へシボンの畑とシブマの葡萄の樹とは凋み衰えたり。
その枝さきにはヤゼルにまで至り、荒野にはびこり、延びて海を渡りしが、国々の諸の主その美わしき枝を折りたり。
このゆえに我れヤゼルの哭くと等しくシブマの葡萄の樹のために泣かん。ヘシボンよ、エレアレよ、わが涙汝をひたさん。(イザヤ一六の八、九)
ヘシボンはヨルダンの水の死海に注がんとする辺りを東に距ることおよそ十七八哩、小高き丘の上に立ちたる都であった。かつてはアモリ人の首府たりしが、預言者の頃にはすでにモアブの領であった。その東北わずかに半時の行程を隔てて、エレアレの邑の横たわるあり。二市共に郊外一帯の豊かなる葡萄畑を控えておった。ここに「ヘシボンの畑」とはすなわちそれである。なかんずくヘシボンの近郊シブマの葡萄は特に品質の優良をもって知られ、その美わしき果は遠く諸国の宮廷の卓上に運ばれて、美酒に飽くなき王侯貴族等の心をも身をも酔い倒れしめたのである。「その枝さきには……延びて海を渡りしが、国々の諸々の主その美わしき枝を折りたり」と訳せられしは、むしろ主客を転倒しかつ前後句の位置を換えて次のごとくに読むべきであろう。
その美わしき果は国々の諸の主を撃ち倒せり。そはヤゼルにまで至り、荒野にはびこり、その枝はるかに延びて海を超えたり。
名高きシブマ葡萄は何時としもなく茂りに茂りてその蔓を四方に拡げ、遂にモアブの国土の半ばを占むるに至った。すなわち北はギレアデに近きヤゼルより、東は荒野にはびこり、さらに西南遠く死海を越えて彼方にまで及んだ。想い見るヨルダン河東の地、蒼々たる枝は連なりて野を蔽い、爛々たる果は列なりて地に垂れたる当年の美観を、まさにこれヘシボンとエレアレの栄えにして、ヤゼルの高き誇りであった。
しかるに預言者の目には遠からずして来たるべき凋落の面影いと鮮やかに相映じた。「ヘシボンの畑とシブマの葡萄の樹とは凋み衰えたり」。見よそよふく風に海のごとく波うてるその葉はことごとく枯れ果つるであろう。ルビーの総にも似たるその豊かなる果は皆泥に塗れて再び枝に復らないであろう。「喜びと楽しみとは土肥えたる畑より取り去られ、葡萄園には謳うことなく歓び呼ばうことなく、酒ぶねには践みて酒を絞る者なし」(イザヤ一六の一〇)。ヘシボンとエレアレの畑は空しく雑草の生えるに委せ、シブマの葡萄の樹はいたずらに残骸を曝すであろう。しかしてヤゼルはその栄えを失いて哭くであろう。「このゆえにモアブはモアブのために泣き叫び、民みな哭き叫ぶべし。汝等必ず甚だしく心を痛めてキルハレステの乾葡萄のために哭くべし」(同一六の七)。しかしながら預言者は独りモアブの土と民とをして歎かしめなかった。彼は自身悲しむ者となりて共に声を揚げて泣いた。「このゆえに我れヤゼルの哭くと等しくシブマの葡萄の樹のために泣かん。ヘシボンよ、エレアレよ、わが涙汝をひたさん」。さらに進んで彼は曰うた、「このゆえにわが心腸はモアブのゆえをもて琴のごとく鳴り響き、キルハレスのゆえをもてわが衷もまたしかり」と。(同一六の一一)
シブマの葡萄の樹のために預言者は泣くとぞ言う。その熱き涙はヘシボンとエレアレをひたさんとぞ言う。解しがたきかな。彼をして安価なる形容詞の濫用者たる今日の文人のごとくならしめば、もしくは彼をして国産の増殖と輸出貿易の高潮とのために焦慮する現代の実業家のごとくならしめば、そはあるいは説明し得べき言であろう。しかしながら言者は誰ぞ。預言者である。その心は神の霊を宿し、その口はエホバに代わりて開く所の預言者である。しかも預言者中の預言者、大イザヤである、この人をしてこの言あらしむる所以は果たして何処にあるか。
