第七講 犠牲、羔の怒り

第六章九節以下(十月二十七日)

藤井武

罪の酵素世に生じてより、戦乱、闘争、飢饉しかして疫病、地は審判に審判を積まんとする。帰結するところは塋穴えいけつである。かくのごとく四騎士をもって象徴されたる審判は現世的社会的のものであった。

第五の封印が解かれて見れば、今までとは異なり祭壇が据えられてある、その下に群れいるは無衣の霊魂の一団である。彼らは大声に呼ばわりて言う、

聖にしてまことなる主よ、何時いつまでさばかずして 地に住む者に我らの復讐をなしたまわぬか。(一〇節)

不義が世にはびこり暗黒は地を蔽う、義者の血はいたずらに流れ弱者の声は虚空に消える、これあるべきことであろうか。迫害はいつまでも絶えないのであろうか。犠牲の血のために復讐はないのであろうか。神は公正なる審判者にてはまさぬか。義者の血の復讐を願うは私憤ではない、神に生くる者の義憤である。そこに小我はない、大我がある。内なる我の義しき訴えである。義が立つか立たぬかの大問題である。神は義の復讐をなしたまわぬかと云うのである。天に成るごとく聖旨みむねの、地に成らぬこといつまでであるかと訴えまつるのである。聖言みことばの無みせられ、キリストの証しの踏みつけられることは、義者の憤激である。「預言者たちの殺され、遣わされたる人々の石にて撃たれ」しこと、義人アベルよりこの方幾何いくばくであろう、悲惨なるは世界の歴史である。

彼らの切実なる祈りは至聖所に達した、一人一人に応えて神は無縫の白衣を授けたもうた、神は彼等に対したとえ現実には絶望に見ゆるとも、

なおしばらく安んじて待つべし。

さとしたもうた。深き同情と愛である。「我すでに世に勝てり」とのたまいし聖子みこの、確信に満ちたる慰めの聖言みことばである。我らはこの聖言みことばを静かに味わうべきである。キリストの賜う平安、何者がこの平安を奪い得ようか。神の約束したもう希望、何人がこの光を消し得るか。誠に義者の血は聖前みまえに貴く、かれらの霊魂は暴虐しえたげ強暴あらびより贖われる(詩七二の一四)。義と公平をもって神はその苦しめる民のために裁きたもう。与えられし白衣はすなわち彼等の勝利のきざしである。「わが霊魂たましいよ、黙してただ神をまて、そはわが希望のぞみは神よりづ」。彼らのごとく殺害せられんとする同じしもべたる者と兄弟との数の満つる日まで彼らは待つであろう。迫害と待望。かくてこの審判は宗教的である。

第六の封印が解かれた。先ず大地震、引き続く天変地異。「日は荒き毛布けぬののごとく黒く、月は全面血のごとくなり、星は無果花いちじくの樹の大風に揺られて生後なりおくれの落つるごとく地におち、天は巻物をくごとく去りゆき、山と島とはことごとくその処を移されたり」と。壮絶凄絶なる宇宙的審判コスミカル・ジヤジメントである。

審判は社会的、宗教的、しかして宇宙的である。何者の憤怒であるか、かくも大いなる憤怒は。曰く「こひつじの怒り!」。語は至って奇異である、羔は言うまでもなく柔和なるものの代表であり、怒りは情意の嵐である。矛盾したる語にして「羔の怒り」と云うがごときは多くあるまい。けれども柔和なる者の隠忍いんにんは義のためついに爆発しなければならぬ。その時その勢いは、堤が決潰してとどろく洪水のごとく、何ものもこれに当たることが出来ない。イザヤ書第五十三章に預言されし柔和なる者が怒らねばならぬこの一事は、そもそも何を語るのか。この世界の奥には断じていい加減で済ますことの出来ない大いなる事実が存在する。人生の現実リアリティーにぶつかってウンともスンとも言えなくなった者はこの厳粛なる実在を見た。宇宙は十字架を要求する。キリストは羔になりたもうた。これがいい加減のことであろうか。芸術よ汝の道を歩め、道徳よ汝の行いを為せ、哲学よ汝の探求を続けよ、科学よ汝の創造を試みよ。けれども人はもう一度考えなおさねばならぬ、

「羔の怒り」!(HE ORGE TOU ARNIOU)

なる一語を。この一語の中にすべてがある。十字架のキリストはやがて審判のキリストとして現われたもう、二者を引き離して考えることは絶対に不可能である。

すべて空しき権勢、栄誉、財富を得て神を信ぜざりし者の数に入り、審判の日到りてヨハネが幻に見しごとく山といわとにむかい、「請う、我らの上にちて御座みくらに坐したもう者の御顔みかおより、羔の怒りより、我らを隠せ」との叫喚の声を発するか、それとも世にありて信仰の一途を歩みおおせ、審判の日来たりてなお主よ憐みたまえとよりすがるか、道はこの二者あるのみ。れかれか!