神もし我等の味方ならば、
(1)誰か我に敵せんや。
己の御子を惜しまずして我等すべてのために付したまいし者は、などかこれにそえて万物を我等に賜わざらんや。
(2)誰か神の選びたまえる者を訴えん。
神はこれを義としたもう。
(3)誰かこれを罪に定めん。
死にて甦りたまいキリスト・イエスは神の右に坐して我等のために執り成したもうなり。(ロマ八の三一~三四)
救贖の第一段にして我等の過去の恩恵たるものは義である。キリストの十字架の贖いに基づきて与えらる。救贖の第二段にして我等の現在の恩恵たるものは執り成しである。復活のキリスト今父の右に坐して聖霊と共にこれを我等に与えたもう。救贖の第三段にして我等の未来の恩恵たるべきものは何であるか。復活か、栄化か。しかり、これまさに現われんとする驚くべき恩恵である。しかも神の施したもう救贖はこれをもっていまだ完成しない。復活または栄化はさらに大いなる恩恵を伴う。
神は始めにその像のごとくに人を創造すると共に、地を彼に与えて「これを従わせよ、また海の魚と天空の鳥と地に動く所のすべての生物を治めよ」と言いたもうた(創世一の二八)。人は万物を与えられこれを治むるによりて初めてその生活を完うすることが出来る。しかるに今や万物は人の支配の下にあるなし。我等が経験する人生の少なからざる欠陥はこの事実より来たる。ゆえに神もし人生を完成せんと欲したまわば、彼は死者を復活し生者を栄化せしめたもうと共に、必ずや再び万物をその手に与えたもうであろう。キリストの栄光の体に象らしめられたる信者が、彼の有したもう所の「万物を己に従わせ得る能力に」あずかることを得て、人の救贖は初めて完うせらるるのである。復活その事が物的事実である。しからば復活体はその生活の完成のために万物の支配を要求せざるを得ない。万物を附与せられざる復活はかえって呪われたる復活である。否これ思想上の矛盾である。人の思想より出でたる復活または永生の観念は皆この矛盾を含む。しかしながら神の啓示は明白である。福音的復活は万物の支配と相伴う。キリストは「万物の世嗣」にして(へブル一の二)我等は「キリストと共に世嗣」なりという(ロマ八の一七)。ゆえにまたパウロは曰うたのである、「己の御子を惜しまずして我等すべてのために付したまいし者は、などかこれにそえて万物を我等に賜わざらんや」と。万物の賜与は救贖の第三段にして我等の受くべき終局の恩恵である。
神はキリストと共に我等にもまた万物を与えたもうという。その時万物はみな我等のために仕えるであろう。「新郎が祝いの殿を出づる」に似たる美わしき日は、我等のために喜びの歌をうたうであろう。「緑の野」と「憩いの水浜」とは我等の霊と体とを豊かに飽かしむるであろう。しかしながら明白なる一事は、万物もしなお現在の状態のままならんには、到底栄光の体の要求に副うあたわざる事である。今の天と地とに大いなる欠陥がある。地はすでに「誼われたる」ものである。その構造は原始の完全を失いて、悪魔とその子等とに仕えるに好きものと化してしまったのである。見よその面を蔽える「暗黒と死の蔭」とを。栄光の体いかでこの所に坐するを得ん。復活は同時に万物の復興を要する。栄化はこれに伴う天地の改造を要する。このゆえに聖書は決して漫然と万物の賜与を説かない。神の言は「万物の革まる時」(行伝三の二一)を預言し、「世革まる時」(マタイ一九の二八、原文に「世」の字なし、万物更生の意)を約束する。
しかり、我等は復活または栄化を慕うと共に、改造せられたる天地を慕う。現在の美わしきものはすべてこれを失う所なくして、しかも現在の欠陥のことごとく充されたる天地を慕う。しかるに聖書は万物の復興を預言すると共に、また天地の消滅を預言するは果たして何故であるか。「その日には天轟きて去り、諸の天体は焼け崩れ、地とその中にある工とは焼け尽きん。かくこれらのものは皆崩るべければ云々」という(後ペテロ三の一〇)。知らず、キリスト再び審判の権威を帯びて来たりたもう時、天地は人の罪のゆえに恐るべき火のために焼かれてことごとく滅亡し、かくて万物復興の約束は充されずして終わるのであるか。あるいは再臨に続くいわゆる千年期の間万物は完全の状態に復せしめらるるも、最後の審判と共に消滅するのであるか。あるいは現在の天地ことごとく解崩飛散し、しかして全然我等の想像を許さざる不可思議の新天地の出現する事を称して万物の復興と呼んだのであるか。
この問題について大いなる光を投ずるものは、ここに「崩る」と訳せられし原語の意味である。新約聖書中この語の用いらるる事一二に止まらない。しかしてその多くはある者を束縛より解放するを意味する。十八年の間病の霊に憑かれたる女を「その繋より解く」といい(ルカ一三の一六)、布にて巻かれ手拭いにて包まれしラザロを「解きて往かしめよ」といい(ヨハネ一一の四四)、千年の間繋がれしサタンの「暫時の間解き放さるべし」といい(黙示録二〇の三)、「我等を罪より解き放ち」という(黙示録一の五)。しからば「これらのもの(天地)みな解き放たるべければ」といいて、これを天地滅亡の意に解すべきであろうか。そもそも天地もまた解放せらるべき何らかの束縛に苦しんではいないか。天地もまた今は何らかの奴隷たる身分においてあるのではないか。パウロは答えて曰う、「造られたる者は虚無に服せり」と、また「されどなお造られたる者にも滅亡の僕たる状より解かれて神の子たちの光栄の自由に入る望みは存れり」と(ロマ八の二〇、二一)。よって知る、天地の解放はその滅亡にあらざるのみならず、かえって滅亡の奴隷たる状態よりの解放なる事を。我等は素よりその事の成就せんがために大いなる変化の臨むべきを知る。神はこれを火をもって成したもうという。しかしながらこれは焼き尽くさんがための火にあらずして浄めんがための火である。久しき間万物を繋ぎし誼いの綱はこれによりてことごとく絶たれ、天地は妙えなる新装をつけて我等を歓び迎えるのである。
されば望ましきかな天地の解放。我等の愛するこの蒼穹とこの地球とは決して亡びない。彼等もまた我等と共に死の束縛より解放せられ、共に光栄の自由に入るのである。しかして新しき栄光の体を着けたる我等は、均しく新しき装いを着けたるこの天地に臨みて、尽きざる歓呼の声を交わすのである。天地の解放と万物の賜与、我等の希望もまた大なるかな。