預言者等は「来たるべき聖国」について預言高唱至らざるなかった。彼等はこの嘉信を伝えんがために、「高き山に登り強く声を挙げて懼れ」なかった。彼等の「足は山の上にありて実に美わしく」あった。
しかしながら、彼等はかつて一度びも「教会」について語らなかった。旧約聖書には教会の原語たるギリシャ語 ekklesia に相当するヘブル語 qahal を用いること百二十三回に及ぶも、これらはいずれも単に「民衆」又は「集会」等の意味を有するに過ぎずして、新約聖書に謂うがごとき「教会」の観念は旧約時代には全くこれを認むることが出来なかった。預言者等は「聖国」を預言して、「教会」を預言しなかったのである。キリスト教会とは実に新約時代に入りて初めて啓示されたる奥義である。「この奥義は今御霊によりて聖使徒と聖預言者とに顕わされしごとくに、前代には人の子らに示されざりき。すなわち異邦人が福音によりキリスト・イエスに在りて共に世嗣となり、共に一体となり、共に約束に与る者となる事なり」(エペソ三の六、その他コロサイ一の二四~二九、ロマ一六の二五~二七参照)。
預言者等は何故に来たるべき聖国を預言して教会を預言しなかったか。およそ新約の福音はことごとく旧約においてこれが明白なる予表を認め得るに拘わらず、独り教会のみは何故「歴世歴代隠れて」「前代の人の子らには示されざりし」奥義であったか。答えて曰く、教会は救贖の手段にして、その目的ではないからである。換言 すれば教会そのものが来たるべき聖国の預言たるの性質を有し、それ以上の地位を占むるものではないからである。
現存の教会がすなわち旧約聖書に預言せられたる聖国であるとは、久しき間の教会の迷信であった。世に有害なる迷信にしてこのごときものは少ない。「教会」の断じて「聖国」にあらざる事を示すは決して聖書学上の閑問題ではなくして、実にすべてのキリスト者の信仰の死活に関する根本問題である。教会の地位を明白ならしめずして、信仰は常に堕落の危険においてある。さればキリスト教における実際問題の最大なるものはこの「教会の地位いかん」にあると我等は信ずる。
教会の成立がペンテコステの日における聖霊の降臨に基づく事は、何人も異論なき所である(行伝二章)。教会とは「ユダヤ人ギリシャ人奴隷自主の別なく、皆一つ御霊にてバプテスマを受けて、一体となりたる者」である(前コリント一二の一三)。それはキリストの体であって、彼をその首に戴く者である(エペソ一の二三、四の四)。またキリストの殿であって、彼をその衷に宿す者である(エペソ二の二〇~二二、後コリント六の一六、前ペテロ二の四~七)。教会とキリストとの間にかかる美わしき関係の存する事は誰しもこれを拒まない(ここに教会とはいわゆる何々教会というがごとき組織されたる特殊の団体にあらずしてすべての聖徒の一団の謂なる事は言を待たず)。今の世にありて最も恵まれたる者は、言うまでもなくキリスト者及びその団体たる教会である。聖霊これを充たし、キリストこれを導き、愛は溢れ、平和は漲る。この点において教会は実に来たるべき聖国の典型であり予表である。
しかり、予表である。しかしながら本体ではない。ゆえにその間に著るしき類似があると共に、また根本的の差別がある。しかしてまた特殊なる関係がある。二者を同一視するはその類似の一面にのみ執して、重大なる差別と美わしき関係とを全然没却したるものに外ならない。類似を高調するは可なり。されども差別を差別とせよ。殊にその関係を乱すことなかれ。両刃の剣よりも利き神の言を混淆するに勝るの危険はまた世にないのである。
しからば問う、教会と聖国との根本的差別はいかん。曰く、教会は復活昇天のキリストに属ける者にして、聖国は再臨のキリストに属ける者である。教会と聖国との間に存する諸の相違は皆この一事実より生ずるのである。なかんずく二者はその存在の時期において異なる。聖国はキリスト再び顕われて万物を己に服わせたもう時、すなわち世の終わりし後に実現するに反し、教会はペンテコステの日以来現にこの世にありて存在するのである。しかり、教会の特殊なる地位は、先ずそのこの世に対する関係においてある。教会はこの世に在りてこの世より選び出されたる者である。エクレシアの字義がすでに明らかにその事を表示する(ヨハネ一七の六、一六参照)。教会は世にあるといえども、世の属ではない。その本籍は彼方天においてある。彼処より重き使命を委ねられて、己が国ならざるこの世に駐る者が教会である。ゆえにその先ず果たすべき第一任務は、常に竿頭高く「反現世」の鮮明な旗幟を翻えすことにある。教会はこの世とは一切の事において画然厳然区別せられなければならない。教会もしいやしくも世と妥協せんか、もしくは世と紛うべき色彩をだに帯びんか。そは自ら何と称せんとも、全く教会たるの特権を奪われて、終わりの日における「大いなる患難に投げ入れ」らるべきである(黙示録二の二二)。しかるに教会をもって来たるべき聖国なりと做す者は、そのこの世との区別を重大視することが出来ない。かえって有り得べからざる「現世における全世界のキリスト教化」を信じて、自ら俗化し終わるのである。教会よ、汝の地位を自覚せよ。汝の首なるイエス自ら世に在りし時は如何であったか。その産まるるや旅舎に居る所なくして馬槽に臥させられ、その生くるや枕する所なく、その死するやまた漸く他人の墓の中に葬られたもうたではないか。「汝ら世をも世にある物をも愛するなかれ。人もし世を愛せば、御父を愛する愛その衷になし」(ヨハネ一書二の一五)。
次に教会と聖国との関係はいかん。これまた復活昇天のキリストと再臨のキリストとの関係に準うのである。キリスト現在は天に隠れて在したもう。されどもその隠るるはやがて顕われんがためである。教会もまたしかり。「汝らは死にたる者にして、その生命はキリストと共に神の中に隠れ在るなり。我らの生命なるキリストの現われたもう時、汝等もこれと共に栄光の中に顕われん」(コロサイ三の三、四)。教会の性質は神秘的非自然的である。そのキリストとの関係は純粋なる霊的方面に限られている。もちろんこの聖霊の内在に限りなき福がある。しかしながら明白なる一事は、イエス・キリストの父なる神の施したもう救贖はかかる神秘的関係のみをもって終わらない事これである。キリスト彼自身が現われずんばやみたまわない。しからば彼を首と戴く教会もまた彼と共に顕現的自然的なる聖国と化せられざるを得ない。教会は聖国の前駆者である。聖国臨りて教会は初めてその存在の目的を達するのである。ゆえに教会の生命は聖国の希望にありと言うことが出来る。聖国の希望をもって充ち満つる時、教会は生気溌剌として最も強健である。教会もし聖国を望まざらんか、現世の教化と社会の改良と慈善と音楽とに熱中せんか、その事業いかに盛大なりといえども、すでに教会としての生命を失いし死屍に過ぎない。かくのごときものは主来たりて「その燈台を取り除き」たもうに相違ないのである(黙示録二の五)。
この世に対しては寄寓者、聖国に対しては前駆者、これ聖書が示す所の教会の地位である。しかしてこの地位に止まりて、教会は初めて主の新婦たる至高き特権を享受することが出来るのである(黙示録一九の七、八)。醒めよ教会、世と絶て、しかして聖国を待ち望め。