第十三講 巻物を食らう

第十章八節以下(二月十六日)

藤井武

大海と大地とに脚を架し右の手を大空にさしのべて偉大なる神の奥義成就の預言をなしたる強剛の天使は、その掌にひらきたる小さき巻物を持っている。先程「七つの雷霆いかづちの語りしことは封じて書き記すな」との禁令を発したる天の声が、此度はヨハネに「取れ」と命じた。彼は御使いのもとに往いてその小さきひらかれたる巻物を請うた。これは読まれるためのものであろうか。しかるに、意外なりしは天使のことばである。

これを取りて食らい尽くせ、さらば汝の腹苦くならん、
されどその口には蜜のごとく甘からん。(九節)

天来の声、意表にづることおよそかくのごとくである。ヨハネは巻物を食らわねばならぬ。それも生半可な食らい方では駄目である。食らい尽くさねば本当の味が解らない。それは生命いのちがけのことである。しかり、神の声はこれに応えるに生命がけをもってせられねばならぬ。神はしかく全霊をもってする信頼を要求したもう。「くわを手に執ってうしろかえりみるものは神の国に相応ふさわしくない」のである。わが思いわが望みを神にゆだねてしまう時、始めて神の与えたもうものの何であるか、神の示したもう道の何であるかを確知するであろう。「今日われに死のう、明朝は主の生命に甦るであろう。」

ヨハネは言わるるまま巻物を食らい尽した。いかにして巻物を食らうことが可能であろうか。ただ信である。信仰によってのみ食らうことが出来る。ヨハネは食らい尽くして見るに、それは本当に天使の言いしごとく口には蜜のごとく甘くあった。信による敢行、これ真理への道である。かくて真理のいかに甘きものなるかを味わいし者は、真理がどれほどそれ自体のゆえに慕われるべきものなるかを知る。彼は真理そのものの甘さに喜悦の原因と結果とを知って、その他に求むる心をたない。彼は真理に夜明け、真理に日暮れ、真理に眠り、真理に目醒むるを喜悦とする。哲人スピノザの生涯はその典型的のものであったと云えよう。彼こそは真理を歩み、真理を息づき、真理をった。

されども口にかくも甘き巻物は腹に苦かった。聖書は我らの前にひらかれたる巻物である、我らもまたこれを食らうにあらずんば血とも肉ともならない。聖書を食らうとは、言うまでもなく聖言みことばに従って歩くことである。本当に歩くか歩かないか、これが信仰の真偽のわかれ道である。歩くことは苦しむことである。天国に至る道には乗るべき車などは一つも待っていない。そこには躓きの石もあれば、からむ荊棘もある。往昔おうせき「幾何学者にあらずんばこの門に入るべからず」と記された哲人の学校があったように、「十字架を負うにあらずんばこの道をゆくべからず」と示した十字標を人は見るであろう。「われ汝のことばを得てこれを食らえり、汝のことばはわが心の喜び楽しみなり」と言ったエレミヤは、「何故にわが痛みはまず、わが傷は重くして癒えざるか」と叫びてこの道をあかしした。「読書に熱心になり視力を酷使したので、わたしは視覚の霊をはなはだしく弱め、すべての星が一種のかさに隈どられるように見えた」と告白するほど真理の探究に日も夜もなかりしダンテは「別の道」をひとり辿らねばならなかった。「年ごとに季節は帰れど、私には帰らない」と言ったミルトンの真理の証示と暗き旅路とを思わないか。スピノザにとっても、カントにおいても、真理は無二の伴侶であった、そのためにこの世的の満足はすべてこれを棄てたのである。パウロは云った、「われはキリストのためにただに彼を信ずることのみならず、また彼のために苦しむことをも賜りたり」(ピリピ一の二九)と。また「われ今汝らのために受くる苦難くるしみを喜び、またキリストの体なる教会のために我が身をもてキリストの患難なやみの欠けたるを補う」(コロサイ一の二四)と。腹に苦きものをたざるものは神の民ではない。真理の徒ではない。

くすしき巻物によって深き真理を啓示されしヨハネは、預言者としての第二期に入るべきを自覚した。彼はさらに大いなる預言の高所たかどに飛躍しなければならないことを予知した。時にある者の声ありて曰く、「なんじ再び多くの民・国・国語くにことば・王たちにつきて預言すべし」と。