「一度び死ぬる事と、死にて後審判を受くる事とは人に定まりたる」事である(ヘブル九の二七)。誰かこれを免るることが出来よう。しかしながら「わが父の御意はすべて子を見て信ずる者の永遠の生命を得るこれなり。我れ終わりの日にこれを甦らすべし」とイエスは約束したもうた(ヨハネ六の四〇)。我等はただこの一言を信じてその日を待ちつつ墓に下るのであると。これ多くの良きキリスト者の信仰であって、しかしてもちろん恵まれたる信仰である。復活の希望は実にキリスト者の最も貴き特権である。この希望あるがゆえに、万人の運命として定まれる死も、彼等キリスト者の心を脅かすに足りない。世の人のすべての傲語を粉砕し一切の希望を剥奪する恐るべき死に際し、独り復活の歌をうたいつつ感謝して逝り往く者はただ彼等キリスト者あるのみ。復活を信じて、死はすでに彼等の最大悲痛ではなくなったのである。
しかしながらキリスト者の死観はここにとどまるべきであろうか。遠き日の復活のみが我等の抱くべき希望であるか。聖書は死についてさらに福なる何事かを教えないか。イエスは彼を信ずる者に対して復活の他になお約束したもう処がなかったか。ラザロの姉妹マルタが「終わりの日復活の時に甦るべきを知る」と言いしに対して「我は復活なり生命なり。我を信ずる者は死ぬとも生きん。およそ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか」と答えたまいしイエスの言はいかにこれを解釈すべきであろうか。もし聖書の言が特別の理由なき限り文字通りに解すべきであるならば、イエスはここに明白に死者の復活の外なお生者の不死を教えたもうたのではないか。しかしてそはこの答を促したるマルタの言に徴して一層明らかである。マルタは単純に終わりの日の復活を信じた。これもちろん誤りではなかった。しかしながら彼女の誤りは復活のみを唯一の希望とせる処にあった。イエス・キリストは「復活」である、ゆえに彼を信ずる者は「死ぬとも生きん」。すなわち終わりの日復活の時に甦るであろう。されどもイエス・キリストは唯に「復活」であるのみならず、また「生命」である。死は彼に在て全然無きものである。ゆえに独り死者の彼に在て甦るのみならず、「およそ生きて彼を信ずる者は永遠に死なざる」べきである。生命そのものなる彼を宿して、我等もまた全然死より脱離すべき希望を抱くは、極めて至当の事と言わねばならぬ。イエスは確かに死者の復活と共に生ける信者の不死に関する約束を与えたもうたのである。しかしてこの約束の下に行われたるラザロの復活は、唯に終わりの日における死者の復活の型であったばかりではない、同時にまた生ける信者の不死の型であったに相違ない。何となればもししからずば、この出来事の中心的教訓たる上記の会話は全く無意義に終わるからである。
「およそ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか」と。しかしながらイエスのこの語を発したまいし以来、数え尽くすことあたわざる多くの信者相続いでことごとく墓に下りしをいかん。教会史上いまだ一人の不死の記録あるを知らない。イエスの約束はこれを打ち消す事実の下に反故に帰してしまったかのごとく見ゆる。しかし決してそうではない。我等は先ずこの問題に関するイエスの約束の全部を探らなければならぬ。
信者の不死を約束したまいしイエスは、またある時は明白にある信者の――しかも聖徒の首たる一人の――必ず死すべきを預言したもうた。彼れ復活の後、テベリヤ湖畔にて己を弟子等の前に現わしたまいし時の事であった。彼は三度びシモン・ペテロに向かい「ヨナの子シモンよ、我を愛するか」と問いし後「我が羊を牧え。誠に誠に汝に告ぐ、汝若かりし時は自ら帯して欲する処を歩めり。されど老いては手を伸べて他の人に帯せられ、汝の欲せぬ処に連れ往かれん」と預言したもうた。しかしてこは「ペテロがいかなる死にて神の栄光を顕わすかを示して言いたまいしなり」とは使徒ヨハネの自ら下したる註釈である(ヨハネ二一の一八、一九)。しからば信者の中に死すべき者のある事もまた明白にイエスの教えたまいし所である。ここにおいてか問題は、いかなる信者の死して、いかなる信者の死せざるかにある。しかしてこの問いに対する答もまた以上の復活のイエス対ペテロの問答においてこれを見ることが出来る。
