失敗の夜と希望の朝

藤井武

聖書が人の書と異なる最も著しき特徴は、その人の真相を明白ならしむる点にある。人の書はみな曰う、「人は進化す」と。されども聖書は曰う、「人は失敗す」と。しかして聖書はこれを個人の経験に訴え、これを人類の歴史によりて証明し、またこれを神の預言によりて主張する。実に聖書は一面よりこれを見れば人類の失敗史にほかならない。失敗また失敗、その創造の初めより天地のする時に至るまで、人類は神の前に根本的失敗を繰り返すのみとは、聖書が大胆に明言する所の一大事実である。

人の失敗はアダムの堕落以来絶えず行われつつある。しかしながら人自らはその失敗たる事をさとらずして、かえって自ら進化しつつありと妄想するのである。これゆえに神は人の失敗の絶頂に達する毎に、必ずある特殊なる審判を下して、その全然失敗たる事を明らかにし、もって人をして言い逃るべきみちなからしめたもう。しかして同時にまた神は新たなる恩恵を下して、失敗を善導せんと欲したもう。しかるに人のなす所はさらにまた失敗の繰り返しに過ぎない。かくて審判あり恩恵あり、希望ありまた失敗がある。「斥候ものみよ、夜は何の時ぞ。斥候ものみ答えていう、あした来たりまた来たる」(イザヤ二一の一二)。夜は人の失敗である、またこれに伴う神の審判である。朝は神の恩恵である、またこれに伴う人の希望である。朝来たり夜また来たる。かくのごときものを繰り返す事過去においてすでに幾度いくたび、現に今なおこれを繰り返しつつある。しかして未来にもまたこれを繰り返すべしと聖書は預言するのである。

失敗の濫觴らんしょうは言うまでもなくエデンの園においてあった。アダムは何故にエホバの審判を招いたか。彼は自ら「神のごとくならん」と欲したからである(創世三の五)。これ実に人の失敗の真因である。アダムは自己の進化を信じた。彼は善悪の樹のを食らいてその目開けし時、ひそかに自己の成功を祝したであろう。しかしながら何ぞ知らん、進化はかえって最大の失敗であったのである。アダムはこれがためにエデンの園より放逐せらるるに至った。

しかしながらエホバの審判はまた彼の恩恵を伴うた。すなわち「おんなすえは蛇のかしらを砕かん」との大いなる約束はこの時与えられたのである。しかしてエホバは後にこの約束をかとうせんがため、貴き実例をもってその典型を示したもうた。「エノク神と共に歩みしが、神彼を取りたまいければらずなりき」。見よ短かき一語いかに深き真理を蔵するかを。人常に神と共に歩みて、死は遂に彼を見舞うことが出来ないのである。彼は神の取り去りたもう所となりて、永久に神と共にあるのである。神がその子キリストをもって我等人類に施さんと欲したもう救贖きゅうしょく畢竟ひっきょうするにこれである。しかしてかの「蛇のかしらを砕かん」との預言もまたこの救贖きゅうしょくの完成を指すものにほかならない。

ここにおいてか堕落者アダムの子等にもまた新たなる希望があった。そのある者は「エホバの名を呼ぶことを始め」た(創世四の二六)。しかしながら多数者は依然として罪の中に歩んだ。殺戮はひとりカインのみの行為ではなかった。W.G.スクロッギー氏嘆じて曰う、「吾人の手に存する人類最初の詩の断篇は実に殺戮の讃美である」と(創世四の二三、二四参照)。しかして彼等はあるいはまちを建て、あるいは工芸を興し、あるいは音楽を習った(創世四の一七~二二)。人口は著るしく増加し、幾多の勇士と名声ある人々とが輩出した(創世六の一、四)。かくて彼等は自らその進化を誇り文明をうたったであろう。されども神の目より見て彼等のなす所は全然失敗であった。「エホバ人の悪の地に大いなると、その心の思いのすべてはかる所の常にただ悪のみなるを見たまえり。ここにおいてエホバ地の上に人を造りし事を悔いて心に憂えたまえり」(創世六の五、六)。朝来たり、夜また来たる。神の大いなる審判は彼等を襲うた。洪水は彼等をことごとく地より拭い去りて、ただノア及び彼と共に方舟はこぶねにありし者のみ残った。

