第十九講 シオン山上のこひつじとその群れ

第十四章一~五節(四月十三日)

藤井武

われ見しに、よ羔は立ちたもう、シオンの山に。

輝かしきこの一句とこれに導かるるところの数節はかの旧約の詩中の詩、「エホバはわが牧者なり」をもって始まる一篇を想起せしめる。もし新約より詩を選べと云う人あらば、この一連をその一つとして指摘するに躊躇しないであろう。

天上におけるキリスト者とその生活の基調がこの一段に歌われている。現実が詩であり、詩が現実であるところに人生の極致がある。およそ真理は純粋の姿において詩的ならざるを得ない。詩は説明をもって解さるべきではない、詩は直観をもって読まるべきである。「キリスト者は詩を生活するものである」と云ったドイツの若き天才詩人のことばを正しく解するならば、キリスト者は詩の国の人であり、詩を読み得る者である。信頼の一途に生きんとするその生き方は散文的たり得ない。打算をゆるさざる歩み方は直進的また飛躍的である、詩的である。

シオンの山に立つ羔とその群れのこの天的光景を散文的に註釈するとき、原意のかおりは失せるであろう。しかし試みに今これを七項に分ちて、順次に味わうこととする。

一、われ見しに、よ羔は立ちたもう、シオンの山に。

羔の一語すでに象徴である。意味と存在のかくも融合したる語のいみじき味は、ただ直観的に把握されねばならない。この一句は全体をべ、集約している。羔の死の何であるかを知り、その愛の力を知るは、神を仰ぐ者の義務であり感謝である。羔ありて始めてすべての問題と矛盾とはその解決を見る。羔!何とくすしき一語であろう。柔和なるものの姿に犠牲あり、つみなき者の死に贖罪の力あり、贖罪の力ありし者に復活の生命いのちがあった。しかして見よ、今や羔はシオンの山に立ちたもう。愛の勝利である。勝利の実現である。「われわが王をわが潔きシオンの山に立てたり」(詩二の六)との聖言みことばの完全なる実現である。羔の勝利はすなわち信ずる者の勝利である。されば来世において信者は完全なる勝利の生活にあるのである。一句万誦して、生涯の力たるべく、望みたるべくあろう。

二、彼と共に十四万四千の人ありて
 彼の名とその父の名彼らの額に記しあり。

彼の勝利にあづかれる人々がその御許みもとに侍している、彼らの額には羔の名及びその父なる神の名が記されてある。彼らにとって聖名みなほど貴きものはない。聖名みなは彼らが父と聖子みこものなる永遠のしるしである。彼らの存在の意義はただこの聖名みなにおいてあり、聖名みなの栄光が彼らの関心事である。「汝の聖名みなのゆえに憶えたまえ」とは彼らの祈りであるごとく、彼らの生活は聖名みなのゆえにあり、聖名みなを離れてはない。神を信頼しまつりて変わりなき世界は、このシオンの山にある。

三、われ天よりの声を聞けり、
多くの水の音のごとく、大いなる雷霆いかづちの声のごとし。
わが聞きしこの声は弾奏者ことひきの立琴をのごとし。
彼ら新しき歌を歌うなり、
御座みくらの前及び四つの活物いきものと長老等との前にて。
この歌を学び得るもの絶えてなかりき、
地より贖われたる十四万四千のほかに。

やがて聞こえ来たる声がある。天にどよめくその声は鼕鼕とうとうとうつ波浪の叫びか、囂々ごうごうと轟く雷霆いかづちの轟きか、そうそうと鳴る琴瑟きんしつの調べか。あらず、これは新しき歌の大合唱であった。この歌は地より贖われたる彼らのみの学び得るところである。けれどもうたを歌うことが彼らの能事のうじたるのではない。天国の生活が音をもってあらわさるるとき、この大合唱となるのである。これもまた祝福されたる生活の一つのあらわれたるに過ぎない。この大調和の中には一つの音として虚なるものはない。天国の生活においてはいかなる小さき一つの業も、主のみ前に讃美の一ふしをなしているのである。

四、彼らは女に汚されぬ者にして、きよき者なり。

人生の矛盾は純真なる男性と女性との心を苦しめる。罪のため死すべき肉体に閉じこめられている魂の傷と悩みは深い。「ああわれなやめる人なるかな、この死のからだよりわれを救わんものは誰ぞや」である。けれどもここでは、アウガスチンの涙の嘆きも、キルケゴールの悲哀の痛みも、春さきの氷と解け、秋空の雲と消え、自由は流るる水のごとく、純潔はみわたる空のごとくあるのである。「さいわいなり、心の清き者、その人は神を見ん」と、主イエスはいいたもうた。

五、彼らは羔に従う、いづこにまれ彼の往きたもう処に。

エホバはわが牧者なりとは旧約のことばであった。羔はわが導者なりとは新約のことばである。こころは唯一つ、信頼また信頼の生活である。いづこに往きたもうとも輝かしき心からのアーメンをもてしたがうその順従よ。ここは絶対服従の国、信頼のゆえに限りなき自由の国、これこそクリスチャンライフの基調である。かく生くることは現世においては十字架である、来世においては栄光そのものである。

六、彼らは人のうちより贖われて、
神と羔とのために初穂となれり。

彼らの贖われたのはもとより彼らの功績によったのではない、神のあわれみによったのである。それゆえに彼らの特権も幸福も断じて私的のものではない。神と羔とのためにのみ存在の意味を有するものである、まじりなき神への初穂である、供物である。贖われし限りなきよろこびをそのまま初穂と捧げまつりし心の美しさよ。人の栄光これにすぐるなく、神のよろこびこれより大なるはなかろう。

七、その口に虚偽いつわり絶えてなく、
彼らはきずなき者なり。
シオン山上の羔とその群れ

口に虚偽いつわりなく行いに虚色なき者、真実なるは彼らである。人たるの不完全はあらばあれ、彼らには何とも言えないまことがある。虚栄虚偽限りなきこの世においては、彼らの存在は暁天ぎょうてんの星よりもなお稀であったろう。「エホバよ汝の帷帳あげばりのうちに宿らん者はたれぞ、汝の聖き山に住まわん者はたれぞ、なおく歩み義を行いその心に真実まことをいう者ぞその人なる」(詩一五の一、二)。

第七章の白衣の大召団と第十章のシオンの山のきよき民とをうたえる文字をよみて心潤わざる者あらば、その友たるを私は辞する。