かく言いて後彼に言いたもう「我に従え」。ペテロ振り返りて、イエスの愛したまいし弟子の従うを見る……ペテロこの人を見てイエスに言う「主よ、この人はいかに」。イエス言いたもう「よしや我れ彼が我の来たるまで留まるを欲すとも汝に何の関係あらんや。汝は我に従え」。ここに兄弟たちの中にこの弟子死なずという話伝わりたり。されどイエスは死なずと言いたまいしにあらず、「よしや我れ彼が我の来たるまで留まるを欲すとも汝に何の関係あらんや」と言いたまいしなり。(ヨハネ二一の二〇~二三)
ペテロに対して殉教の死を預言したまいしイエスは、ヨハネについては「よしや我れ彼が我の来たるまで留まるを欲すとも云々」と言いたもうた。これ言うまでもなく、前者の最後に対照して後者の運命を仮定したまいしものであった、しかしてその意味する処は不死であった事は明白である。そはこの時より兄弟等の間に「ヨハネは死なず」との伝説の行われしに徴しても疑うことが出来ない(伝説の誤謬はこの不死の解釈にあったのではない。イエスの仮定をもって直ちに断定と見なしたる点にあった)。すなわち知る、不死とは「彼の来たるまで留まる」の謂なる事を。換言すれば、人の子その国をもて来たる日に生きてこれを見る所の信者の運命なる事を。信者の不死の特権もまた復活と同じくキリスト再臨の日において初めて実現すべき恩恵である。その日キリストに在る死人は福なるかな。彼等は「起きよ」との主の一声に醒めてラザロのごとく墓より出で来たるであろう。しかしながらさらに福なるはその日生きて存れる信者である。彼等は遂に死の苦きを味わわずして生けるがままに父の許に移さるるのである。四日を経てすでに臭かりしラザロが手と足とは布にて巻かれ顔も手拭いにて包まれたるまま生ける体に化せしめられしがごとく、彼等の穢れし体もまたそのままに栄光の体と化せしめらるるのである。
キリスト再臨の日に死せる信者の復活と共に生ける信者の栄化ある事はパウロもまた明白にこれを教える。
見よ、我れ汝等に奥義を告げん。我等はことごとく眠るにはあらず。終わりのラッパの鳴らん時、みなたちまち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦り、我等は化するなり。そはこの朽つる者は朽ちぬ者を着、この死ぬる者は死なぬ者を着るべければなり。(前コリント一五の五一~五三)
それ主は号令と御使いの長の声と神のラッパと共に自ら天より降りたまわん。その時キリストにある死人先ず甦り、後に生きて存れる我等は彼等と共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎え、かくていつまでも主と共に居るべし。(前テサロニケ四の一六、一七)
この生ける信者の栄化の希望は、およそキリスト者の希望中、最も美わしきものの一つである。主我等のために処を備えて再び来たりたもう時、出でて彼を迎え生けるがままに彼の許に携えらるるはいかに福なるかな。その時死は地の上より辛辣の刺を伸ばして追わんとするも遂に及ばないのである。陰府はその常勝の口を開いて呑まんとするもあたわずして大いなる恥辱を招くのである。しかして携え挙げられたる我等は上より歌って言うであろう、「死よ汝の刺は何処にかある、陰府よ汝の勝は何処にかある」と。これ死と陰府とのかつて一度びも触れし事なくまた永遠に触るるあたわざる栄化の信者に最もふさわしき凱歌である。
