を行いたもうとは、彼等の受けたる至高の黙示にして、またその動かすべからざる確信であった。
杖ユダを離れず、法を立つる者その足の間を離るる事なくして、シロ(平和の人)の来たる時にまで及ばん。彼に諸の民従うべし。(創世四九の一〇)
門よ、汝等の首を挙げよ。永久の戸よ、上れ。栄光の王到りたまわん。(詩二四の七)
政事はその肩にあり。その名は奇妙また議士また大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事と平和とは増し加わりて窮りなし。(イザヤ九の六、七)
正義をもて貧しき者を審判き、公平をもて国の中の卑しき者のために断定をなし云々。(同一の四)
万軍のエホバ……この山にて諸の民の被れる面覆いと諸の国の蔽える外衣とを取り除き、永久まで死を呑みたまわん。主エホバはすべての面より涙を拭い、全地の上よりその民の凌辱を除きたまわん。(同二五の六~八)
汝の死ぬる者は生き、わが民の屍は起きん。塵に伏す者よ、醒めて歌うたうべし。汝の露は草木を湿す露のごとく、地は亡き魂を出さん。(同二六の一九)
シオンの女よ、大いに喜べ。エルサレムの女よ、呼ばわれ。見よ、汝の王汝に来たる……我れエフライムより車を絶ち、エルサレムより馬を絶たん。戦争弓も絶たるべし。彼れ国々の民に平和を諭さん。その政治は海より海に及び、河より地の極に及ぶべし。(ゼカリア九の九、一〇)
我また夜の異象の中に見てありけるに、人の子のごとき者雲に乗りて来たり、日の老いたる者の許に到りたれば、すなわちその前に導きけるに、これに権と栄と国とを賜いて、諸民諸族諸音をしてこれに仕えしむ。その権は永遠の権にして移り去らず。またその国は亡ぶる事なし。(ダニエル七の一三、一四)
人の子のごとき者雲に乗りて来たる。彼は栄光の王すなわち「諸の主の主王の王」である。彼は死者を復活せしめ、大いなる審判を行い、万物をその権威の下に服せしめ、全世界に平和を諭し、しかして永遠に亡びざる聖き福なる国を実現すべしと。実に壮大窮りなき預言である。しかしてこの預言の未だ全く充されずして存する事は言うまでもない。メシアはすでに一度び来たりしといえども、彼によりて充されしものはその苦難に関する預言のみであった。受難者として、彼はいみじくも旧約の貴き半面を完成した。しかしながら均しく貴き他の半面は今なお約束のままである。キリスト甦りて天に昇り父の右に坐したるは、すなわち栄光たるに相違なしといえども、これ彼のやがて受くべき大栄光の発端たるに過ぎなかった。後彼れ再び地に来たりて「諸の政及び諸の権威と能とを滅ぼし、国を父の神に付さん」その時に至り、キリストの栄光は初めて完成するのである(前コリント一五の二四)。彼の復活と昇天とは実は再臨の準備である。再臨を信ぜずしてキリストの栄光を解することは出来ない。しかしてキリストの栄光を解せずして復活昇天は全く無意義に終る。その事は前掲のルカ伝二十五章二十六節に記されたるエマオ途上における復活の主自身の解説と、ペテロ前書一章十、十一節におけるペテロの証明とに照らして疑いの余地がない。何となれば預言者の明白に預言したる栄光は、メシアの復活または昇天にあらずして、その王としての出現及び治政(すなわち再臨)であった。しかして主自身も使徒ペテロも、主の復活を説明せんとして、この預言者の証明すなわち再臨の栄光を持ち出したからである。再臨の光をもってする復活の説明、これイエス及びペテロの下したる解釈であった。何のための復活ぞ、再臨せんがためである。復活体とは何ぞ、再臨の時の状態である。復活に基づくペンテコステの日の出来事すなわち聖霊の降臨と、それ以来の臨在とは何ぞ、信者をして再臨の主を迎えその恩恵に与らしめんがための質である(後コリント五の五、エペソ二の一三)。キリストとの霊的交通によりて享くる歓喜と平安と自由とは何ぞ、信者もまた復活体を賦与せられ面を合わせて主と相見ゆべきその時の経験の前味ではないか。嘲者あるいはいう、再臨信者は聖霊の内在と霊的交通とによる喜ばしき実験を味わわざる者であると。何ぞ知らん、この言かえって嘲者自身の信仰状態を裏切るものなる事を。
