ここにヨハネの預言はその第二期に入る。何に拠りてかく判定するか。前章の終わりにおいて「汝再び預言すべし」と言いしある者の声が、この章の始めにおいてさらに宣するところの内容に依る。ヨハネこの度は、巻物とは打って変わりたる杖のごとき間竿を附与された。かくてその言うところの声を聴くに、「立ちて神の聖所と香壇とそこに拝する者どもとを度れ云々」と。巻物の天使によってある深き体験と自覚とを得たる彼は、今や立ちて自ら度ることをゆだねられたる使徒となった。今までは観ているものであったが、この度は働くものとなった。従来の傍観者たる立場から役者たる地位に移った。預言を書き記す者たりし彼はそれを行う者の一人となり、神の重大なる審判の聖業に直接関与することとなったのである。
古えの預言者もまたそうであった。彼らはすべて神の言を聴き神の幻を観たのみならず、またそれらの啓示に生きたる人々であった。彼等の生活そのもの、存在そのものが預言であった。真に哲学する人が哲人であるごとく、真に神の言に生くる者が預言者である。アブラハム、モーセ、ホセヤ、エレミヤ、みなしかり。すべてキリストに属けるものはキリストに属ける者のごとく在らねばならない、生きねばならない。薔薇の香りがおのずから園に漂うごとく、キリスト者の存在はそれ自体何ものかこの世のものと異った香りを放っているべきはずである。
さてヨハネの度るべく命ぜられたる対象は、神の聖所と香壇とそこに拝する者どもであった。神の宮と礼拝者のことであるから、エクレシヤ(召団)と解すべきであろう。その声は続けて「聖所の外の庭は差措きて度るな」と禁令を発している。ここにおいてか知る、エクレシヤとそれ以外のものとが判然と区別されていることを。かかる差別をなすは、神にもあるまじき偏見であろうか。否、事実はその正反対である。試みに聖書の第一頁を展いてよめ、混沌たる無差別の地の上に神は「光と暗とを分ちたもうた」とあるではないか。また聖書の最後の章には何と言ってあるか、「不義をなす者はいよいよ不義をなし、不浄をなすものはいよいよ不浄をなし、義なる者はいよいよ義を行い、清きものはいよいよ清くすべし」。義と不義、浄と不浄の隔絶無縁の宣言である。誠に聖書は旧約の始めより新約の終わりに至るまで、執拗と思われ偏狭と難ぜらるるまでに差別を道う。妥協は聖書の厭うところ、調和は聖書の勧めざるところである。生命に至るの道は狭い。差別道を通るにあらざれば、永生の泉に達することは出来ない。差別の厳なる所以を知るにあらざれば、福音は未だしと云わねばならない。キリスト者の道は竟に現世の何処にも見当らない。この世に対するキリスト者の徹底的差別道は死の道である。これほどの根本的差別は、現世の事物のいかなる差違の間にも存しない。何となればキリスト者の道のこの世の道に対する差別は種類上の差であるのに、この世の道相互間の差別は畢竟程度の差を示しているにすぎないからである。崇高なる理想主義も要するに川の此岸の道であって、彼岸の道との間には深淵の横たわれるを如何せんである。キリスト者はダンテのごとく一度死の国へ降りて行かねばならない。「我は神に生きんために、律法によりて律法に死にたり。我キリストと共に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるに由りて生くるなり」、血の出るようなパウロの告白である。これのみがキリスト者道である。
さてヨハネの度らしめられたるエクレシヤが、いわゆる教会でないことは論を俟たない。真正のエクレシヤに属する人々の何人たるかは神の厳正なる審判の中にあることであって、何人もこれを知ることが出来ない、またゆるされない。何となれば人は人を審くことをゆるされないからである。神のなしたもう差別には、人の意外とするところ如何に多くあることであろう。神の審判は深くして義しい。ただキリストに真に信頼し親しむ者は、神のエクレシヤのいかなるものなるかをほぼ知るにちかいであろう。
「不信者と軛を同じうすな、釣り合わぬなり、義と不義と何の干与かあらん、光と暗と何の交際かあらん、キリストとベリアルと何の調和かあらん、信者と不信者と何の関係かあらん、神の宮と偶像と何の一致かあらん、我らは活ける神の宮なり、すなわち神の言いたまいしがごとし、曰く『われ彼らの中に住み、また歩まん、我かれらの神となり、彼らわが民とならん』と」(後コリント六の一四~一六)。ヨハネの測らしめられたのは「神の宮」であった、神に属ける者らであった。何のためにであるか。それを所有し保存せんがためにである、審判かんため、亡ぼさんためではない。神は神に属ける者を知りたもうのである。「エホバは義しき者の途を知りたもう、されど悪しき者の途は亡びん」(詩一の六)、「彼は己に依り頼む者を善く知りたもう」(ナホム一の七)、「されど神の据えたまえる堅き基は立てり、これに印あり、記して曰う『主おのれの者を知りたもう』また『すべて主の名を称える者は不義を離るべし』と」(後テモテ二の一九)、等とあるがごとし。神がどれほど人を知りたもう方であるかは、詩篇百三十九篇にいみじくも記されてある。「神はかりたもう」、「神知りたもう」、「神観たもう」である。これ、神に信頼するものにとり大いなる福音である。傾きもしよう、倒れもしよう、しかし神の聖手は信ずる者の上にある。これによりて新しき力と新しきのぞみに立ち得るのである。
かくも差別を主張する聖書は、他面において無比の美事なる統一を唱道する、万物帰一という偉大なる真理これである。パウロ獄中の記なるエペソ、ピリピ、コロサイの三書信等はその著しきものである。しからばこの差別主義と帰一主義とは聖書の自家撞着であるのか。決してしからず。差別と帰一、審判と救贖、ここにキリスト教の奥義の深さがある。曰く「すなわち時満ちて経綸に従い、天に在るもの、地にあるものをことごとくキリストに在りて一つに帰せしめたもう、これ自ら定めたまいし所なり」(エペソ一の九、一〇)。