エホバの大いなる日

藤井武

平和は恢復しつつある。社会改造は企てられつつある。民主主義は普及しつつある。婦人と労働者とは解放せられつつある。科学は進歩しつつある。伝道資金は増加しつつある。今や四面聞こゆる所は革新の声にして、見ゆる所は勃興の勢いである。人々相慶して曰う、新時代は来たれり。新文明は成らんとす。人類の痛苦はやがてことごとく癒されん。我等が理想の社会は遠からずして実現すべしと。かくて人類の過去幾千年の努力は遂に名誉ある月桂冠をもってむくいられんとするもののごとく見ゆる。誠に慶祝すべき徴候とうべしである。

しかしながらかくのごときは果たして正しき観察であるか。もし人生の診断を誤りてその致命的疾患を忘れ、「やすからざるにやすやすしと言い」て空しき希望を楽しまんには、不幸これよりも大なるはない。我等の航海は果たしてしかく祝福せられたるものであるか。前途に大いなる暗礁の、我等が船を粉砕せんとて待つものなきを何人が確かめたか。恐る、現代人の歓喜は往年の悲惨なる処女航当初におけるタイタニックのそれならん事を。我等は根拠なき楽観よりもむしろ危険についての確実なる警告を欲する。しかして聖書がこの世の終末につき預言する所は全然現代人の期待を裏切るものである。

兄弟よ、ときとにつきては汝らに書きおくるに及ばず。汝等は主の日の盗人の夜来たるがごとくに来たる事を自ら詳細つまびらかに知ればなり。人々の平和無事なりと言うほどに、滅亡ほろびにわかに彼等の上に来たらん。はらめるおんなに産みの苦痛くるしみの臨むがごとし。必ずのがるることを得じ。(前テサロニケ五の一~三)

滅亡ほろび!世界の人々の平和を祝い無事を誇りつつある時、俄然として滅亡ほろび彼等の上に臨み来たらんと言う。現代人の大いなる期待を懸けつつあるこの世の終局は滅亡ほろびであると言う。何ぞその語調の唐突にして、その思想の粗野なる。かくのごときは余りに文明の雰囲気と調和しない。労働問題と社会主義と国際連盟と応用科学と教育と芸術と宗教とをもって日々に改造せられつつあるこの世の将来を呪うて「滅亡ほろび」を云々するとはそもそもいかなる痴漢の悪戯であるか。現代人はかく言いてこの声を一笑の中に葬り去るであろう。まことにこは文明の趨勢と背馳はいちし、進化の原理と抵触し、人類の要求と相れず、近代の思想と相触れざる、信ずるに難き提言である。しかるにも拘わらず聖書は明白に大胆にこの世の滅亡ほろびを予言してはばからない。

曰う、「人々の平和無事なりと言うほどに、滅亡ほろびにわかに彼等の上に来たらん。はらめるおんなに産みの苦痛くるしみの臨むがごとし」と。すなわち急遽なる滅亡ほろびである。何人も予想せざる時俄然として瞬間的に殺到すべき滅亡ほろびである。ことに平和または無事(原語「安全」)の声の高き時である。世界平和、国際連盟、安全第一等のうたわるる時である。イエスもまたこの俄然的滅亡ほろびについて戒めて言いたもうた、「汝等自ら心せよ、恐らくは飲食に耽り、世の煩労わずらいまとわれて心鈍り、思いがけぬ時、かの日罠のごとく来たらん」と(ルカ二一の三四)。また「ノアの日にありしごとく、人の子の日にもしかあるべし。ノア方舟はこぶねに入る日までは人々飲み食いめととつぎなどしたりしが、洪水来たりて彼等をことごとく滅ぼせり。ロトの日にもかくのごとく人々飲み食い売り買い植え付け家造りなどしたりしが、ロトのソドムをでし日に、天より火と硫黄とくだりて彼等をことごとく滅ぼせり。人の子の顕わるる日にもそのごとくなるべし」と(ルカ一七の二六~三〇)。「飲食に耽り」と言い、「人々飲み食い」と言う。生活問題である。物価調節、増給運動等に没頭しつつある時である。「めととつぎ」と言う。家庭問題または社会的問題である。児女の教育、婦人の解放等を高唱しつつある時である。「売り買い、植え付け、家造りなど」と言う。近世経済学のいわゆる交易、生産、消費である。その他すべて「世の煩労わずらいまとわれて」純信仰の衰えたる時である。かくのごとき時に当たり、あたかもノアの日に俄然として「大淵おおわだの源皆やぶれ」洪水地に瀰漫びまんして万有をその表面より拭い去りたるがごとく、またロトの日に倏忽しゅっこつとして天より火と硫黄を降らしソドム、ゴモラのまちと低地との諸生物をことごとく滅ぼしたるごとく、この世の滅亡ほろびもまた「罠のごとく」突如として襲い来たるであろう。

