「天地の創造はロゴス(先在のキリスト)が父より賦与せられたる限りなき能力を発揚して、もって父の栄光を讃えたる詩である」とスイスの先覚ゴーデーが曰った。誠に深き美わしき見方であると思う。造化は実に詩である。詩以上の詩である。そはあるいはロゴスが父の栄光を讃えたる声であろう。あるいは神がロゴスによりて己が理想を体現せしめたる作であろう。いずれにせよ、天と地と人との出現は、永遠の愛より発したる至高至大の詩であった。「かの時には晨星あいともに歌い、神の子等みな歓びて呼ばわりぬ」という(ヨブ三八の七)。かの時すなわち地の基の据えられし時である。その大いなる神の詩に応じて、すでに造られし者が皆声を合わせて歌ったのである。憶う、その時たえなる天の音楽のいかなりしかを。同じように、神光あれと言いたまいて光ありし時、天の蒼穹をのべたまいし時、諸の植生と動物とを発出せしめたまいし時、日と月と星とを照り出でしめたまいし時、またその像のごとくに人を創造したまいし時、これ皆絶大なる詩であった。しかしてその詩に和して、すでに造られし物はことごとく讃美と歓呼とを交わし、もって荘厳きわまりなき宇宙的合唱を試みたのである。地の基の据えられし時にすら晨星は歌い神の子等は呼ばわりしと云えば、ましてその地を支配すべきしかして神に象られたる人の創造せられし時のごときはいかばかりであったであろうか。多分その時天の軍勢は集いて主降誕の夜におけるがごときいみじき讃歌を唱えたであろう。北斗とその子星とは天の極北より声を放ちて歌い、昂宿と参宿とは東西より手を拍ちてこれに応じたであろう。山と海とは美しき装いを着けて人を迎え、野の樹々と空の禽鳥と地に匍う諸々の昆虫とは皆踴躍して彼に服ったであろう。かくて神の詩は一先ず完結した。「神その造りたるすべての物を見たまいけるにはなはだ善かりき」という。天あり、地あり、光明と讃美とは彼処に充ち、生命と歓喜とは此処に溢る。造化は実に至高の詩であった。宇宙はその初めにおいて完全なる偉大なる調和であった。
しかるに悲しいかな、久しからずしてこの偉大なる調和は破壊せられた。神の詩はその貴き調べを乱されて、言うべからざる悲調のこれに伴うあるに至った。すなわち天には「己が位を保たずして己が居所を離れたる御使い」あり(ユダ六)、地には誘われて神に背きたるアダムありて、宇宙の大音楽は頓に撹乱せられたのである。爾来堕落したる天使は悪の霊となりて天の処にありて暗黒を掌り(エペソ六の一二)、背きたるアダムの子等は罪人として塵に附きたる生活を送り、死の懼れに繋がれている。かくて天は昔日の光明を失い、地は人の罪のために神に誼われて、被造物はみな「虚無に服せしめられ滅亡の僕」となった。ああ、かの荘厳なりし宇宙的合唱はいかに成りしぞ。かの晨星の讃美の歌と神の子等の歓呼の声とは何処に消え失せしぞ。今や我等の耳を打つものは愁々たる悲哀の譜にあらずんば、騒然たる不満の響きのみではないか。誰が家にか歎きの声は聞こえざる。誰が目にか熱き涙は湧かざる。天に恐るべき怒号あり、地に絶えざる呻吟あり、万物に言いがたき苦悶がある。造化の詩の調べは乱されて、宇宙の調和は破れたのである。神の子神にそむきて、天地間一切の関係が義しからざるに至ったのである。
人神にそむきてより、人と人とまた相反き、天然と人とまた相闘い、しかして天然と天然とまた相争う。今や天地間一切の関係が不義である。神に対して人は不義である。親と子、男と女、資本家と労働者、国と国、その間みな互いに不義である。野獣と家畜または猛鳥と小禽、果樹と昆虫または花弁と雑草、その他自然界相互の関係また不義である。土地と農業、天候と交通、黴菌と健康、その他自然対人類の関係また不義である。顧みれば不義また不義、ただキリストの死により功なくして義とせられたる神の子とその父との関係を除いて、天地は全く不義の住所と成ったのである。殊に地は今に至るまで「姦淫の噪をもて汚」されし事幾たびか(エレミヤ三の九)。またその上に流されし無辜の血を吸いし事幾ばくなるかを知らない。アベルを始め幾千万人の血の声が地下の深き処より叫びつつある(創世四の一〇)。腐蝕と荒廃と汚穢とはすでに地の中心までを侵した。