洪水の後に来たりしものはまた新たなる恩恵の契約であった(創世九の一~一七)。神はこの契約を永遠に覚えんがため、雲の中に虹を起こしてそのしるしとなさん事をさえ誓いたもうた。しかして方舟はこぶねより出でたるノアは直ちに神のために壇を築きて燔祭をその上に献げた。これ神のよみしたもう所であった。しかしながら彼はやがて農夫となりて葡萄園を作るや「葡萄酒を飲みて酔い、天幕の中にありて裸になれり」という。この頃よりして彼の一族の罪はようや顕然あらわになった。しかして遂に彼等の子孫東方に移住し、まちと塔とを建ててその塔の頂を天に達せしめんとくわだつるに及び、人のふるき罪はまた彼等によりて遺憾なく代表せられたのである。果然ここに再び大いなる審判の聖手みてが動いた。彼等は彼処かしこより全地の表面に散らされ、その言語はことごとく淆乱こうらんせしめられた。希望をもって始まりし新時代は、再び根本的失敗をもって終った。

バベルに次ぐものはアブラムの召命である。イスラエルの聖別である。歴史はここに全く新たなる経路に入った。もろもろの恩恵はイスラエルの上に集中した。契約あり、律法あり、預言あり。選民の特権はいとも貴きものであった。神はしばらく異邦人を打ち棄て、ひとえにイスラエルを顧みたもうたのである。これすなわち彼等をして神の独子ひとりごイエス・キリストを受けしめんがためであった。

しかしてイスラエルは流石さすがに神のために熱心なる民であった(ロマ一〇の二)。彼等はひたすらに義を追い求めた。しかしながら彼等もまた信仰によりてこれを求めず、行為によりてこれを求めた。神の前に自ら義たらんと彼等はつとめた。ああ執拗なる人の高ぶり!アダムの罪はイスラエルの血の中にも流れた。これゆえに彼等もまたふるき失敗を繰り返した。己が主キリストをかえって十字架につけて、彼等は何よりも先ず自己の罪を証明したのである。ゆえに十字架そのものが彼等に対する神の大いなる審判である。しかしてこの大いなる審判の後にエルサレムの破滅と彼等の散乱とが続いて起こった。

最大の闇黒は十字架である。されども最大の光明もまた十字架である。人類はイスラエルをその指導者として救い主を彼処かしこにつけ、もって自ら生命のみちを絶ってしまった。しかしながら神はこの十字架をもって人類の罪を除却したもうた。「キリストは……いま代の終わりに至り己を犠牲いけにえとなして罪を除かんために一たび現われたまえり」(ヘブル九の二六)。十字架はイスラエルの代の終わりにおける神の審判なると共に、また新らしき代の希望たるべき絶大の恩恵であった。しかして十字架の結果として、キリストの復活あり、昇天あり、昇天の結果として聖霊の降臨あり、新時代のあしたの光は燦然さんぜんとしてまばゆきばかりであった。ユダヤ人ギリシャ人奴隷自主の別なく、キリストを信ずる者はみな一つみたまにてバプテスマを受けて一体を形作った。これすなわち神の教会である。しかして教会は万国の民に福音を伝えつつある。教会は地の塩である、世の光である。