また曰う、「必ずのがるることを得じ」と。すなわち急遽なるのみならず、普遍的なる滅亡ほろびである。何人もその日に及びてのがれんと欲してのがるるあたわざる世界的滅亡ほろびである。イエスもまた言いたもうた、「これはあまねく地のおもてに住めるすべての人に臨むべきなり」と(ルカ二一の三五)。「地の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、自主の人」(黙示録六の一五)、その他何人も何処に在る者も一人としてこれを避くることは出来ない。学者はその最後の蘊蓄うんちくを傾けて、富者はその一切の財産を尽して、権者はその最大の威権をふるいて、いかにもしてこれをのがれん事を企つるであろう。しかしながら彼等はその日無学者、貧民、弱者と何の差別なく、ひとしく罠の捉える所となりて、いたましき絶望の叫びを揚げざるを得ないであろう。

急遽にして普遍的なるこの世の滅亡ほろびはまた最も激甚げきじんなる滅亡ほろびである。「世のはじめより今に至るまでかかる患難なやみはなく、また後にも無からん」(マタイ二四の二一)。「国ありてより以来このかたその時に至るまでかかる艱難なやみありし事なかるべし」(ダニエル一二の一)。これ実に空前にして絶後なる最大の患難である。かつて歴史上に現われたるいかなる戦争または革命の悲劇もこの最後の滅亡ほろび激甚げきじんなるには及ばない。往昔おうせきカーセージの滅亡ほろび稀有けうなる惨事なりしと伝えらる。ローマ軍の強襲数旬にして、その城壁は粉砕せられし後、なお九日にわたる砲火剣戟けんげきの集中によりて一切の生物は屠り尽くされ、当年地中海の華とうたわれし古都も全くその痕跡を留めざるに至った。また有名なるエルサレム滅亡のごときはこれが記事を読む者をしてうたた戦慄を禁ぜざらしむる。その時慈母も飢餓にえずして己が乳児を噛むに至りしという。その他大革命当時におけるフランス、一九一四年におけるベルギー等も恐るべき患難の中にあった。しかしながら過去におけるいずれの患難も到底これを来たるべき滅亡ほろびに比ぶることが出来ない。その範囲についてはもちろん、その程度においてまたそうである。およそ人類の経験し得べき一切の苦痛は相誘うて上下四方よりこの世を襲撃し来たるのである。人の体と心と霊とにおいてえるに難き異常の患難が容赦なく彼等を翻弄するのである。預言者等は皆その日の光景を予示せられ、彼等特有の溌刺たる言語をもってこれを描写した。いわゆる「主の日」または「エホバの大いなる日」の預言はすなわちこれである。

もろもろの国よ、近づきて聴け。もろもろの民よ耳を傾けよ。地と地につるもの、世界と世界よりづるすべての者聴け。エホバはよろずの国に向かいて怒り、そのよろずいくさに向かいて憤り、彼等をことごとく滅ぼし、彼等を屠らしめたもう。彼等は殺されて投げ棄てられ、そのかばね臭気くさきか立ち昇り、山はその血にてかされん。天の万象は消え失せ、もろもろの天は書巻まきもののごとくに巻かれん。その万象の落つるは葡萄の葉の落つるがごとく、無花果いちじくの枯れたる葉の落つるがごとくならん。わがつるぎは天にて湿うるおいたり。(イザヤ三四の一~五)
我れ万軍のエホバの憤りの時、烈しき怒りの日に、天を震わせ地をうごかしてその処を失わしむべし。彼等はわるる鹿のごとく、集むるものなき羊のごとくなりて、各々己の民に帰り、己の国に逃れ往かん。すべてそこに在る者見出みいださるれば刺され、き留めらるる者はつるぎたおされ、彼等の嬰児みどりごはその目の前にて投げ砕かれ、その家財いえのものかすめ奪われ、その妻は汚さるべし。(同一三の一三~一六)
エホバの日を望む者はわざわいなるかな。汝等何とてエホバの日を望むや。これはくらくして光なし。人獅子の前を逃れて熊にい、また家にりてその手を壁に附けて蛇に咬まるるにさも似たり。エホバの日はくらくして光なく、やみにして輝きなきにあらずや。(アモス五の一八~二〇)
地の王たち、大臣、将校、富める者、強き者、奴隷、自主の人みなほらと山の巌間いわまとにかくれ、山といわとにむかいて言う、「請う、我等の上にちて、御座みくらに坐したもう者の御顔みかおより、羔羊こひつじの怒りより、我等を隠せ。そは御怒りの大いなる日すでに来たればなり。誰か立つことを得ん」。(黙示録六の一五~一七)
かくて底なきあなを開きたれば、大いなる炉の煙のごとき煙、あなより立ち昇り……煙のうちよりいなご地上にでて地のさそりのもてる力のごとき力を与えられ……ただひたいに神のいんなき人をのみそこなうことを命ぜられたり……この時人々死を求むとも見い出さず、死なんと欲すとも死は逃げ去るべし。(同九の二~六)

