永生とは何ぞ

藤井武

人生問題は一面より見れば永生問題である。我等の現在の生涯を永遠の生命の準備と見てのみ、人生を有意義的に解釈することが出来る。もししからざらんには究竟くっきょうする所「我等いざ飲食のみくいせん。明日死ぬべければなり」との結論に達するを免れない。「永遠の生命を嗣ぐために我れ何をなすべきか」。人生の意義はここにある。ゆえに永生を離れて人生問題はない。永生の性質を明らかにせずして、我等が日々の生涯の意義をかんがえることは出来ない。

しからば永生とは何であるか。イエスは一切を棄てて彼に従いたるその弟子等に対し「誠に汝等に告ぐ、我がためにあるいは家あるいは兄弟……を棄つる者は誰にても今の時に百倍を受け……また後の世にては永遠とこしえ生命いのちを受けぬはなし」と言いたもうた(マルコ一〇の三〇)。パウロもまた言う、「今は罪より解き放たれて神の僕となりたれば、潔きに至る実を得たり。そのはて永遠とこしえ生命いのちなり」と(ロマ六の二二)。これらの語によりて見れば、永生とは未来のもの、後の世に属するものであって、キリストのために一切を棄てたる者または罪より解放せられて神の僕となりたる者が、その生涯の終局において神より受くべき恩恵である。換言すれば永生とはキリスト者が復活によりて獲得すべき来世の生命である。しかして永生をかく来世の生命として示せる聖書の言はその他にもはなはだ多い。

しかしながら聖書は必ずしも永生を来世の生命としてのみ示さない。ことにいわゆるヨハネ文学においては永生は多く現在の生命である。曰う、「御子を信ずる者は永遠とこしえ生命いのちつ」と(ヨハネ三の三六)。また「わが肉を食らいわが血を飲む者は永遠とこしえ生命いのちつ」と(同六の五四)。また「神は永遠とこしえ生命いのちを我等に賜えり。この生命いのちはその子にあり。御子をつ者は生命いのちつ」と(ヨハネ一書五の一一、一二)。すなわち永生はキリストを信ずる者の現在の所有である。しかしてその理由は明白である。キリスト彼自身が永遠の生命なるがゆえに(ヨハネ五の三九、ヨハネ一書一の二)彼を己がうちに有する者はまた必然永生を有せざるを得ないのである。

よって思うに、永生はキリスト者特有の生命である、そはキリスト者の来世の生命であって、同時にまたその現在の生命である。人はキリストを信じて新たに生まる。その時永生は彼に臨んで確実に彼の所有となる。彼は復活を待ちて永生を賦与せらるるのではない。その十字架を仰ぎて救われし瞬間よりすでに永遠の生命に入ったのである。キリスト者の現世における日々の生涯が永生である。しかしてこの永生を有するがゆえに、彼は復活の恩恵にあずかることが出来るのである。「わが肉を食らいわが血を飲む者は永遠とこしえ生命いのちつ。我れ終わりの日にこれを甦らすべし」。知るべし、復活は永生の原因ではなくしてかえってその結果なる事を。本来滅ぶることあたわざる永遠の生命なるがゆえに、復活せざるを得ないのである。しかしながら復活によりて永生の大発展がある。キリスト者の来世の生命はその現在の生命の完成である。キリスト者の新生の日に始まり、その復活の日に完成して、永遠の永遠に至る生命、これを称して永生という。

以上は永生の所属または地位の問題である。次に永生の内容もしくは性質はいかん。永生とは活動の生活であるか、休息の生活であるか、思索の生活であるか、讃美の生活であるか。ことに復活後における永遠の生命がキリスト者の現在の生命の連続であるとすれば、いかなる現在の生活が来世の生活としてのこるのであるか。こは我等に取りて至高の興味ある重大問題である。

イエスはその貴き祈祷中に述べて曰うた「永遠とこしえ生命いのちは、唯一のまことの神にいます汝と汝の遣わしたまいしイエス・キリストとを知るにあり」と(ヨハネ一七の三)。しからば永生とは知識の生活であるか。否、イエスはここに永生の内容を説明したのではない。その根本原理を述べたのである。唯一のまことの神とイエス・キリストとを知るはいわゆる知識ではなくして信仰である。「知識はすたらん」とある。しかり、哲学と科学と神学とは必ずすたるであろう。すべて知識という知識はいかに深遠なるものといえども皆必ずすたるであろう。何となれば、「我等の知る所全からず。全き者の来たらん時は全からぬものすたらん」である。この世の知識はことごとく全からぬもの、「童子わらべの事」である。ゆえに「人と成りては童子わらべの事を棄て」ざるを得ない(前コリント一三の一一)。我等は諸々の現在の知識を携えて復活の生命に入るのではない。この世の知識はすべてキリストの再臨までである。「かの時には顔をあわせて相まみえん」。すなわち完全なる新たなる知識を与えられん。ゆえに「鏡をもて見るごとくおぼろなる」現在の知識はその日限り皆棄てられてすたるのである。しかしながら罪人の霊魂が唯一のまことの神とイエス・キリストを知るの知識は永遠にすたるべからずである。何となればこはいわゆる知識にあらずして、信仰の根底であり永生の原理であるからである。知識はすたる。ゆえに永生は知識の生活ではない。

