第三講 覚醒、展開、微温

第三章(九月二十九日)

藤井武

五 覚醒

サルデスはテアテラの南東にありて、ルデアの首都であった。巨富を擁していたため外寇がいこうを受くることしばしばであった。紀元前六世紀の半頃クロスの攻略に遭いし時、彼等は自然の城砦に頼りて心をゆるうしたるため、北方城壁に罅裂かれつを生じたるに気付かずして敵の侵入するところとなった。この敗因は書翰の理解に暗示を与える。敵は誠に「盗人のごとく」襲うたのである。その後アレクサンダー大王に征服せられ、さらにくだって前三世紀の終わりにはスリアのアンチオカスまたこれを奪い、ついにローマ帝国の属領に帰したのであるが、この市の信者の心的状態はかかる歴史を連想せしむる放心惰眠不緊張の状態にあった。この放心せる者に呼びかけたもう者は、「七つの霊と七つの星とを持つ」ところの、めて仮睡まどろむことすらなき者である。彼にはじょうずべき隙は寸毫すんごうもない、彼の眼は常にすべてのものをていたもう。かくのごとき神は睡生すいせい惰眠だみんの人々に呼びかけて言いたもう、「汝ら生くる名あれど死にたる者よ」と。これでは味を失いたる塩である、光消えたる燈火である。されば「目を覚ませ!」とのたもう。

我々の信仰は自分をすっかり棄てて一切をかすと云う確かに虫の良きものがあるが、しかしその真意は断じてあやまられてはならない。信頼は惰眠ではなく安眠である。信頼する者の心眼には光がともされている。彼は良心ぬきの無責任者ではない。似て非なる安心は心の眠りであって、信仰と生命いのちは惰眠の中に逃げゆく。もし聖書の信仰をかく穿き違えるならば、「生くる名あれど死にたる者」である。真の平安は放心状態に宿らずして、覚醒の状態に臨む。聖旨みむねのままと云いてゆだねまつる心が、どうして自覚なきものであり得ようか。どうなってもいいと云うことばは、ある人には真理、他の人には躓きの石である。真理は常に断崖の上にあり、日本刀は真の武人のはいすべきもの。「目を覚ましおれ」とは、主イエスが最後近き日ねんごろに弟子達にいましめられしところであった。我々は殷鑑いんかんをこのサルデスの歴史と信者とに見ることが出来る。目を醒まして備えすべきである。いつ苦難がのぞむも狼狽せざるの心、いつ旅路尽くるもアーメンとこたえまつる心、いつ主来たりたもうも燈火の備えある乙女、しかくありたくある。しからざるときは、聖国みくにの扉の鎖されてあるのを見出すであろう。

六 展開

ヒラデルヒヤはサルデスの東南の平野にある。交通の要衝に当たっているが、地震多く、市に定住する者は多くなかった。紀元十七年に大震災あり、ローマ皇帝の救済にあずかって復興するを得た。市民はその恩に 感激して市の名を改め、ネオカイザリヤと称した。この地の信者の信仰は市の復興発展と同じく、信仰より信仰へと展開した。彼らはユダヤ人からの迫害を恐れず、積極的の態度にでて伝道した。仇の前に聖名みなを否まなかった。福音を恥としなかった、前進した。「よ、我なんじの前に開けたる門を置く」と言わるるに相応ふさわしき積極的な信者であった。

我々はここに健全サウンドな信仰が展開的であることを学ぶ。真理より真理へと躍進すること、あたかも白き夏雲の重畳して立ち昇るがごとくである。主を呼びまつりて明け、主を仰ぎまつりて暮るるキリスト者の生活は、波瀾はらんと曲折の中にも希望より希望へと展開してゆく。主が我らの行く手に必ず開けたる門を置きたもうて、我らを迎えて下さるのである。「四方しほうより患難なやみを受くれども窮せず、かた尽くれども希望のぞみを失わざる」所以ゆえんのもの(後コリント四の八)、まさに主の道のひらきてまたひらきゆくがためである。

七 微温

ラオデキヤはヒラデルヒヤのさらに東南である。かくて七教会の地理的配列を鳥瞰ちょうかんするに、ペルガモを最 北にして西側スミルナ、エペソ、東側にテアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ、と云う雁行形である。ラオデキヤは同じく平野にあり、商業殷盛いんせい、市民はために富裕であった。毛織物を産出し、薬石も製せられた。この地に湧出ゆうしゅつする温泉は熱くもなく冷たくもなく、微温なまぬるくあった。外にはなやかなりし彼らは必然的に内に乏しくあった。しかるに彼ら自身は、信仰的に恵まれた者は外面的にも栄ゆとしていたのである。彼らが信仰的とするところは、「主よ、主よ」と唱える態のものであった。いわゆる信仰的なるものが彼らをふくらせていた。神の聖名みなみだりに用いられ、清きものと汚れたるものはけじめを失った。おそるべし、これ信仰の最大の敵である。「天は美を減ぜざらんため彼らをい、深き地獄は罪人らのこれによって誇ることなきよう」彼らを受けない。彼らはもちろん信仰に熱いのではなく冷ややかなのでもなく、微温なまぬるいのである。彼らを称して自分免許の信者と云いつべく、これ最もキリストの憎みたもうところ、神の子らしさの正反対である。されば主は曰いたもう、「我汝を我が口より吐きいださん」と。これによりてキリストのいかなる方にてますかを、我ら静かに知るべきである。しかも主は何よりも罪人を愛したもう!「すべてわが愛する者は、我これを戒め、これをらす」と。

エペソ教会の授かりし譴責けんせき「初めの愛」の一語をば七教会全体にわたって宣せられたる譴責けんせきと見たように、全七教会への約束はラオデキヤに贈られた約束のことばによって代表されると言うも誤りでなかろう。曰く、

よ、われ戸の外に立ちて叩く、
人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて
彼と共に食し、彼もまた我と共に食せん。
かちを得る者には我と共に我が座位くらいに坐することを許さん、
我のかちを得し時、わが父と共にその御座みくらに坐したるがごとし。(黙示録三の二〇、二一)

こまやかなるキリストの愛と大いなる約束の聖言みことば、ラオデキヤに対する主の聖憤としかしてこの深き愛の約束。ただひとり静かにみて、無限のあるものを感ずるのほかはない。

眼を転じて歴史をるに、宗教改革によって覚醒したるキリスト者等は幾何いくばくもなくしてその魂の純真を失い、儀文の信仰に堕し、さらにはあらぬこの世の智的権威に屈し、第十九世紀に入りてよりはいよいよ熟睡に落ちるのみであった。現代はまさに信仰覚醒の第二期に際会している。これからは大いなる門が東洋に開かれようとしているではないか。しかり、「開けば閉づる者なき」門はすでに開かれた。われら信仰より信仰へ、希望より希望へ、進むべきである。やがて満つる時が来る。ユダヤ人の立ち帰る秋がいつか来るに違いない。しかして心すべきラオデキヤ時代が最後に待つ。起こるべきことが起ころう、驚くべきことが来よう。キリストの再臨はある、最後の審判は来たらねばならぬ。その時、神の附与したもう「火にてりたるきん」、「白き衣」、「眼薬めぐすり」をつ者は幸いである。