信者の希望は復活のみではない、不死もまた彼等に許されし希望である。しかしてこれさらに勝れる恩恵である。しかしながらこの特別の恩恵に与る者は、僅かに終わりの日に生存すべき少数の信者に限られ、我等はペテロと共にこれと何の関係なき者であるか。果たしてしからばそは毫も我等のための福音ではない。我等は依然として強敵「死」の来襲に備えつつただ復活の希望のみをもって自ら慰めねばならぬ。しかして現に多くの良きキリスト者の態度はまさしくこれである。しかしながら注意すべきは、主イエスのその弟子等に教えたもうや、ペテロの場合のごときを除く外決して死の準備をもってしたまわざりし事である。彼は言いたもうた、「汝等も備え居れ、人の子は思わぬ時に来たればなり」と(マタイ二四の四四)。また「備え居りし者共は彼と共に婚筵に入りしかして門は閉ざされたり……されば目を覚まし居れ。汝等はその日その時を知らざるなり」と(同二五の一〇、一三)。また「誠に汝等に告ぐ、ここに立つ者の中に人の子のその国をもて来たるを見るまでは死を味わわぬ者どもあり」と(同一六の二八)。また「汝等自ら心せよ。恐らくは飲食に耽り世の煩労に纏われて心鈍り思いがけぬ時、かの日罠のごとく来たらん……この起こるべきすべての事を逃れ、人の子の前に立ち得るよう、常に祈りつつ目を覚まし居れ」と(ルカ二一の三四、三六)。これらの言の教える主旨は極めて明白である。すなわち信者は再臨の日の何時来たるべきかを知らざるがゆえに、刻々目を覚まし注意し祈祷しつつキリストを迎えるの準備をせよというにある。しかしてキリストを迎えるの準備とは何ぞ。もちろん生けるがままに彼を迎えるの準備ではないか。我がこの目この耳をもって彼の栄光を見彼のラッパを聞くの準備ではないか。しかり、再臨の希望は信者をして死の存在を忘却せしむるのである。新郎の到来を待つ新婦の心中また死を憶うの余裕あらんや。主は今にも来たりたまわん。その日その時を我等は知らず。ただ彼の言に従い常に目を覚まし居るのみである。かくしてあるいは我等の生涯中主は遂に来たりたまわないかも知れない。しかして死が矢張り我等を襲うのであるかも知れない。しかしながらそは我等の全然予期すべからざる事である。備うべきは死にあらずして主の来臨である、我等の栄化である、すなわち不死である。信者に取っては不死こそその常態であって、死はかえって予期すべからざる変事にすぎない。彼の望むべき所は墓ではない、天である。「我等は主イエス・キリストの救い主としてその所より来たりたもうを侍つ。彼は万物を己に服わせ得る能力によりて、我等の卑しき状の体を化えて、己が栄光の体に象らせたまわん」(ピリピ三の二〇、二一)。しかしてこの栄化――不死――の待望はすべてのキリスト者の特権である。我等は皆いま現にこの待望をもって心躍るべきである。死者をして死者を葬らしめよ。死者をして復活を待たしめよ。我等生きて主を信ずる者をして死について憶わしむるなかれ。死をもって我等が必然の運命となすことなかれ。我等はすでにキリスト・イエスにある生命の御霊の法により罪と死との法より解き放たれたる者である(ロマ八の二)。されば我等をしてひたすらに主の到来に備えしめよ。しかして我等の身体の栄化を待ち望ましめよ。復活は死者の希望である。されども栄化は生ける信者の希望である。
死は決して万人の避くべからざる運命にあらずと言わば、生物学者はその迷妄を笑うであろう。否学者のみならず、多くのキリスト者までが聖書の言を引いてこれを斥くるであろう。実に聖書の中に死の必然性を説ける言は必ずしも少なくない。そのあるものはあたかも生物学者の主張を是認するがごとき語調をもって言うのである、曰く「死人の復活もまたかくのごとし。朽つる物にて播かれ朽ちぬものに甦らせられ云々」(前コリント一五の四二)。「第一の人は地より出でて土に属し……この土に属する者にすべて土に属する者は似云々」(同一五の四七、四八)。「汝は……終に土に帰らん、そはその中より汝は取られたればなり。汝は塵なれば塵に帰るべきなり」(創世三の一九)。これらの言の意味するところは、人の死をもって有機体共有の必然的運命と做すにあるかのように見ゆる、しかしながらその決してしからざる事は、以上の言を発せし両記者のいずれも死の起源に関して最も明確なる道徳的理由の主張者なる事によりて十分に証明せられる。「それ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、すべての人罪を犯ししゆえに死はすべての人に及べり」とはコリント前書の記者なるパウロの論断であった(ロマ五の一二)。