「全き者来たらん時は全からぬものすたらん」と言う。しかしてすたるべきものは永生ではない。しからば何がすたらずしてのこるのであるか。「預言はすたれ、異言はみ、知識もまたすたらん」。もしこれらの貴き「霊の賜物」すらすたらんには、ましてこの世の社会的生活においてをや。永生は教育でない、慈善でない、政治でない、経済でない。これらのものはキリストの再臨と共に皆すたる。しからばキリスト者の現在の生活中、再臨の日に至りてすたる事なく、いよいよ光輝かがやきを増して現世より永遠の来世へと移り往くものは果たして何であるか。

「げに信仰と希望と愛と、この三つの者は限りなくのこらん」(前コリント一三の一三)。預言はすたれ、異言はみ、知識もまたすたらん。されれどもただ信仰と希望と愛とはすたらずして永遠に存続するのである。キリスト再び来たりたもう時、我等の生活に根本的の変化が臨む。その時彼は多くの全きものを我等に与えて、現に有する全からぬ者を棄てしめたもう。かくて哲学は我等の頭を去り、事業は我等の手より落ち、今の小さき詩と歌とは我等の口より消ゆるであろう。しかしながら現に我等の所有たる信仰と希望と愛との三はその時に至るも決してすたらない。キリスト者が現世において「信仰によりて働き、愛によりて労し、希望によりて忍ぶ」その貴き生活は、彼が新生の日に始まりしものであって、爾来じらい夜となく昼となく繰り返され、しかしてキリスト再び来たりたもう時に、そはただすたらざるのみならず、彼によりてさらに全きものとせられて、そのまま来世の生活と成り、もって永遠に存続するのである。永生とは実にこの信仰と希望と愛との生活である。

しかり、永生は信仰と希望と愛との生活である。ある人の想像するがごとく、我等の信仰と希望とはキリストの再臨までではない。復活後の永遠の生活もまた信仰の生活である。何となればキリスト者は復活の後といえども依然として赦されたる罪人たるを失わないからである。十字架の贖いに対する彼の信仰は永遠にわたりてすたらない。彼は現世に在りてこの信仰によりて働くがごとく、新しきエルサレムに在りてもまた同じ信仰によりて働くのである。信仰なくして真の働きあるなし。しかるに永遠の生活は活動の生活である。「その僕らはこれ(神と羔)に仕えん」という(黙示録二二の三)。奉仕は活動である。新しきエルサレムにおけるキリスト者の奉仕はキリストの奉仕に似たる最高最大の活動である。しかしてこの活動は何によりてなさるるか。曰く信仰である。神の僕らは復活の後も十字架の信仰によりてこれに仕えるのである。

希望もまたキリストの再臨によりてすたらない。キリスト者の「神の栄光に対する希望」(ロマ五の二)は無限である。もし来世が同一生活の永久的繰り返しに過ぎざる単調無味なるものにして、さらに進歩なく発展なきものならんには、そこに何の希望も有り得ない。しかしながらかくのごとき来世はむしろわざわいなるかなである。新約聖書が提供する所の来世は、時代より時代へと無限に進み往く永遠的発展の生活である。ゆえにこれを原語にて「世々の世々」(hoi aiones ton aionon 英語 the ages of the ages)と言い(ガラテヤ一の五、ピリピ四の二〇、その他十八ヶ所)、時には「世々の世のすべての時代」(pasai hai geneai tou aionos ton aionon, all the generations of the age of ages)と言う(エペソ三の二一)。栄光は栄光にぎて尽くる所を知らざる生活が、我等を待てる永遠の生活である。

しかして来世はもちろん愛の生活である、愛の充実である。しかしながらそは我等の有する現在の愛の連続である。現世において愛の生活を送らずして、復活の生命に入ることは出来ない。貴きは実に信仰と希望と愛との生活である。ここに充実せる永生がある。我等が現世において信仰によりて働き、希望によりて忍び、愛によりて労するの生活を営む時、我等はすでに来世の生活を実験しつつあるのである。我等は必ずしも預言や知識においてまったからざるを嘆じない。ただ我等をして信ぜしめよ、望ましめよ、愛せしめよ。信仰と希望と愛との備わるありて現世生活そのものが最大の恩恵である、感謝である。