第四講 創造主つくりぬしを讃う

第四章(十月六日)

藤井武

前二章における七教会への使信によって、我々はエクレシヤを中心とする精神史がいかなるものなるかを、原理の上からほぼ把握し得たことと思う。

黙示録は本章よりその預言の本題に入る。第二章第三章においては「今あること」が主題たるに対し、第四章からは「後に起こるべきこと」が論ぜられる。時限の現世より久遠の世界に移ろうとする。しかしこの久遠の世界にまた階段がある。しかして第四、第五の両章は来世展開の劇的場面の荘厳なる序幕である。ただしこの劇においては、すべてがリアルであり事実ファクトである。驚くべき幻であり、偉大なる預言である。キリスト自ら啓示したもうにあらで、何人かよくかくのごとき夢を見得ようぞ。

あらかじめこの預言を章別するならば、

来世問題
 第四章第五章 来世序曲
 第六章~第十一章 苦難の時代
 第十二章~第二十章三節 苦難の時代(別の着眼点より)
 第二十章四~一五節 千年時代(一種の準備時代)
 第二十一章~第二十二章五節 永遠の来世(新天新地の出現)
 第二十二章六節~終結 全篇のばつ

よ、天に開けたる門あり」、ヨハネこれよりいにしえの預言者にもまして驚くべき幻を見ようとする。天と云うはいかなる場所なるかを知らない。兎に角そは有形界を超越したある世界である。科学的判断も哲学的推理もこれを測ることが出来ない、ただ信仰をもって知るべき消息である。文字にこうすれば奇、抽象に偏すれば虚。我らはヨハネの伝えるところを終わりまで聖書常識をもって味解すべきである。原理と事実をこの象徴的文字の中に読むべきである。

ヨハネのこの幻影を見たるは決して偶然の致すところではない。おのずから法則のあること、旧約の預言者において然りしと一般である。彼らの幻影は決して世の空想家文人の描き出す仮想の類ではない。彼ら真の預言者、詩人は、何よりも先ず現実に直面して真面目に生きた人々である、経験を胡魔化さず、体現に真剣な努力をなした人々である。彼らは地上の痛ましさ、苦しさ、悩ましさをめた。彼らは真に生きんとして進退きわまった。かくて彼らは活路を「別の道」に開かなければ、動きがとれなくなったのである。旧約のヨブはその血涙の峡谷において何と呼ばわり、いかなるおとずれに接したか、その著しき霊的救済観念及び来世思想に我ら驚異しまた感謝しないではいられない。しかして今わが老使徒ヨハネはパトモスの孤島にひとり何をんとするのであるか、彼に啓示かりせば、そはいかばかりえがたき孤独寂寥せきりょうの生活であったであろうか。およそ生命の水源は森林にあり、市井の人はその流水を汲んで生きる。真理をつかむ人は苦難の中に死ぬ、そをわかたるる者らは彼を苦しめし者の後裔こうえいである。預言者的人物はすべてこのたぐいである。像に影の添うごとく、真理の花は必ずや荊棘の中に咲く。なやみの谷は光の天に近い、聖書的幻影の天文台は枕するところなき谷底にある。現世になお自己のるべきところをつものにこの逆理は意味をなさないであろう。現代キリスト者に来世希望の欠如せるは、現実に行きつまらざる何よりの証拠である。うべなるかな、黙示録のキリスト者一般に無用の長物視せらるるは!模糊もことして無きがごとき希望に事足る者は幸いである、暗澹あんたんとして往きなやむ現実に泣く者は不幸である。けれどもいずれがまことの光を見るか、いずれが本当に幸いであるか、黙示録は告げるところあらんとする。

ラッパのごとき天来の声が「ここに登れ、我この後おこるべき事を汝に示さん」と叫んだ。ヨハネは未見の世界に踏み入った。ヨハネがこれから伝えんとするところは、一度現世のいわゆる歴史なるもの終わりを告げ、しかして新天新地の来世来たらん時までの大いなる準備時代であって、前来世とでも云うべき世界である。驚くべき審判は雷鳴の相継いで轟くごとくにくだる。

ヨハネの登らしめられたるはどこかわからない。恐懼きょうくして見るにそこには御座みくらが備えられてある、それに坐したもう者のさまは神々しくして見るべくもない。神は一毫いちごう塵滓じんしもなき純一無雑の存在である、一点の汚濁も焼き尽くさねばやみたまわぬ方にます。かかる聖にしておごそかなる存在者の本体は端倪たんげいすべくもない。ただ碧玉<へきぎょく>のごとく赤瑪瑙めのうのごとき光輝あるのみ。碧玉へきぎょくはすなわち聖純の象徴ならんか、赤瑪瑙めのうは聖憤のそれにあらずして何と解しよう。御座みくらの周囲には緑玉のごとき虹があると云う、燦然さんぜんたる光耀に耐え兼ねる我らの弱き罪の眼を限りなく慰める美しき虹霓こうげいの光よ、これ十字架の愛を語るにあらずして何を示すか。畏るべき神はかくも深くしてこまやかなる愛と恩恵の方にます。「憐憫あわれみ真実まことともにあい義と平和と互いに接吻くちつけする」(詩篇八五の一〇)を思わしむるは神の衣の光彩である。畏るべく同時に親しむべき神、おののきをもって接吻くちつけすることが出来る神、この神の神らしさは碧玉へきぎょく、赤瑪瑙めのう、しかして虹にあらわれた。ヨハネはただかく観じかく表わすよりほかに知らなかったのである。これは事実の直観である、決していたずらなる幻想ではない。

また御座みくらのまわりに二十四人の長老が夫々それぞれその座位くらいに坐しているのは何であるか。キリストの救済にあずかりたるすべての人々すなわちエクレシヤの代表者である。彼らの象徴はそのまとう白衣にある。彼らと共に御座みくらの中央と御座みくらの周囲とに侍する四つの活物いきものは自然の代表である。眠らずして見、あるがままに働く大自然は日も夜も絶え間なく聖なる神を讃美する。エクレシヤこれに和して栄光を神に帰し聖名みなを讃え、二十四人の長老すなわちその冠冕かんむり御座みくらの前に投げ出す。揮然こんぜんたる大讃美である。かくのごとくすべて創造つくられたるものは創造主つくりぬしを讃美せんために存在する。この世界を見るに、害あるものよこしまなるものはいとわしいけれどもその不益不義がすべて我らに反対の作用をなし、我らを駆って神に近づかしめる。彼らの存在そのものは否むべくも、「すべてのこと働きて益となる」を我らに悟らしめる。すべては畢竟ひっきょうするに神への讃美のためにある。時到らば不義なるものは亡び失せるであろう、そは神の審判にある。

冠冕かんむりを投げ出す、いかにも乱暴なふるまいのごとくある。けれどもこれは己がつもの、その最たるものを、まず第一に神様にお返しする心である。砕けたる魂をもって讃美するほかに、神に対して人のとるべきいかなる態度があり得るだろうか。誰かこれはわがものと誇るべきただ一つをすらっていようか、すべて神の賜いしものではないか。もともと創造つくられたる者でないか、その存在はただあわれみの中にあるのでないか。怪しむべし、かくも自明的なる真理が、人の堕落よりこの方その心に帰り宿ることまれなるを。ことに現代人の心、これを去ること最も遠い。ねがわくは聖意みこころの天に成るごとく地にも成る日、ヨハネのしように理想の讃美が讃美の現実と成らんことを。