その他この日に関する無数の預言を一々掲ぐることは出来ない。これを要するに、世の滅亡時代における患難の第一は恐るべき流血である。国と国、階級と階級、個人と個人との間における友誼ゆうぎ、愛心、同情はことごとくすたれ、憎悪の念は奔馬ほんばのごとくに荒れ狂いて、争闘また争闘、殺戮また殺戮、しばらくも止む事なく、人は棄てられし屍を葬むるにいとまなく、地は流されたる血を吸うに暇なくして、山は血にてかされ「屍は地のおもてにて糞土とならん」という(エレミヤ二五の三三)。かくのごときもの全世界を蔽う所の現象たらば、その凄惨荒寥果たしていかばかりぞ。その第二は天然界における未曾有の異変である。天の動揺、地の激震、日光月光の陰滅変色、山野島嶼とうしょの埋没移転等一時に続発して、人をして限りなき不安にえざらしめ、恐怖戦慄しつつ逃げ惑わしむるであろう。平常沈毅豪勇ちんきごうゆうまたは熟慮機智をもって聞こえたる将帥学者等も、哀れその日は狼狽の余りなす所を知らず、山といわとに向かいて声を限りに救いを乞うの醜態を演ずるであろう(黙示録六の一五~一七)。その第三は悪霊の跳梁ちょうりょうである。底なきあななる霊界の門はしばらくの間開かれて、暗黒の霊は奇異なる形を取りてで来たり、言うべからざる苦痛を人に与えるであろう(黙示録九の二~六)。その時人の恨みは死を求めてざる事にある。彼等はヨブのごとく「いかなれば患難なやみにおる者に生命いのちを賜いしや。もし墳墓はかを尋ねてば大いに喜び楽しむなり」と言いて自ら死をねがうも、死はかえって彼等を逃げ去るのである。かくて地上また平和の片影へんえいを留めず、全世界は混乱の渦中に投ぜらるるであろう。歓喜と感謝との声は絶えて、到る処に怨恨と呪誼との響きのみが聞こゆるであろう。ああ、恐るべき日!わざわいなるかなエホバの大いなる日!この世は何故にかくのごとき滅亡ほろびの日に遭遇しなければならぬのであるか。「エホバの大いなる日」の意義はそもそも何処に在るか。

預言者イザヤ曰く

そは万軍のエホバの一つの日あり。すべて高ぶる者、おごる者、自らをあがむる者の上に臨みてこれを低くすべし……この日には高ぶる者はかがめられ、おごる人はひくくせられ、ただエホバのみ高く揚げられたまわん。(イザヤ二の一二、一七)