イザヤはシブマの葡萄の荒廃を思うて泣いた。その枝とその葉とその果とのために泣いた。しかり、彼はこれらをもって装われたる天然そのもののために泣いたのである。美わしき天然と豊かなる土地、こは果たして卑しむべきものであろうか。神は始めに人を造りてかくのごとき天地にこれを置きたもうたのではないか。「エホバ神エデンの東の方に園を設けて、その造りし人をそこに置きたまえり。エホバ神見るに美わしく食らうに善き諸の樹を土より生ぜしめたまえり」。その時天の蒼穹より放てる光は地の豊かなる装いと相映じて、自然美の極致を発揮したのである。我等の祖先の置かれたる所はかくも楽しき園であった。誠に美と豊満とは父の限りなき富より出でたる愛の賜物であった。地上におけるすべての美わしきもの豊かなるものは、皆旧きエデンの園の名残である。かくて我等は今もアルプスの峰とカリホルニアの野とにおいて少しく原始の福祉を偲ぶことが出来る。我等が天然を愛する心は、傷われざる神の園を慕うの情である。ゆえに自ら切々たらざるを得ない。かの旭光に映る白雪の富士よ、かの青葉瑞々しく躍る武蔵野の畑よ。誰かこれが讃美者を笑う者ぞ。モアブに蔓りしシブマの葡萄もまた預言者の目には意味浅きものではなかった。否イザヤはこの言うに足らざる地方的農産の中にエホバの恩恵の象徴を見たのである。その美わしくして豊かなる光景は預言者の心を誘うてエデンの昔に帰らしめたのである。しかるに何ぞ。「ヘシボンの畑とシブマの葡萄の樹との凋落」眼前に迫らんとするは。預言者はその原因を捉えて叫んだ。曰く
我等モアブの倣慢を聞けり。その高ぶること甚だし。我等その誇りと高ぶりと憤りとを聞けり。
と(イザヤ一六の六)。モアブにこの罪あるがゆえに「鬨声汝が果物、汝が収穫の実(葡萄)の上に落ち来た」らんとするのである(同一六の九)。ああ、人に倣慢ありて、凋落天然に臨む。モアブの高ぶること甚だしくして、シブマの葡萄は凋み衰う。神の吝みたまわざる美と豊満とは、人の罪によりて絶滅せんとするのである。これを思うて預言者の心に大いなる義憤は湧かざるを得なかった。しかしながら天然に対する彼の愛着はあまりに深くあった。彼は詩人ヲルヅヲルスのごとく「山よ谷よ河よ、汝等正しき嫌悪の情に燃えよ」と言いて自ら奨励者の地位に立つべく余りに密切に天然と結び付いていた。イザヤは山と河とに勧めずして、自らモアブの野に代わって泣いた、「我れヤゼルの哭くと等しくシブマの葡萄の樹のために泣かん。ヘシボンよ、エレアレよ、我が涙汝をひたさん……わが心腸はモアブのゆえをもて琴のごとく鳴り響く」と。
しかしながら天然に対する預言者の同情は、独り原始時代の回顧より来たるのではない。否、預言者は顧みるよりもむしろ望む。彼の目は前に向かって、遠く末の日にまで注がるるのである。しかしてこの立場に立ちて、天然の美と豊満とはさらに意味深きものであった。神がその子をもって己の国を地上に建設したもう時、そは果たしていかなるものであるか。
エホバ言う、見よ日到らんとす。その時には耕す者は刈る者に相継ぎ、葡萄を践む者は種播く者に相継がん。また山々には酒滴り、岡は皆溶けて流れん。(アモス九の一三)
荒野と湿いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランの花のごとくに咲き輝かん。盛んに咲き輝きて喜びかつ喜びかつ歌い、レバノンの栄えを得カルメル及びシャロンの美わしきを得ん。(イザヤ三五の一、二)
再び天然美の充実である、普及である。エデンの園の復興である、完成である。その時地は化して豊かなる園となり、我等が現今稀に遭遇して心躍る所の野と山との妙なる光景が全世界の姿となるであろう。さればすべて美わしき天然は来たらんとする国の反映である、その予表である、その前景である。誰か西天を焦がす落日の光輝を望みて、彼世の面影を偲ばざる。誰かヲルヅヲルスと共にこれを讃えて、「我が牧羊者の踏む土地に、天よりの光明の来たり交れるなり」と歌わざる。イザヤはヨルダン河東の実れる園に「岡をして溶けて流れしむべき」後の日の福祉を想望した。このゆえにその凋落の予見は彼の心の堪えがたき痛みであった。かくてかの悲憤なる哀歌は預言者の唇に溢れたのである。
今の人はあまりに人の財産とその権利とについて語る。彼等は何故に天然について語らないか。何故に天然の美を愛しないか。神は騒がしき市井の運動を避けて、緑の野と憩いの水浜とにその群れを牧いたもうのである。「わが愛する者よ、ああ、汝は美わしくまた楽しきかな。我等の牀は青緑なり。我等の家の棟梁は香柏、その垂木は松の木なり」(雅歌一の一六、一七)