大いなるバビロンの罪

藤井武

「大いなるバビロンは倒れたり、倒れたり」。天使一たび強き声にてかく呼ばわれば、様々の苦難一日のうちに臨み来たり、大いなる都は火にて焼き尽くさるという。しかして地の王等はその焼かるるけむりを見て泣き、叫びて曰う、「禍害わざわいなるかな、大いなる都堅固なる都バビロンよ。汝の審判さばきときに来たれり」と。地の商人等はその苦難をおそれて悲しみ、叫びて曰う、「禍害わざわいなるかな、禍害わざわいなるかな……かばかり大いなる富のとき荒涼あれすさばんとは」と。またすべての船長その他海によりて生活をなす者等も塵を己がこうべかぶりて泣き悲しみ、叫びて曰う、「禍害わざわいなるかな、禍害わざわいなるかな、この大いなる都……かくとき荒涼あれすさばんとは」と。もってそのいかに急激にして戦慄すべき滅亡なるかを知るに足る。これ聖書に預言せられたる大いなるバビロンの審判である。

大いなるバビロン、あるいはまた「大淫婦」と称せらる。彼女は「地の淫婦等と憎むべき者との母」であるという。すべて神に仕えるがごとくにして実は神ならざる者に仕える者、これすなわち淫婦である。自ら大淫婦にして、しかして地の淫婦等の母たる者とは誰であるか。こは決してローマ法王廷または背信的キリスト教国というがごとき一時代一地方に限られたるものではない。もちろんキリスト教会中に多くの淫婦がある、そのプロテスタント教会の中に、またその天主教会の中に。しかしながらキリスト教会以外にもまた多くの淫婦がある。キリスト教以前にさらに多くの淫婦があった。これら諸々の地の淫婦等の母たる者がかの大淫婦である。すなわち遠くカインより始まりて今に及び、なお世の終わりにまで連続すべき、地上における一切の偽信者偽教会の総団体、これを称して大いなるバビロンという(バビロンは文字通りバビロンの都であると共にまたあるものの象徴としてこれを見ねばならぬ)。その中にはキリスト教会あり、シナゴグあり、仏教徒あり、回教徒あり、その他の偶像崇拝者あり、およそその名のいかんを問わずサタンの新婦はなよめたる者、その精神をもって感化せられたる者、イエス・キリストの地位に他の者を据えんとする者はみなこれに属するのである。

恐るべきは大いなるバビロンに臨まんとする審判である。その滅亡はただに急激なるのみならず、また終局的である。一人の強き天使大いなる碾臼ひきうすのごとき石をもたげこれを海に投げて、その滅亡の型を示して曰く「大いなる都バビロンはかくのごとく烈しく撃ち倒されて、今より後見えざるべし。今より後立琴たてことく者……の声汝のうちに聞こえず……今より後新郎はなむこ新婦はなよめの声汝のうちに聞こえざるべし」と。完全なる滅亡である、回復の望み絶無なる荒廃である。しかしてこれ言うまでもなく審判の最も重きものである。

知らず、この重き審判を招くべきバビロンの罪は何であるか。そは必ずや神の目に最も悪しきものたるに相違ない。大いなるバビロンの罪の何たるかを学ぶは我等に取りて至大の関係ある問題である。

大いなるバビロンの罪に二種ある。一はその精神に関するもの、二はその行為に関するものである。「彼は心のうちに我は女王の位に坐する者にして、寡婦やもめにあらず。決して悲歎かなしみを見ざるべしと言う」と(黙示録一八の七)。これバビロンの精神的罪悪である。「汝の商人あきうどは地の大臣だいじんとなり、諸種もろもろの国人は汝の呪術まじわざに惑わされ、また預言者、聖徒及び地の上に殺されし者の血はこの都の中に見出されたればなり」と(同一八の二四)。これバビロンの行為的罪悪である。

(一)「我は女王の位に坐する者」。現世にありてすでに王位に坐する者、大いなる勢力を帯びて社会を支配する者、世人の喝采を博し多数の追随者を有する者、一言すればいわゆる成功者、偽教会の目的またその自負の第一はここにある。彼等は極端なる現世主義者である。現世以外に遥かに優秀なる生活のある事を知らない。ゆえにもし現世において王たらざらんか、すなわち全然失敗である。彼等の野心は最も卑しき政治家または実業家輩と何の選ぶ処なしである。しかしながら聖徒の目的は現世においてあらずして、の世において在る。聖徒もまた王位を望む。しかも罪の世における汚れたる王位を望まない。新しき聖国みくににおける光栄ある王位を望む。「かちを得る者には我と共に我が座位くらいに坐する事を許さん」、「彼等はキリストと共に王たるべし」。これみな復活または栄化の後である。現世にありては、聖徒は決して王ではない。かえって「義のために責めらるる者」、「世の塵芥あくたのごとくよろずの物の垢のごとくせらるる」者である。これ彼等の特権である、またその誇りである。

