第十八講 獣

第十三章(三月二十三日)

藤井武

ヨハネはさらに一つの異象を見た。海からづるは魚かと思えばしからずして獣である。あるべきものでずしてあらぬものが現われる。これすでにこの幻の不祥ふしょうなる所以ゆえんである。形態はかのダニエルの見し四獣のごとくに異様である。しかして特に一つの目をくものがある、頭の上の黒き文字である。判読すればこれ神を冒涜するの名である。獣の王なる竜はこのものに己が猛き能力ちからと傲れる座位くらいと大いなる王しゃくとを附与したのである。力ある地の覇者はしゃたること、ダニエルの見し四つの巨獣が四王を象徴したると同様である。一度は危うしと見えたるその生命いのちが回復したるため、全地の者はその能力ちからに驚異してこれに帰服した、しかしてかくも著しき己が権威を獣に与えし竜をば拝し、かつその獣をも拝して呼ばわる、

「誰かこの獣に等しき者あらん、誰かこれと戦うことを得ん。」(四節)

愚!偶像崇拝もはなはだしい。この獣をもって象徴せらるるは何者であろうか。パウロがすでに言っている、「兄弟よ、主の日すでに来たれりとて容易たやすく心を動かし、かつ驚かざらんことを。がいかにすとも、それに欺かるな。その日の前に背教の事あり、不法の人、すなわち滅亡ほろびの子あらわれざるを得ず、彼はすべて神ととなうる者、および人の拝む者に逆らい、これらよりも己を高くし、遂に神の聖所に座し己を神として見するものなり」と(後テサロニケ二の二~四)。神をみして己を神のごとくする者。見栄みばえある、この世の智と権に豊かなる、末世の寵児ちょうじ。彼はかの二人の証人しょうにんが荒布をて預言すると等しき期間地に君臨して時めき、聖徒を蹂躙する。およそ悪しきもの醜きものにしてこの者の属性たらざるはない。衆愚これを拝して神をけがし、獣のやから蠢々しゅんしゅんとして地にうごめき満つるであろう。近代に生をくる我ら、何ものかこれに類似したる消息を感ずるではないか。わざわいなるかな!不法の人々虚栄の子らは何を求めて動くのか。崇高なるものを求むる魂は青年を去り、純潔なるものを慕う心は処女おとめを離れた。

神とサタン、キリストと獣、比較対照にもならぬことながら、何と著しき黒白の差であろう。ヨハネ自身のことばに照らせば、この獣は非キリストと名づけられよう。キリストに似て非なるものは、ヨハネのいわゆる末の時においてのみならず、今も昔も絶ゆることがない。「偽り者は誰なるか、イエスのキリストなるを否む者にあらずや、御父と御子とを否む者は非キリストなり」(ヨハネ一書二の二二、二三)。キリストに対してしかりを云うや否を云うやは、真理を愛するか否かによって定まる。真理思慕は純粋であらねばならぬ、功利的観念が撤去されているのでなければならぬ。キリスト者の信仰と云うはすなわちキリストに対する純一無条件なる信頼である。「エホバ与えエホバ取りたもう、エホバのみ名はむべきかな」と云うヨブの心である。真理そのものに対する無打算の愛である。真理の前には一切を塵芥ちりあくたのごとく思うスピノザの魂である。パウロは真理を愛せざる者について言った「彼らは真理まことを愛する愛を受けずして救わるることをせざるなり、このゆえに神は彼らが虚偽いつわりを信ぜんためにまどいをそのうちに働かせたもう。これ真理まことを信ぜず不義を喜ぶ者のみなさばかれんためなり」(後テサロニケ二の一〇~一二)。

このゆえに人類は二種にわかたれる。キリストを拝する者か、獣を拝する者か。「すべて地に住む者にてその名をほふられたまいしこひつじ生命いのちの書に世のはじめより記されざる者は」、獣を拝するであろう。彼らは「獣の名あるいはその名の数字六百六十六」の徽章しるしあるものとなる。「わざわいなるかな、かれらは悪をよびて善とし、善をよびて悪とし、やみをもて光とし、光をもてやみとし、苦きをもて甘しとし、甘きをもて苦しとする者」である(イザヤ五の二〇)。善悪、光暗、甘苦の認識、すべて光の子と世の子とは正反対に立つ。かくてキリスト者か拝獣者か、栄光の民となるか滅亡のやからに加わるか、いずれかである。まことに人生は真剣である、人生は厳粛である。