第六講 戦乱、闘争、飢饉、疫病

第六章一~八節(十月二十日)

藤井武

御座みくらに坐したもう者の右の手より万物革新の秘書を受けたもうたこひつじの君は、長老たちの平身拝伏する前にて、おごそかに七つの封印を逐次解きたもう。苦難は来たらんとし、審判は始まらんとする。

第一の封印が開かれた。四つの活物いきものの一つが雷霆いかづちのような声で「来たりたまえ」と叫ぶ。何故に活物いきものはかく呼ばわるか。彼らは自然の代表である、彼らは自然の呻吟しんぎん、被造物の改造を待つ切望祈願を代言して、かくは大声を爆発したのである。声に応えてか、現われでたる幻像は何。白馬の騎士の出陣である。これは何であろうか。引き続き第四封印の解かれし時現われでし青ざめたる馬に乗れるものを「死」と称しこれにしたがうものを「陰府よみ」と云うを見れば、第一乃至ないし第四封印の四騎士がすべて同類のものである以上、ここにいう白馬の騎士もまたある一つの抽象的原理の人格化、化身と見ねばなるまい。しからばこの弓を持ち冠冕かんむりを戴ける白馬の騎士はそも何を具象化せるものであろうか。「勝ちてまた勝たんとてでゆけり」とあるを見ればこれは勝利的なあるもの、世を風靡ふうびするところの大戦乱を、意味するのではあるまいか(戦乱を表わすに白馬をもってしたる例は、ヴアージルの「エーナイド」詩中の第三巻にある)。しかしこれには異論もある。ある人は第十九章十一節の「我また天の開けたるを見しに、よ白き馬あり、これに乗りたもう者は忠実またまことと称えられ、義をもてさばき、かつ戦いたもう」を引いて、この騎士をキリストと解する。しかし、他の三騎士と同種の表現をこれについても認むる以上、これをキリストと見るは不適当であろう。また多くの有力なる聖書学者はこれをもって「福音の勝利」を意味するものと解釈せんとする。しかしチャールスは黙示録が四福音書としばしば重大なる関係を有する事実に基づき、この場合にもまたマタイ伝二十四の六~八、マルコ伝十三の七、八、ルカ伝二十一の九~十一を参照して考うべきであると主張する。すなわちキリストが世の終わりについて預言したもうたところにして、戦乱が起きる、闘争がある、飢饉が来る、地震があり、迫害があり、疫癘えきれいがある。チャールスの言うごとく、共観福音書のこれらの箇処は黙示録の四騎士を解すべき鍵であろう。けだし黙示録は特にキリストの黙示であるがためである。

第二の封印が開かれる。唐紅からくれないの馬に乗れる騎士が現われる。誰か血なまぐさきものを連想しなかろうか。これにる者は、「地より平和を奪い取ることと人をして互いに殺さしむる事とを許されて」いると云う。キリストが「民は民に、国は国に逆らいてたん」との聖書の句を引用されて示されたのを考え合わせ、また遡ってイザヤ書十九章二節をたずねるに「われエジプト人をたけび勇ましめてエジプト人を攻めしめん、かくてかれら各自おのおのその兄弟をせめおのおのその隣をせめ、まちまちをせめ国は国を攻むべし」とあるがゆえに、この赤馬の騎士の象徴するところは実に平和を奪うところの社会的闘争、階級闘争であろう、前の白馬の騎士の意味するところが国際的大戦乱であるに対して。白馬の騎士を「いくさ」と名づくるならば、赤馬の騎士は「闘争あらそい」と呼ばれよう。かの世界大戦とその後の暗雲は何であるか、白馬赤馬両騎士の象徴、我らに暗示するところ浅くない。

第三の封印が解かれる。「来たれ」の声あれば、やがて煤煙の変化へんげのごとき黒馬の出現である。騎者は権衡はかりを手にしている。はなはだしき食糧欠乏を語るものでなくて何か、権衡はかりの類は物資豊かなるときは不要のはずであるから。今や「飢饉」到来して穀倉空しからんとする。これ干戈かんかわざわいにもまさるわざわいではないか。馬は血の気もなくすすけている、権衡はかりの目盛は細密である。自然はわざわいゆるうせられんためか嘆き求めて叫ぶ、「小麦五合(一コイニクス)は一デナリ、大麦一升五合(三コイニクス)は一デナリなり、油と葡萄酒とをそこなうな」と。一デナリとは、キリストの譬話たとえばなしによってわかるように、労働者一日の給料である。大麦を常食とするは非常の場合であらねばならぬ。一日働いて僅かにこれしきの食料を得るに過ぎざるは疑いもなく飢饉のきざしである、まさに世界的大飢饉である。しかしながら神はかかる時にも救いの道を備えたもう。窮乏の中にも油(オリーヴ)と葡萄酒とをのこしたもう。この二者の聖書における役目を考えるとき、この句のここにあるには深き一意義がある。詩篇第二十三を想起して、神の奇しき恩恵、思いなかばに過ぎるものあらざるか。

第四の封印が解かれる、第四の活物いきものが「来たれ」と叫ぶ。青ざめたる馬が駈ける、棲惨なる思いを抱かしめられる。まさに絶望の象徴である。乗る者は果たして不治の疫病である、「死」である。その従者は陰府よみである、悽愴せいそう陰惨なる行列である。

エゼキエル書に曰く「主エホバかく云いたもう、しからばわが四箇よつの厳しき罰すなわちつるぎと飢饉と悪しき獣と疫病をエルサレムにおくりて人とけものをそこより絶ちさらんとする時は如何いかにぞや」と。けれどもこれらはいまだ苦難の始めであって、キリストが「そのとき大いなる患難なやみあらん、世のはじめより今に至るまでかかる患難なやみはなく、また後にもなからん、その日もし少なくせられずば、一人だに救わるる者なからん、されど選民のためにその日少なくせらるべし」と預言し約束したまいしところの、後に来たるべき大いなるわざわいに比してはなお軽微であろう。

世界改造の第一段はかくのごとく受くべき苦難をもって始まる。人類の罪、天地万物の不調和、平和の喪失が、理窟りくつでなくして事実である以上、天刑もまた避くべからざる事実であらねばならぬ。天地の公道厳然として揺がず、神子の良心粛然としてこれをう。たとえ百万の偽善者は罪の黒きを見ず審判の白きを忘るとも、罪を自覚する人の子は自ら罪を告白し審判を預言するであろう。誰ありて何と言おうともこの聖感を如何いかにしよう。魂砕けては神を畏れ神を待ち望むのほかを知らない。神はこれを侮るべからず試むべからざること、日常の個人的経験社会的経験に明らかではないか。すでに審判の実証を日常に見て、なお世界的審判の到来を疑い得るものは疑うも可である。四騎士の妖魔は現世を縦横にせ廻る。何人も青馬の騎者の放つ毒矢を免れることは出来ない。しかし神を仰ぐ者は別の消息を知る、「憐憫あわれみ審判さばきにむかいて勝ち誇る」ことを(ヤコブ二の一三)。深き神の愛を知るものは審判を見て、いかに神が我々を試み我々を立ち帰らしめんとしたもうかを悟るであろう。雲翳うんえいは黒い、しかし雲表には太陽が輝いている。