第十四講 神はかりたもう

第十一章一~二節(二月二十三日)

藤井武

ここにヨハネの預言はその第二期に入る。何にりてかく判定するか。前章の終わりにおいて「汝再び預言すべし」と言いしある者の声が、この章の始めにおいてさらに宣するところの内容にる。ヨハネこのたびは、巻物とは打って変わりたる杖のごとき間竿けんざおを附与された。かくてその言うところの声を聴くに、「立ちて神の聖所と香壇とそこに拝する者どもとをはかれ云々」と。巻物の天使によってある深き体験と自覚とを得たる彼は、今や立ちて自らはかることをゆだねられたる使徒となった。今まではているものであったが、このたびは働くものとなった。従来の傍観者スペクテイターたる立場から役者アクターたる地位に移った。預言を書き記す者たりし彼はそれを行う者の一人となり、神の重大なる審判の聖業みわざに直接関与することとなったのである。

いにしえの預言者もまたそうであった。彼らはすべて神のことばを聴き神の幻を観たのみならず、またそれらの啓示に生きたる人々であった。彼等の生活そのもの、存在そのものが預言であった。真に哲学する人が哲人であるごとく、真に神のことばに生くる者が預言者である。アブラハム、モーセ、ホセヤ、エレミヤ、みなしかり。すべてキリストにけるものはキリストにける者のごとく在らねばならない、生きねばならない。薔薇ばらの香りがおのずから園に漂うごとく、キリスト者の存在はそれ自体何ものかこの世のものと異った香りを放っているべきはずである。

さてヨハネのはかるべく命ぜられたる対象は、神の聖所と香壇とそこに拝する者どもであった。神の宮と礼拝者のことであるから、エクレシヤ(召団)と解すべきであろう。その声は続けて「聖所の外の庭は差措さしおきてはかるな」と禁令を発している。ここにおいてか知る、エクレシヤとそれ以外のものとが判然と区別されていることを。かかる差別をなすは、神にもあるまじき偏見であろうか。否、事実はその正反対である。試みに聖書の第一頁をひらいてよめ、混沌たる無差別の地の上に神は「光とやみとを分ちたもうた」とあるではないか。また聖書の最後の章には何と言ってあるか、「不義をなす者はいよいよ不義をなし、不浄をなすものはいよいよ不浄をなし、義なる者はいよいよ義を行い、清きものはいよいよ清くすべし」。義と不義、浄と不浄の隔絶無縁の宣言である。誠に聖書は旧約の始めより新約の終わりに至るまで、執拗と思われ偏狭と難ぜらるるまでに差別をう。妥協は聖書の厭うところ、調和は聖書の勧めざるところである。生命いのちに至るの道は狭い。差別道を通るにあらざれば、永生の泉に達することは出来ない。差別のおごそかなる所以ゆえんを知るにあらざれば、福音は未だしと云わねばならない。キリスト者の道はついに現世の何処にも見当らない。この世に対するキリスト者の徹底的差別道は死の道である。これほどの根本的差別は、現世の事物のいかなる差違の間にも存しない。何となればキリスト者の道のこの世の道に対する差別は種類上の差であるのに、この世の道相互間の差別は畢竟ひっきょう程度の差を示しているにすぎないからである。崇高なる理想主義も要するに川の此岸しがんの道であって、彼岸ひがんの道との間には深淵の横たわれるを如何いかんせんである。キリスト者はダンテのごとく一度死の国へ降りて行かねばならない。「我は神に生きんために、律法おきてによりて律法おきてに死にたり。我キリストと共に十字架につけられたり。最早もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内にりて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるにりて生くるなり」、血の出るようなパウロの告白である。これのみがキリスト者道である。

さてヨハネのはからしめられたるエクレシヤが、いわゆる教会でないことは論をたない。真正のエクレシヤに属する人々の何人たるかは神の厳正なる審判の中にあることであって、何人もこれを知ることが出来ない、またゆるされない。何となれば人は人を審くことをゆるされないからである。神のなしたもう差別には、人の意外とするところ如何いかに多くあることであろう。神の審判は深くしてただしい。ただキリストに真に信頼し親しむ者は、神のエクレシヤのいかなるものなるかをほぼ知るにちかいであろう。

「不信者とくびきを同じうすな、釣り合わぬなり、義と不義と何の干与あずかりかあらん、光とやみと何の交際まじわりかあらん、キリストとベリアルと何の調和かあらん、信者と不信者と何の関係かかわりかあらん、神の宮と偶像と何の一致かあらん、我らはける神の宮なり、すなわち神の言いたまいしがごとし、曰く『われ彼らのうちに住み、また歩まん、我かれらの神となり、彼らわが民とならん』と」(後コリント六の一四~一六)。ヨハネの測らしめられたのは「神の宮」であった、神にける者らであった。何のためにであるか。それを所有し保存せんがためにである、審判さばかんため、亡ぼさんためではない。神は神にける者を知りたもうのである。「エホバは義しき者のみちを知りたもう、されど悪しき者のみちは亡びん」(詩一の六)、「彼は己に依り頼む者を善く知りたもう」(ナホム一の七)、「されど神の据えたまえる堅きもといは立てり、これにいんあり、記して曰う『主おのれの者を知りたもう』また『すべて主の名をとなえる者は不義を離るべし』と」(後テモテ二の一九)、等とあるがごとし。神がどれほど人を知りたもう方であるかは、詩篇百三十九篇にいみじくも記されてある。「神はかりたもう」、「神知りたもう」、「神たもう」である。これ、神に信頼するものにとり大いなる福音である。傾きもしよう、倒れもしよう、しかし神の聖手みては信ずる者の上にある。これによりて新しき力と新しきのぞみに立ち得るのである。

かくも差別を主張する聖書は、他面において無比の美事みごとなる統一を唱道する、万物帰一という偉大なる真理これである。パウロ獄中の記なるエペソ、ピリピ、コロサイの三書信等はその著しきものである。しからばこの差別主義と帰一主義とは聖書の自家撞着じかどうちゃくであるのか。決してしからず。差別と帰一、審判と救贖きゅうしょく、ここにキリスト教の奥義の深さがある。曰く「すなわち時満ちて経綸に従い、天に在るもの、地にあるものをことごとくキリストに在りて一つに帰せしめたもう、これ自ら定めたまいし所なり」(エペソ一の九、一〇)。