アダムの堕落に始まりし人類の失敗は代々相続いた。神の審判は幾度いくたびか地に下った。しかしながら今や聖霊は教会を動かしつつある、ゆえに教会によりて世界はついに神の国となるであろう、人類の失敗は十字架をもって終ったのである、神の審判は再び我等を見舞わないと。かくのごときは今日最も普通に行わるる所の思想である。キリスト者これを信じ、神学者これを信じ、不信者またこれを信じている。しかして実に教会は自ら世界を改善せんとつとめつつある。その伝道そのものが改信者の予定数を根拠として行わるる社会事業の一種である。その他教会は多くの事業を営みて各方面よりこの世の改良を図っている。従って世と提携する事は彼等の辞せざるところ、否むしろその望む所である。世が彼等を認容し尊敬する事はすなわちその事業の成功のしるしとして彼等の喜びかつ誇る所である。かくのごとくにして教会は確かに世の勢力と成りつつある。しからば人類は遂に教会において成功するのであるか。世界は遂に教会によりて理想国と進化するのであるか。ああ果たしてしかるか。

この問題に対する聖書の解答は余りに明白である。その許多あまた本文テクストをここに一々引用することは出来ない。しかしながら一事は確実である。すなわち新約聖書はその始めより終わりに至るまでかつて一回の例外もなくして、理想国が教会の努力によりて来たらざる事、この時代の終局もまた人類の失敗にほかならざる事を繰り返せる事これである。聖書は曰う、「人の子来たる時信を世に見んや」と(ルカ一八の八)。すなわち人類の多数は代の終わりに至るまで不信者であると。また曰う、「毒麦と麦とふたつながら収穫かりいれまで育つにまかせよ」と(マタイ一三の三〇)。すなわち教会その者の中に偽信者は絶えないと。また曰う、「その時多くの人躓き、かつ互いに渡し互いに憎まん。多くの偽預言者起こりて多くの人を惑わさん」と(マタイ二四の一〇、一一)。すなわち代の終わりに近づきて人類の失敗は益々はなはだしと。しかしてまた曰う、「その時大いなる患難なやみあらん、世のはじめより今に至るまでかかる患難なやみはなくまた後にもなからん」と(マタイ二四の二一)。すなわちキリスト再び来たりたもう時、少数の真信者は携え挙げらるといえども、多数の偽信者と不信者とは地にのこされて、ここに未曾有の大患難は彼等すべてに臨むのであると。

すなわち知る、真正なる教会は最後まで小さき群れに過ぎない。彼等を除きし人類の大部分は依然として失敗に終わるのである。世と提携して社会を改善せんとする偽教会は全然失敗に終わる。キリストに敵して人類の進化を図る多数の不信者もまたもちろん失敗である。教会は失敗し、全人類は失敗する。理想国は彼等の努力によりて決して実現せざるのみならず、代の終わりに至りて彼等に臨むものは恐るべき神の審判である。すなわち全地にわたる未曾有の患難である。朝来たり、夜また来たる。人はついに失敗の子たるを免れない。

しかり、人はついに失敗の子である。彼は自ら進化せんと欲して永久に進化することが出来ない。かえって大いなる審判をその身に招くのみである。しかしながら最後に彼の時代は去って、神の時代は来るのである。大患難のさかずきの飲みされし後、栄光のキリストはもろもろの聖徒を率いて下りたもう。彼は「すべての敵をその足の下に置くまで」王として権威をふるいたもう。しかして「もろもろ権能けんのう権威けんい権力けんりょくを亡ぼして、国を父なる神に渡したもう」。ここにおいて新天地は実現し、人類は始めて理想の国に入るのである。その時までは朝来たり夜また来たる。されどもその時に至りては「今より後夜ある事なし」である(黙示録二二の五)。失敗の夜は義の太陽なるキリストを迎えて始めて永遠に明け渡るのである。

人よ、聖書が明示する所のこの大事実を見逃すことなかれ。「進化」「文明」「合同」「民主」等の近代的術語に欺かるることなかれ。人の努力は全然失敗である。人は正直にこの事実を自覚してただ主キリストを迎うるの準備をなすべきである。