全地はもはや一つの大いなる墳墓と化してしまった。狐はここに穴を穿つべく、空の鳥は来たりて巣を営むに適する、されども人の子は枕するに所なしである。ああ、この大いなる廃墟、これがかつてその基の据えられし時天使等をして歓呼せしめたるかの美わしき地であるか。これがロゴスの父の栄光を讃えんとて物せし至高の詩の一齣であるか。我等は切に天地の廃頽を恨む。天よ、汝の暗黒を古の光明に復せ。地よ、汝の汚穢を焼き尽くして、純乎として聖きエホバの大庭と成れ、万物よ、再び歓喜の歌をうたえ。宇宙よ、贖われたる神の子等のために自由にして福なる永遠の園を供せよ。我等は天地の改造を欲求する。無限の調和すなわち義をもって充ち満つる新天新地の出現を渇望する。
「幸福なるかな、義に餓え渇く者、その人は飽くことを得ん」と山上高らかにイエスの声は響いた。「我等は神の約束によりて義の住むところの新しき天と新しき地とを待つ」と使徒ペテロは同信の友等を励まして曰った。義の新天地の渇望者よ、汝の望みを堅うせよ。律法の一点一画の全うせられし後天地は必ず過ぎ往く(滅失ではない、新しき状態への遷移である)であろう(マタイ五の一八)。すなわち人類の救贖の完成せられし後、今の誼われたる天地は必ず改造せられて、義をもって充つる新天地が出現するであろう。使徒ヨハネは孤島にありて霊に感じ独りその荘厳なる光景を予見せしめられた。彼は先ず天も地も御座に坐したもう者の顔の前を遁れて跡だに見えずなるを見た(黙示録二〇の一一)。すなわち宇宙はその荒廃したる現在の状態をことごとく失ったのである(前コリント七の三一)。悪魔に所を得しめたる天はその暗黒を捲き去った。罪人の濫用に委ねられたる地はその一切の醜き痕跡を撤去した。今や暴風と雷電との上より人を威すあるなく、砂漠と曠野との下より彼を煩わすあるなし。墳墓は取り払われ、荊棘は除かれ、薊は抜かれて、罪と死との追思を誘うべき一物をも存せざるに至ったのである。彼はまた新しき天と新しき地とを見た(黙示録二一の一)。すなわち宇宙の改造は遂に完成し、天地は全くその面目を一新して出現したのである。いかなる天地ぞ。「義の住む天地」である。一切の関係の義しくせられたる大調和の天地である。「見よ神の幕屋人と共にあり、神人と共に住み、人神の民となり、神自ら人と共に在して……」。神と人との関係は原始の親しみに立ち返った。ここに一人の神の心を痛むる者あるなく、神自ら我等と共に園の中を歩みて、面を対せて楽しく我等と語りたもうであろう。我等永えにその容光をもて飽き足ることを得るであろう。「彼等の目の涙をことごとく拭い去りたまわん」。調和の失せたる今の天地において、何人もただわが涙のみ夜昼注ぎてわが糧である。誰かこれをわが目より拭い得るものぞ。同じ涙にまみれたる人の手はあとうべくもない。されどただすべての傷をつつみたもう彼の聖手のみよくわが涙の源を封じ得る。かくて再び涙を湛えざる目と目と相顧みて、限りなき感謝の歓びに輝くであろう。「今より後死もなく」。ああ、死よ、汝は遂に失せ果つるか。我等の愛する者は再び我等を逝らざるか。我等は再び悲しみを胸に抑えつつ自ら励まして「また会う日まで」を歌うに及ばざるか。福なるかな新天新地!「悲歎も号叫も苦痛もなかるべし」。何人の胸にも蔵れたる悲歎がある。すべての口に堪えがたくして自ら湧き出づる号叫がある。病の床と暗黒の谷とに言うべからざる苦痛がある。人はこれを慰むるあたわず、否これを解することさえ出来ない。実に悲歎と号叫と苦痛との前に人は盲目である、聾者である、唖者である。されども神はことごとくこれを癒し得るのみならず、贖われたる新天新地において、人は人と相和して復た背かず、天然はすべて人の欲う所に従い、天然と天然とまた相悖らず相闘わざるがゆえに、新しき悲歎と号叫と苦痛とを孕むべき隙は何処にも見出されないのである。ゆえに曰う、「汝等わが創造せるものによりて永遠に楽しみ歓べ」と。我等は偉大なる造化の詩にまさる新天新地創造の詩に与らんとしつつある。神の独子が父の栄光を讃うべき最後の傑作を見んとしつつある。願わくは我等をして共に歌わしめよ、歓ばしめよ、讃えしめよ。