第十七講 サタンの実在

第十二章(三月十六日)

藤井武

本章より第二十章三節までは黙示録の下巻と見てい。第六章より第十一章に至る苦難時代について、ここにヨハネは別の幻影によってさらに啓示を受けるのである。

老使徒は天に大いなるしるしを見た。それは一人の婦人であった。もちろん現実の婦人ではない。この象徴の中にいかなる原理が読まるべきであるか。我々は産みの苦痛と悩みとのために叫んでいる女性において、人生そのもの歴史そのものの動きを見る。人生にも歴史にも発展の段階がある。産まんとする苦しみは理想より理想へ進展せんとする努力である。この婦人の苦しみは栄光を約束せられたる人類の苦しみである、そのなやみは完全なるものへの努力である。苦しみと悩みにて叫ぶその声に、人間のやむにやまれぬ要求を聞く。完全なる子を産まんとの要求である。自らが完全なる子とならんことである、「神の子たちの光栄の自由に入る望み」である、「聖霊の初めの実をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんことすなわちおのが体の贖われんことを待つ」のである(ロマ八の二三)、しかるにこの産みの苦しみを嘲りこの望みを砕かんとするものが在る。大いなる赤き竜これである。彼はその尾を振って天の星の三分の一をきこれを地に落した。

サタンと称せらるるこの赤く黒きものが果たして実在するか。今もなお空中に権をり不従順の子らのうちはたらくこの霊のつかさ(エペソ二の二)が果たしているか。めぐりて呑むべきものをうかがう悪魔(前ペテロ五の八)が果たして住んでいるか。近代人のほとんど全部がかかるものの実在を否定する、マルクス主義者特にしかりである。けれども我らにおいては、「子を産まんとする女の前に立ち、産むを待ちてその子を食らい尽くさんと構え」ている恐ろしき実在がある。かくのごときものが、我らの人生において歴史において、内的に外的にいざなおびやかしうかがい狙っている。良心が本当に目ざめ、罪とはどんなものかを知りし者は、何ものか背後に働く力ある黒き実在を認識せざるを得ない。魂が真面目にこれと戦い始めたる者は、一度は苦しみと悩みのどん底に陥らねばならない。パンの問題のごときは魂を苦しめる問題ではないのである。根幹の朽ちたるを顧みずして、いたずらに枝葉を生かさんと焦慮しょうりょする近代人の愚かさよ。神との関係正しからず、魂の問題の解決をよそにして、何の朽つべき腹の問題ぞ。たとえ腹は満たさるるともそは塵溜ちりだめのみ。イエスは荒野にて何ものと戦いたもうたのであるか。彼の勝利は何を意味したのであるか。「すべての試煉を通してまったく果たされし一人の人のかたき従順」(ミルトン)によりて、曠野にエデンを見るに至りし恩恵を人は知らないのであるか。

パウロもアウガスチンもルーテルも、ただこの黒き実在サタンと戦ったのである、そして主のみもとにするほかに、この者に勝つべきすべの一つだになきを知ったのである。ただ信仰である。ただ恩恵である。ただ十字架である。聖霊の祈りが我らのための盾となり矛となる。我らは信仰により天よりの力を与えられ、打ち勝ち難きサタンにすら打ち勝つ。世に勝つは、「彼もし我を殺すとも我は彼によりすがる」(ヨブ)との信あるのみ。力も勝利も栄光もキリストに在り、キリストのものである。小さき己れの力や智慧をかなぐり棄てるものが、「サタンよしりぞけ!」と云い得るのである。

さてヨハネの見た幻において「子」とはキリストの血に贖われたる社団、エクレシヤと解してかろう、しかして「御座みくらもとに挙げられたり」(五節)と云う言葉が復活を意味するとせば、第十節より第十二節に至る天の大合唱は疑いもなく彼ら復活のエクレシヤの讃美の声である。

「われらの神の救いと能力ちからと国と神のキリストの権威とは、今すでに来たれり。
我らの兄弟を訴え夜昼われらの神の前に訴える者、落されたり。
しかして兄弟たちは羔の血と己があかしことばとによりて勝ち、
死に至るまで己が生命いのちを惜しまざりき。
このゆえに天および天に住める者よ、喜べ。
地と海とは禍害わざわいなるかな、悪魔おのが時の暫時しばしなるを知り、
大いなる憤りを懐きて汝らのもとにくだりたればなり。」

サタンを撃退してのち天は平和である、しかしながら戦いは地にいまだ終らない。サタンは女を怒りてそのすえの残れるもの、イエスのあかしてる者に戦闘を挑まんとて立っている。地には悪の霊が君臨して終わりの日にまでおよぶ。ただ羔の血がこれと戦うべき唯一の武器である。昔ゲルマンの勇士ジークフリードは大蛇の血に浴してその身を鋼鉄のごとくつよくなしたと伝説に言う、しかし羔の血の力は罪人を義人となし滅ぶべき者をとこしえに生かすのである。