「悪しき者は審判に堪えず、罪人は義しき者の会いに立つことを得ざるなり」と詩人は歌った(詩一の五)。悪しき者と義しき者、罪人と聖徒とは「期に至りて」判然と相分たれ、その運命に天地の差を生ずるに至る。すなわち悪しき者は地に遺されて堪え難き審判に苦しみ、義しき者は天に取られて福なる会いに入るのである。「もし往きて汝等のために処を備えば、復た来たりて汝等を我が許に迎えん。わが居る処に汝等も居らんためなり」(ヨハネ一四の三)。「我等(生存せる信者)は彼等(復活せる信者)と共に雲の中に取り去られ、空中にて主を迎え、かくていつまでも主と共におるべし」(前テサロニケ四の一七)。義しき者の会いはかくのごとくにして成る、しかして罪人の最大不幸はこのつどいに立つを得ざることである。これに立つを得ざるがゆえに、彼等は「偏く地の面に住めるすべての人に臨むべき」大いなる患難を脱るることが出来ない。ゆえに主は戒めて曰いたもうた、「この起こるべきすべての事を脱れ人の子の前に立ち得るよう常に祈りつつ目を覚ましおれ」と。(ルカ二一の三六)
上には義しき者の会い、下には悪しき者の審判、これ主の再臨によりて生ずべき人類の二大運命である。しかして前者は後者に先だちて実現する。主は初めただ聖徒のために密かに来たりて、復活または栄化を行い、これを携えてその許に集わしめたもう。かくてまず天上に義者の聖会は成立し、しかる後に大いなる患難は全地を襲うのである。その間における聖会の光景はいかん。携挙につづく信者の状態はいかん。黙示録第四章は「見よ、天に開けたる門あり」と言いてこれに答える。
二十四人の長老白き衣を纏い首に金の冠冕を戴きてその座位に坐せり」(黙示録四の四)。長老といい二十四という、こは共に聖書の中にありて代表的の意を有する語である(二十四とはあるいはユダヤの十二の支派と十二使徒に関するか、あるいは歴代志略上二四、二五章等に表われたる祭司または伶人の班列に関するか、いずれにせよ多数を代表するの意は失わない)。しかしてこの場合において長老とは先んじて天上の生活に入りたる者を言う。彼等の後にまた「大いなる患難より出で来たる」者あるがゆえである(同七の一四)。すなわち知る、二十四人の長老とは大いなる患難の開始に先だちて復活または栄化せられたる総てのキリスト者を表わす事を。換言すれば、彼等は世の終わるまで信仰を失わず忠実なる主の僕として彼に在りて世に勝ちまた彼の来臨を待ち望みたる真の信者の全体である。主は約束して曰いたもうた、「勝を得る者は白き衣を着せられん」と(同三の五)。また「汝死に至るまで忠実なれ。さらば我汝に生命の冠冕を与えん」と(同二の一〇)。また「勝を得る者には我と共にわが座位に坐する事を許さん」と(同三の二一)。しかして今彼等は「白き衣を纏うて」霊も体も全く聖化せられたる者である。また「首に金の冠冕(すなわち生命の冠冕)を戴きて」光栄ある不朽の生命に入りたる者である。また「その座位に坐して」主と共に王となり世界の審判に参与せんとする者である。完全なる聖潔と永遠の生命と絶大なる権威、これみなすでに彼等の所得となった。ああかつては罪に泣きし者、今はただ聖霊によりて聖めらるるのみならず、父の完きがごとくに完くなったのである。かつては死の懼れに繋がれし者、今はただ望みにおいて解き放たれしのみならず、主の栄光の体に象られたのである。かつては世の塵芥のごとくせられし者、今はただ信仰によりて世に勝つのみならず、万国の民の王たるべき実力を与えられたのである。しかして愛する者皆この光栄ある状態において再び相見ゆ。何の福いかこれにしかん。この大いなる恩恵に比しては、彼等の地上において嘗めし主のための苦難のごとき殆ど言うに足りない。
しかして義しき者の会いと言うも、ここに立つ者は独り彼等のみではない。彼等の座位は「御座の周囲に」あり、「その御座に坐したもう者」がある。また「御座の中央と御座の周囲とに四つの活物」がある(同四の六)。また「御座及び四つの活物と長老等との間に屠られたるごとき羔羊の立てる」を見るという。よって聖会の位地は略々明瞭である。すなわち中心に御座あり、羔羊あり、これを取り囲みて二十四人の長老と四つの活物とが在るのである。罪人は義しき者の会いに立つことを得ず、されども聖なる者は皆来たりてこれに加わる。光栄の至りである。
「御座に坐したもう者の状は、碧玉赤瑪瑙のごとくかつ御座の周囲には緑玉のごとき虹ありき」(同四の三)。純清透明、燦爛熾烈なる者、しかして限りなき恩恵の契約(虹)を保てる者(創世五の一三)、この御座に坐せる者を表わさんと欲して使徒ヨハネの選び得たる語はただこれにすぎない。しかしながらすでに足れりである。彼はた何者ならんや。「鹿の渓水を慕い喘ぐがごとく」我等の霊魂の夜昼慕い喘ぎし彼者、「何れの時にか我往きて汝の前に出でん」と歎きし彼者である。しかして今やその御座を囲みて彼に近づき彼を仰ぐ。これいかばかりの福いぞ。
「屠られたるがごとき羔羊」、彼はもちろん聖徒と共に在る。彼は自ら来たりて彼等を呼び集めたもうたのである。彼等のためにこそ屠られたまいし羔羊は、今彼等の面前にその釘の痕ありし手とその脅とを示して立ちたもう。聖徒の感慨果たして如何。再臨の歓喜は贖罪の感謝によりて完うせらる。何となれば前者は後者の果なるがゆえである。宜なるかな彼等は各々立琴と香の鉢とを持ちて羔羊の前に平伏し、しかして新しき歌を謳いて曰う、「汝は屠られその血をもて諸種の族、国語、民、国の中より人々を神のために買い、これを我等の神のために国民となし祭司となしたまえばなり。彼等は地の上に王となるべし」と(黙示録五の九、一〇)。贖罪と再臨とを合わせ感謝したる歌である。誠にその日まで天地のいまだ聞くを得ざりし新しき歌である。
四つの活物とは何ぞ、「第一の活物は獅子のごとく、第二の活物は牛のごとく、第三の活物は面のかたち人のごとく、第四の活物は飛ぶ鷲のごとし。この四つの活物各々六つの翼あり……日も夜も絶え間なく言う、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔在し今在し後来たりたもう主なる全能の神」と(同四の七、八)。これが註釈を聖書の中に探りて、エゼキエル書一章及びイザヤ書六章に求めざるを得ない。彼等は天使中にありて最も高貴なるケルビム及びセラピムである。しかして栄光の体に化せられたる聖徒は今やその生活の状態においてまたその職能において彼等と相伍するに至るのである(ルカ二〇の三五)。聖徒と天使、二者は今や讃美を共にし、感謝を共にす(黙示録四の九~一一、五の八)。実に壮大である、厳粛である、至福である。