第五講 救済主すくいぬしを讃う

第五章(十月十三日)

藤井武

その後ヨハネは御座みくらに坐したもう者の右手に巻物あるを見た、それに同じく眼をそそぐ一人の御使いを見た。御使いの口は忽然こつぜんとして開いた。何と呼ばわったか、曰く

巻物を開きてその封印を解くに相応ふさわしき者はたれぞ。

言下に答える言は何処からもあがらなかった。天地曠々こうこうたりといえどもこれに応ずる一つの声もない。げきせきとして沈黙は続く、さながら宇宙を挙げて死せるがごとくに。神の右手なる七つ封印奇しき巻物には何が記されてあるのであろう。神の予定、摂理、経綸、万物の終局等の偉大なる文字ではなかろうか。これを開き得る者はこれを成し遂ぐるに相応ふさわしき者であらねばならぬ。そは罪人であるはずがない。さればこそ天上天下はたまた地下にも、これに応ずべきもの皆無であったのである。誠に、「義人なし一人だになし、善をなすものなし一人だになし」である。この厳粛なる幻影を眼のあたり見て哀哭あいこくに我も世もなかりしヨハネの心事、よそごとであろうか。天のこの幻はまた地のうつつであり、人類のこの苦しみはまた個人のわずらいである。誰か罪の認識のゆえに限りなき歎きと寂しみと絶望を新たに覚えないものがあろうか。罪にして処分を見ざる限り、贖罪のことまっとうせられざる限り、世は混沌に帰するのほかはない。天地に遍満する万象、神に帰するか混沌に帰するか、大いなる岐路きろである。この岐路きろに立ち現われて、神に帰するの道へ万物をきゆく者はいないか。けれどもつとに神が「人の悪の地に大いなるとその心の思念おもいのすべてはかる所のつねだ悪しきのみなるを見たも」うた通りである(創世六の五)。まことに罪にまさる深刻な問題がどこにあろうか。涙は涙である、罪は罪である、これをいかんともすることが出来ない。黒き姿は窈然ようぜんとして深く実在する。「ああ、われ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者はたれぞや!」

泣く者をなぐさむる声がある、聖霊によりて語る長老の一人である。曰く、

泣くな、よユダのやからの獅子、ダビデの萌蘖ひこばえ、すでにかちを得て巻物とその七つの封印を開きるなり。

ユダのやからの獅子(創世四九の九、一〇)とはすなわち能力ちからある者のいいであり、ダビデの萌蘖ひこばえ(イザヤ一一の一、一〇)とはすなわち柔和なる者を意味する。能力ちからありて柔和なる者、義にして愛なる者、戦士にして平和者、キリストはすでにかちを得て神の右にきてます。彼こそこの不可能を可能ならしめ得る唯一の方である。

長老のことばに力を得てこうべを挙げれば、御座みくらの前の様子は少しく変わっている。このたびヨハネは、「ほふられたるがごときこひつじの立てるを見た」。ほふられたる羔!しかも異様なるこのものは立っている!この幻影のくすしさよ!彼を讃美せんとて人類と天使と自然とは大唱和をうたう。人類の新しき歌に曰う「汝はほふられ、その血をもて云々」、天使の声に曰う「ほふられたまいし羔こそ云々」、万物の讃美に曰う「願わくは御座みくらに坐したもうものと羔とに云々」――羔である、十字架にたくせられたまいし聖子みこキリストである。贖い主イエスである、すべてのものは今やただこの救済主すくいぬしに対する感謝と希望にあふれ、讃美に全宇宙は輝きわたる。けれども立ちたる羔には無辜むこの血を流したるきずがある。讃美の調べはどことなく悲壮である。

讃歌と共に立ち昇る香は聖徒の祈祷である。何と意味深きおとずれではないか。真心もて祈られしことにしてどの一言がここに漏れていようか。救贖きゅうしょくまっとうせらるることによりすべての祈りは聴かれると云うのである。涙多き人生にとってこれは限りなき慰めと力である。かくれたる一日一日が祈りより祈りへの歩みたらざるを得ない人には、この聖句のごときは何の説明を加えるを要しよう。

天国の来臨に二つの意義がある、一つは神のはじめたまいし聖業みわざの成就であり、一つは救済の完成である。万物はここに創造主つくりぬしたる神にして救済主すくいぬしたる神に二様の讃美をなしたのである。すなわち前章における創造主つくりぬしたる神に対する讃美が荘厳なるものにして自然がその主体であったとするならば、本章における救済主すくいぬしたる神に向かっての讃美は悲壮なるものにして人類がその主体であると云わねばならぬ。