汝のパンを水の上に投げよ

藤井武

世には遠慮と称して五十年百年の後をおもんばかり、己が智慧の限りを尽くして予定の計画を立て、周到なる用意をなしつつ人生の行路を辿る人々がある。彼等はすなわちこの世の智者である。彼等のなす所は一見いかにも安全にして優秀なるがごとくである。しかして今日の教育家実業家政治家はもとより、宗教家またはキリスト者に至るまで、みなかかる態度を推奨してやまない。

しかしながらたとえ世がこぞって推奨するとも、かくのごとき態度はイエス・キリストの僕にふさわしきものではない。パウロは曰うた、「我等の顧る所は見ゆる者にあらで見えぬものなればなり。見ゆる者は暫時しばらくにして、見えぬ者は永遠とこしえに至るなり」と(後コリント四の一八)。「見ゆる者」とは何ぞ、「見えぬ者」とは何ぞ。そはある人の説明するがごとく、物質と精神または現象と実体というがごとき抽象的哲学的の意味ではない。何となればパウロのここに語る所は哲学的思想にあらずして、信仰的実験なるがゆえである。有名なる聖書学者マイヤーはこれを信仰的実験の語と解釈して、最も明快なる説明を下した。曰く「見ゆる者とはキリストの再臨以前に属するもの、見えぬ者とはそれ以後に属するもののいいである」と。これ誠に適切なる解釈である。かくてこの語に、「我等もしその見ぬ所を望まば忍耐をもてこれを待たん」(ロマ八の二五)、「それ信仰は望む所を確信し見ぬものを真実とするなり」(ヘブル一一の一)等の言とよく照応する所の意味がある。パウロの顧る所、その目的とする所は、キリスト再臨以前に属するものではなかった。この世における事業とその結果、この世における地位財産名聞、すべてこの世における成功は彼の眼中になかった。これに反して彼の顧る所はキリストの再臨とそれ以後のものとであった。すなわち復活と携挙と神の国と永遠の生活であった。一言すれば、パウロはこの世の将来に目をくることなく、一躍して常に来世の事をおもんばかったのである。

来世をおもんばかるはし、しかしながら同時にこの世に於ける百年の大計を立つるはさらに必要ではないかと、今の智者等は反問するであろう。彼等に対してパウロ自身がすでに答弁を与えている。曰く「見ゆる者は暫時しばらくにして見えぬ者は永遠とこしえに至るなり」と。見ゆる者は暫時しばらくなり!何故か。キリストの再臨は何時いつとも図るべからざるがゆえである。そはあるいは千年あるいは百年あるいは五十年の後であろう。しかしながらそはまたあるいは明年あるいは明日あるいは今宵であるかも知れない(誰がこの事を否定し得ようか)。これ決して好奇的想像ではない。聖書の教える最も厳粛なる真理の一つである。しかしてもし今宵にも主イエスの声聞こえなばいかん。しからば百年の大計は愚か、明日の予定さえもことごとく顛覆てんぷくせざるを得ない。「見ゆる者は暫時しばらくなり」という、実にしかりである。ゆえに主イエス自身もまた教えたもうた。曰く「先ず神の国と神の義とを求めよ……明日の事を思い煩うなかれ。明日は明日自ら思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」と。再臨信者に取りて確実なるものは神の国である、不確実なるものは明日である。この世の明日はあるいは来ないかも知れない。今宵にも主来まさば明日はもはやこの世の生涯ではない。今宵すでにふけて主はいまだ来まさず、かくて東の空再び白み初めなば、その時こそ「またこの世の新しき一日を与えられたり」と言いて、初めてその日の事に思いを運ぶべきである。

「汝のパンを水の上に投げよ」とは伝道の書の記者が深刻なる経験をもって人生の至上善の何処にあるかを探求したる後に発したる声であった(伝道書一一の一)。水の上に投げられしパンは砕けかつ浸りてついに行方も知れずなるであろう。この世の智者の目に愚かなる事とてかくのごときはない。しかしながら明日あるを知らざるキリスト者はただ今日と称うるうちに愛の行いをなすべきのみ。その行いが明日または明年に及びていかなる結果を生むかはすべてこれを主のみこころに委ねよ。しかして自ら思い煩うことなかれ。伝道の書の記者はなおもその言を続けて曰うた、「風を伺う者は種播くことを得ず、雲を望む者は刈ることを得ず」と。明日あるいは風は止むかも知れない、しかしながらその前に主は来たりたもうて、我等の種播くべき機会は永久に閉ざさるるかも知れない。播くべき種を手に持ちしまま主の前に立つ者は「悪しくかつおこたれる僕!」との審判をのがるることが出来ない。ゆえに同じ記者の勧むるがごとく「汝あしたに種を播け、ゆうべにも手を休むるなかれ」である。結果のいかんをおもんばからず、未来の事を思い煩わずして、ただなすべき善を今日のうちになすの生涯、これパウロその他の使徒等の生涯であった。しかしてまたすべての再臨信者の生涯である。

最後に世の智者等はなお一つの反問を加えるであろう、「再臨の事速やかに実現せば可なり。されど何人も時を定むるあたわず。もし千年二千年の後まで再臨なかりせばいかん、我等はその場合に処するのみちをも考えねばならぬ」と。誠に時は何人もこれを定むべからずである。主の再臨はあるいは千年二千年の後に延びるかも知れない。しかしながらその場合に処すべき最上のみちは果たして何であるか。主は一度ひとたびも「再臨なき場合を予想して斯斯かくかくせよ」とは教えなかった。彼はただ教えて曰うた、「備えよ」「目を覚ませよ」「待ち望めよ」と。しかしてその理由は明白である。主は今日来たりたもうやも知れずとの待望をもって準備せし一日が、たとえ主来たりたまわざる場合においてもまた最も善き一日であるからである。再臨に対するの準備が再臨なき場合に対しても最上の準備である。「汝のパンを水の上に投げよ」。その結果を思い煩うなかれ、人の智慧に基く計画を立つるなかれ、今日主の喜びたもう所を今日実行せよ、残す所なくたくわえる所なく腹一杯の純なる愛をことごとく傾け尽くして一日を送れよ。貴くしてさいわいなるは実にかくのごとき信仰的その日暮らしである。