エホバはもとよりいずれの日においても高く揚げられたもう。天地の造り主にして限りなき愛の父なる彼れエホバが、その子等より至上の崇拝を受けたまわざる日は一日も無い。しかしながら彼のみ高く揚げられたもうて、すべての人が彼の前に伏しかがみし日がかつてあったであろうか。政治家も実業家も学者も労働者も皆自ら「愚かなる者、弱き者、卑しき者」と成りて、ただエホバの聖名みなをのみ崇めたる日がいつかあったであろうか。否、世の多数者はいにしえより今に至るまで常に高ぶる者、驕る者、自らを崇むる者である。彼等は明白なる恩恵の福音を提供せられて悔い改めを促さるといえども、かえってこれを斥けてエホバの聖名みなけがしつつあるのである。彼等はエホバに代えて文明を拝しつつある。聖名みなに代えて己が名を揚げんとしつつある。キリストに代えてこの世の快楽に憧れつつある。彼等は神をあなどり神の能力をさげすみ、はばからずして己が欲するままを行いつつある。ああ、かくて幾何いくその時を経んとするのであるか。彼等にして皆その深き罪を悔い改め、キリストの十字架の下にひれ伏して神の赦しを乞うに至らばし。もししからざらんには世はいつまでもこのままにして在るべきではない。神の権威はいつかは如実ありのままに発揚せざるを得ない。大いなる審判はいつかはこの世に臨まざるを得ない。神はすでに完全なる贖いを我等のために成就したもうた。我等これを受けんかた斥けんか。受くる者はそのすべての罪を赦されて彼の子たるの恩恵にあずかるといえども、これを斥くる者は遂に神の憐憫を得るによしなしである。何となれば救贖きゅうしょくみちは一つのみ。十字架を斥くる者のために開かれし第二の恩恵のみちは絶対に無いからである。ゆえに十字架か、しからずんば滅亡である。贖いか、しからずんば審判である。事はいつか一度ひとたび決定しなければならない。神はもちろん一人の滅ぶるをも望みたまわない。ゆえに彼は忍耐をもって最も適当の時を待ちたもう。しかしながらおそかれ早かれ万軍のエホバに一つの日がある。その日には彼の権威は如実ありのままに発揚せられて、大いなる審判が世に臨むであろう。その日にはすべて高ぶる者はかがめられ、驕る人はひくくせられて、ただエホバのみ高く揚げられたもうであろう。従ってその日には彼等高ぶる者、驕る者、自らを崇むる者によりて組織せられたるこの世全体が、その自ら誇る所の燦然たる文明と共に、大能の手によりて撃倒せられていたましき滅亡を遂ぐるであろう。「またすべての高きやぐら、すべての堅固なる石垣、及びタルシシのすべての舟、すべての慕うべき美わしきものに臨むべし」とイザヤは歌うた(イザヤ二の一五、一六)。彼をしてもし今日あらしめば、彼は必ずすべての連盟すべての主義すべての社会政策すべての文化運動を指してその滅亡を預言したであろう。いやしくも神をあなどる者のことごとく撃滅せられて神のみ崇めらるべき日、罪の世が神の前にその最後の総勘定をなすべき日、これすなわち「主の日」である。これすなわち「エホバの大いなる日」である。

これゆえにエホバの大いなる日は万物顕明の日である。「かの日これを明らかにせん」と言う(前コリント三の一三)。この日神は神として顕われ、キリストはキリストとして顕われ、神の子は神の子として、悪魔の子は悪魔の子として、善は善として、悪は悪として判然顕明するのである。この日もはや今日におけるがごとき「麦と毒麦」との混淆こんこうはない。何となれば「収穫」の期すでに到り、麦も毒麦もその発育の絶頂に達して、何人もあやまるべからざるように顕著なる外観を呈するに至りしがゆえである。まことに万物顕明の日はすなわち万物の発育一先ひとまずその絶頂に達したる日でなくてはならない。今や万物は進歩の途中においてある。善はますます善に向かって進みつつある。悪はますます悪に向かって進みつつある。神の子は「力より力に進み」「恩恵に恩恵を加えられ」「栄光より栄光に進み」つつある。悪魔の子は「ますます悪に進み」「ますます不敬虔に進み、その言は脱疽だっそのごとく腐れ広がり」つつある。かくて一切のものが早晩その絶頂に達しなければならない。すなわち神の子の生命とすべての善とはその絶頂に達して一人の聖なる者に集中し、彼をその理想として天より顕現せしむるであろう。同様に悪魔の子の勢力とすべての罪とはまたその絶頂に達して「一人の不法の人すなわち滅亡の子」(後テサロニケ二の三)に集中し、彼をその代表者として地より出現せしむるであろう。いわゆる「偽キリスト」の出現は、この世がその歴史の終局に達せんとするに当たり必然避くるを得ざる出来事である。カイン、ニムロデを始めすべて神をあなどりし世々の権者政治家等がそのみちを備えて往ったのである。また現に備えつつあるのである。偽キリストは必ず出現する。呪うべき不法の人滅亡の子は必ず出現する。実にやむを得ない。彼は神と人との前に悪のいかに恐るべくして罪のいかにのろうべきものなるかを明らかにし、もって神の審判の正しきを顕わさんがために、必ず一度ひとたび歴史上の人物と成って出現するのである。彼は実にサタンの化身である。ゆえに彼の行い得ざる悪は無い。あたかも神の独子ひとりごイエスがその短かき三年半の公生涯においていみじくもすべての善をなしつくしたるがごとく、彼もまた同じ期間のうちに驚くべき力をふるいて一切の悪を成就するであろう。なかんずく神の目に悪しき彼の罪はその極端なる高ぶりにある。