(二)「寡婦やもめにあらず」。我は憐むべき寡婦やもめにあらず、我に幾多のたのむべき愛人ありと。淫婦の精神を表白して遺憾なしである。誠に彼女のその心を寄せその身を託する処は多い。なかんずくこの世の君たるサタン――かの古き蛇――は彼女の最も愛する者である。聖徒はしからず、キリスト世にいまさざる間、彼等の地位は寡婦やもめのそれである。孤独である。されども不在のキリストに対する熱愛と、その再臨を待ちこがるる切望とがある。再臨信者は一面より見れば実に寡婦やもめである。しかるにこれを嘲り、傲然として「我は寡婦やもめにあらず、我は主の再臨を望まず」と言う者はまさに淫婦たる偽信者にあらずして何であるか。

(三)「決して悲歎かなしみを見ざるべし」。享楽は我が主義、我が特権、我が人生観の全部である。わが目は楽しみわが耳は喜びわが肉は肥え我が産は殖ゆ。患難とは何ぞ、迫害とは何ぞ。大いなる門より入り広き路を歩む者に一の悲歎かなしみあるなしと。かくて彼等に見るべき美わしきすがたと慕うべき艶色みばえとがある。されども主イエスは曰いたもうた、「汝等世に在りては患難なやみあり」と。また「幸福さいわいなるかな悲しむ者」と。また「狭き門より入れ……生命いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者少なし」と。

(四)「汝の商人あきうどは地の大臣だいじんとなり」。商人の跋扈ばっこである、商売的精神の増長である。もちろん商売そのものが悪ではない。しかしながら商売的精神の中に恐るべき毒物がある。人をして神と富とに兼ね仕えしめんとするの勢力すなわちこれである。しかして人は二人の主に兼ね仕えることあたわず。信者金銭を愛するに至りて、彼は必ず神を軽しむ。「それ金を愛するは諸般もろもろの悪しき事の根なり」(前テモテ六の一〇)。ああ、富豪に依頼する教会よ、汝等何の辞をもって信仰の腐敗を弁護することが出来るか。キリスト教国よ、覚醒せよ。汝等を苦しめたる世界戦争の根源は汝等の抱ける深大なる利慾にあった。キリスト教国に倣わんとする愚かなる新興国よ、願わくは汝の富国主義を棄てて先ず神の国とその義とを求めよ。

(五)「諸種もろもろの国人は汝の呪術まじわざに惑わされ」。淫婦の巧妙なるものは呪術まじわざである。彼女は不思議なる手段をもって人の目をくらまし、真理の贋物にせものを真理と信ぜしめてその心をせずんばやまない。かくて多くの人は「糧にもあらぬ者のために金を出し、飽くことを得ざるもののために労し」て、自ららざる間に恐るべき滅亡のみちを辿りつつあるのである。人類をして「進化」の福音を信ぜしめ、「文明」の理想に酔わしめたる者は彼女であった。しかして今や「民主主義」と「国際連盟」とをもって万国の民を惑わさんとしつつある者もまた彼女である。人よ、なかんずくキリスト信者よ、淫婦の呪術まじわざを警戒せよ。

(六)「預言者、聖徒及び地の上に殺されし者の血はこの都の中に見出さる」。ああ、これいかばかりの罪悪ぞや。しかも偽教会の歴史中何等かのかたちにおいてこの罪悪を見ざるものは一頁だもないのである。偽教会は聖徒をゆるすに堪えない。ゆえにあらゆる陰険なる方法を講じてこれを苦しめんと欲する。聖徒の迫害は決してローマ教会に限られし事ではない。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者等を殺し遣わされたる人々を石にて撃つ者よ」と主は歎じたもうた。しかして事は今もなお同様である。ああ聖徒よ、撃たれよ、迫められよ、喜び喜べ。天にて汝らの報いは大いなりである。

その精神においては現世主義、再臨反対主義、享楽主義、その行為においては利慾と呪術と迫害、大いなるバビロンの罪はこれである。しかしてこの深き罪に対して、かの重き審判はくだらんとするのである。くだれ審判、滅びよバビロン。汝の罪はいかんともすることが出来ない。されども神の子等よ、彼女の罪にあずかるなかれ。もし迷う所あらば今において速やかに悔い改めよ。

また天より他の声あるを聞けり、曰く「わが民よ、彼の罪にあずからず、彼の苦難を共に受けざらんため、その中をでよ」(黙示録一八の四)