栄光のメシアの出現及び神の国の設置がいずれの日において成るべきかは預言者の知らざる所であった。しかしながら彼等はこの最後の恩恵の実現せんとするや、必ず大いなる特徴のこれに伴うべきを啓示された。そは全く他の時と区別せらるべき特別の時期である。ここにおいてか旧約聖書の一大偉観たるいわゆる「主の日」に関する多くの預言は発生したのである。
主の日とは主の完き顕現及びその前後の著るしき時をいう。ゆえにそは最大歓喜の日なると共にまた最大恐怖の時である。何人のために歓喜の日なるか、彼を待ち望む者のためにである。何人のために恐怖の時なるか、彼にそむきし者のためにである。新婦の新郎を慕うがごとく真実にキリストを慕いその来たるを待ち焦るる者に取りて、いずれの日かこれよりも喜ばしかろう。
シオンの子等は己が王のゆえによりて喜ぶべし、彼等躍りつつその聖名をたたえ琴鼓にてエホバをほめ歌うべし。(詩一四九の二、三)
天は喜び、地は楽しみ、海とその中に盈つる者とは鳴りどよみ、田畑とその中のすべてのものとは喜ぶべし……エホバ来たりたもう。地を審判かんとて来たりたもう。(詩九六の一一~一三)
しかしながら主の日の顕著なる特徴はむしろその異常なる畏ろしさにおいてある。けだしこれ叛逆者に対する最後にして最大なる警告と審判との時であるからである。F・C・オットマン氏曰う、「およそ世界の文学中人の恐怖心に訴えるものにして、かのヘブル預言者が主の日の到来を描く言のごときはない」と。
エホバ立ちて地を震動せしめたもう時、人々はその恐るべき容貌とその稜威の光輝とを避けて、巌の洞と地の穴とに入らん……汝等鼻より息の出入する人に倚る事をやめよ。かかる者は何ぞ数えるに足らん。(イザヤ二の一九、二二)
地に住む者よ、恐怖と陥穴と罠とは汝に臨めり。恐怖の声を脱るる者は陥穴に陥り、陥穴の中より出づる者は罠にかかるべし。そは高き所の窓開け、地の基震動すればなり。地は砕けに砕け、地は破れに破れ、地は揺れに揺れ、地は酔える者のごとくよろめきによろめき、仮庵のごとくふり動く。その罪はその上に重く、遂に倒れて再び起くる事なし。(イザヤ二四の一七~二〇)
見よ、災出でて国より国に至らん。大いなる暴風地の極より起こるべし。その日エホバの殺したもう者は地の此の極より地の彼の極に及ばん。彼等は悲しまれず集められず葬られずして地の面に糞土とならん。(エレミヤ二五の三二、三三)
エホバの大いなる日畏るべき日の来たらん前に、日は暗く月は血に変わらん。(ヨエル二の三一)
その日は忿怒の日、患難及び痛苦の日、荒れかつ亡ぶるの日、黒暗また小暗き日云々。(ゼパニア一の一五)
誠実をもて預言者の言を聴くべし。さらば誰か主の日を思うて戦慄しないであろうか。これ実に「国ありてより以来その時に至るまで未だかつてあらざりし艱難の時」である(ダニエル一二の一)。しかり大いなる艱難の時である。しかしながらそは全世界の産みの苦しみである。この時イスラエルは信仰を回復し、異邦人は新しき恩恵に入らんとし、しかして天地もまた改造の準備をなすのである、主の日なくして救済はその終局に達しない。
主の日の到来と栄光の王の出現、終末時代の艱難と神の国の建設、イスラエルの完成と異邦人の救済、信者の復活と万物の改造、最後の審判と永遠の平和、数え来たればいずれも宇宙人類の最大問題ならざるはない。しかしてこれをすでに充されたる預言と対照するに及んで、我等は救済に関する神の智と識との富の深きに驚歎し、その無限の愛を憶うてさらに感謝と讃美とを繰り返さざるを得ない。「願わくは世々栄れ神にあれ、アーメン」。