「エホバ神その人(アダム)に命じて言いたまいけるは……されど善悪を知るの樹は汝その果を食らうべからず。汝これを食らう日には必ず死ぬべければなり」。「またアダムに言いたまいけるは、汝その妻の言を聴きて、我が汝に命じて食らうべからずと言いたる樹の果を食らいしによりて……汝は面に汗して食物を食らい終に土に帰らん」と。これ創世記の明言する所である。しかして死は罪の価なりとは実に聖書全体が教える所の大真理の一つである。この点において人の死はすべての他の生物の死とその意義を異にする。ただしこれが原因は人体の構造の特別なるがゆえではない。人の意思の自由なるがゆえである。人体は他の生物体と均しく自然の法則の下にある。ゆえにそは早晩解消すべき傾向を有する。されども人には他の生物に見るべからざる自由の意思を賦与せられたのである。しかして彼はこの意思をもって生命の本源たる神に順従しこれと結合して、もって自然の傾向たる死の運命を避け得べくあったのである。アダムは土の中より取りて造られた。されども彼は生命の樹と善悪を知るの樹の生ぜる園の中に置かれた。彼にしてもし神の命に従い善悪を知るの樹の果を食らわずして生命の樹の果を食らいしならば、彼は必ず限りなく生くることが出来たのである(創世三の二二)。自然的傾向たる死と、道徳的特権たる不死と、この二途が人の前に備えられた。しかして彼は自由の意思をもってその一つを選択すべきであった。禍なるかな特権を棄てて自然を選びし人、禍なるかなエホバの命に叛きて善悪を知るの樹を選びしアダム。そのゆえに彼は再び塵に帰るべく命ぜられたのである。そのゆえに彼は生命の樹のある園より逐い出されたのである。かくて本来人の必然的運命たらざりし死は、彼の選択によりて、かえって道徳的にその必然性を帯ぶるに至った。「一度び死ぬる事と死にて後審判を受くる事とは人に定まれり」とはすなわちこれがためである。
しかしながら讃むべきは神である。神はアダムの罪のゆえに生命の樹を枯らしたまわなかった。「かく神その人を逐い出し、エデンの園の東にケルビムと自ら旋転る焔の剣を置きて生命の樹の途を守りたもう」(創世三の二四)。しかしてその途はイエス・キリストに在りて再び我等のために開かれたのである。生命の樹は今もキリストの許にありて栄えつつある。その果は豊かに実りて我等のこれを食らうを待ちつつある。我等何の日にこれを食らうことを得るか。曰くキリスト再び来たりたもう日である。その時我等は聖なる都新しきエルサレムに入りて、都の大路の真中を流るる河の左右に旧き生命の樹の生い繁れるを見るであろう(黙示録二二の二)。しかしてその果を食らいて我等は全然死より解き放たれ、このままにして永遠の生命に移さるるであろう。アダムの失いたる特権は再臨の日に生くる信者によって完全に恢復せらるるのである。
主イエスある夜人を避け親しき三人の弟子のみを率いて高き山に登りし時、彼等の前にはその状一変し、顔は日のごとくに輝き衣は光のごとく白くなったという。貴きかな栄光の変貌。三人の中の一人後に語りて曰く「我等は親しくその稜威を見し者なり」と(後ぺテロ一の一六)。これ実に神の子の稜威であった。しかしながら変貌は信者の栄化の模範である。イエスにこの事ありしは彼の身体の特別なる構造のしからしめたるにあらずして、彼の父に対する全き順従のしからしめたのである。我等もまた彼に在りて父に対する順従の生活を続けんか、我等の卑しき体もまた遂に彼が栄光の変貌に象らるる日が来るであろう。死は本来避くべからざる運命にあらずして、道徳的理由により暫く必然性を獲たにすぎない。ゆえにまた道徳的理由によりてこれを超脱し得べきである。我等を義とし聖とするイエス・キリストはまた我等の身体を贖いたもう。すなわち彼れ再び来たりたもう日にこの事を実現したもうのである。望ましきはその日なるかな。その日「塵に伏す者(死者)は醒めて歌うたわん」(イザヤ二六の一九)。されども「エホバを俟ち望む者(生者)は新たなる力を獲ん。また鷲のごとく翼を張りて昇らん。走れども疲れず、歩めども倦まざるべし」(イザヤ四〇の三一)。