汝さきに心のうちに思えらく、我れ天に上り、我くらいを神の星の上に揚げ、北のはてなる集会つどいの山に坐し、高き雲漢くもいに上り、至上者いとたかきもののごとくなるべしと。(イザヤ一四の一三、一四)
この王そのこころのままに事を行いよろずの神に超えて自己おのれを高くし、自己おのれを大いにし、神々の神たる者に向かいて大言を吐きなどし云々。(ダニエル一一の三六)
獣また大言と涜言けがしごとを語る口を与えられ、四十二しじゅうにヶ月のあいだ働く権威を与えらる。彼は口を開きて神をけがし、またその御名みなとその幕屋すなわち天に住む者どもとをけがし云々。(黙示録一三の五、六)

「この日には目を上げて高ぶる者ひくくせられ、驕る人かがめられ、ただエホバのみ高く上げられたまわん」と言う。しかしてこの日この限りなき驕傲者きょうごうしゃ現わる。知るべし彼と彼を中心とする世とに向かってこの日天より顕わるべき審判のいかに激甚げきじんなるべきかを。世はすでに彼の蹂躙じゅうりんに委ねられて大いなる患難をめたる後、さらにこの激甚げきじんなる審判に触れて、まさにその患難の絶頂に達するであろう。まことに恐るべきは「神の正しき審判の顕わるる怒りの日」である。呪うべきはこの世の最後の滅亡の日である。

かくのごとくにして人の謳歌しつつあるこの世とその文明との未来ははなはだ呪われたるものである。恐るべき滅亡はその必然の運命である。しかしながら神は罪の世と共に己が子等を滅ぼしたまわない。彼等はすでに「今の悪しき世より救い出され」たる者である(ガラテヤ一の四)。ゆえにもはや世の運命に与かるべからざる者である。パウロ曰う、「かく今その血によりて我等義とせられたらんには、まして彼によりて怒りより救われざらんや。我等もし敵たりし時、御子の死によりて神とやわらぐことを得たらんには、ましてやわらぎて後、その生命いのちによりて救われざらんや」と(ロマ五の九、一〇)。しかり、神の子等には「やわらぎての後の救い」がある。すなわち「怒りよりの救い」である。神は洪水の日にノアのために方舟はこぶねを備えて彼とその同志とを怒りより救いたまいしがごとく、また最後の滅亡の日にも贖われし少数者のためにある避所さけどころを設けて、彼等を大いなる怒りより救いたもうのである。「エホバは患難なやみの日にその行宮かりいおの中に我をひそませ、その幕屋の奥に我を隠し、いわおの上に我を高く置きたもうべければなり」(詩二七の五)。「彼等の恐るる所を汝等恐るるなかれ、おののくなかれ。汝等はただ万軍のエホバを聖としてこれをかしこみこれを恐るべし。しからばエホバは聖き避所さけどころとなりたまわん」(イザヤ八の一二~一四)。「我民よ往け。汝のいえに入り汝の後の戸を閉じて、憤りの過ぎゆくまでしばし隠るべし」(同二六の五)。エホバの行宮かりいお、エホバの幕屋、これ患難の日における我等の聖き避所さけどころである。これ我等の戸を閉じて隠るべきいえである。神はその大いなる審判を始むるに先だち、我等を携え挙げて御許みもとに集わしめたもう。かくて恐るべき罪の世の滅亡より我等を完全に救い出したもうのみならず、限りなく豊かなる恩恵をもって我等をあしらいたもうのである。「むべきかな、エホバは堅固なる城の中にて怪しまるるばかりの仁義いつくしみを我に顕わしたまえり」(詩三一の二一)。むべきかな、エホバはキリストの血の贖いをしてここにまで及ばしめたもうのである。この世は遂に滅亡するであろう。しかしながら我等は恐れない。「すべてエホバをち望む者よ、雄々しかれ、汝の心を堅うせよ」とある。