第二十二講 ハルマゲドンの戦い

第十六章(五月四日)

藤井武

最後の七つの苦難を持てる七人の御使いは活ける神の憤りの満ちた七つの金の鉢を与えられて、大命の降下を今やおそしと待ち構えている。見あぐれば聖所は神の栄光と稜威みいつのため雲烟うんえんに包まれて壮烈である。七つの苦難の終わりを告ぐるまで、聖所は聖にして厳かなる審判のゆえに何ものの踏み入るをもゆるされない。

ヨハネ見まもりてあるに、やがて一つの声が聖所の方より鳴り響いた、曰く

「往きて神の憤りの鉢を地の上に傾けよ。」

七人の御使いは言下に出動した。

神の憤りの大来襲である、さきには七つのラッパにつれて、ここには七つの鉢によりて。何故にかくも執拗と思わるるまで、ヨハネは審判のことに筆を染めねばならなかったか。人類の罪は深く、最後の審判は重い。堅くして抜くべからざるは神の義である。ヨハネは審判に次ぐに審判の幻影をもってせられて、このことを見極めねばならなかったのである。ダンテの言えるごとく、神の審判に憐憫を覚ゆるは不虔の極みである。かくてヨハネは忠実に神の怒りを伝えねばならなかった。

四つの鉢が順次、地に、海に、河と水の源に、しかして太陽の上に、傾けられた。先ず自然が撃たれたのである、あたかも七つのラッパの初めの四つにれて自然がそこなわれたように。撃たれし自然は獣のやからなる悪しき人らを、腫物や流血や苦熱もてなやめる。かく万象ばんしょうはそのかしらたる人の罪のゆえに飽くなきの刑罰をこうむり、滅亡ほろびの子らはこれがため自ら傷つくにも拘わらず、彼らはなおも神の聖名みなを冒涜し、悔い改めを永遠に遷延せんえんせんとする。万物はそのゆえに嘆きつづけいたみつづけねばならない。かくて天地は過ぎゆき過ぎ去る。ただキリストの贖罪の完成のみが新しきことを成し遂げたもうであろう。

審判なくして輝かしき後のことは望まれない。滅亡ほろびの子はどん底まで墜ちねばならない。神の義は永遠に立たねばならない。万物を滅亡に帰せしめんことが神の聖旨みむねたるべくば、神はこれをなしたもうであろう。しかし神はキリストの十字架において無限の愛を現わしたもうた。神は審判の最大なるもの、刑罰の最極なるものを、十字架においてなしたもうた。神自らこれを負いたもうたのである。かかる神の審判を見てなお神に帰らざる者は、誠にわざわいわざわいなるかな。

いかなる小善といえども神の祝福にあずからざるはない。けれどもまた、いかなる小悪といえどもこれが適当なる処分を受けぬことはないのである。目に見えず心にうつることなくとも、神の審判はその時期と処分とにおいてあやまることは絶対にない。それゆえにキリスト者は心砕かれて言うべきである、「しかり、主なる神よ、汝の審判さばきまことなるかな、義なるかな」と。

第五の御使いがその鉢を獣の座位くらいの上に傾けたとき、獣の国悪の幕屋は暗黒に閉ざされ、サタンの子らは己れの舌をかむの狂態を呈し、病苦のゆえに神を呪い、いよいよ背神の気勢をあげて地獄の鬼と化するのみである。ダンテの地獄もこれには及ばない。

第六の御使いがその鉢をメソポタミヤの大河ユーフラテスの上に傾けると、神の怒りの熱気のためかさしもの大江も倏忽しゅっこつにして涸渇してしまった。東方より来たるサタン軍にしばみちを備えんがためである。ヨハネはまたサタンと偽キリストと偽預言者の口々より、かわずのごとき無様ぶざまなる三つの穢れし霊ので来たるを見た。疑いもなくしるしを行う悪鬼の霊である、サタンの魔使である、「しるしを請い智慧を求むる」悪の猛者もさを全世界から召集せんためのサタンの軍使である。三つの悪霊は雲霞うんかとみまがう悪魔の大軍をハルマゲドン、その名を解けばメギドーの山に集めた。昔バラクがカナン人を撃ち、ギデオンがミデアン人を破りし古戦場である(士師四~六章)。妖雲全地東方に現われ、怪鳥の爆音その中に轟き、暗澹あんたんたる旗幟きし幾万旒いくばんりゅう、鼓奏と鯨波げいは剣戟けんげきと砲車、凄まじき騒音全地を震駭しんがいせしめ天をも呑まんばかりである。

見よ!一方これを迎え撃つべく、すでに天軍は光輝ひかりして驀進ばくしんして来た。雷霆らいてい轟々雷光閃々たる中に真夏の白雲と見まがう天軍、真紅の衣白銀の馬の総大将を真先きに!口には勝利の歌、手には両刃もろはつるぎ。彼らの武器は単純の極みである。何ぞ、光これである。魔軍はこれに打たれて眩暈めまいし、算を乱して倒れ、両刃もろはつるぎとどめを刺されて、全滅に帰するであろう。ああサタン軍のうち一人のアブヂエルは残っていないか、サタン軍よ、「汝を滅ぼし得るは誰と知る時汝を創造つくりしは誰と歎きつつ知」らば幸いであろう(ミルトン『楽園喪失』第五篇参照)。かつて天上にありしと云うミカエル、サタン両軍の大激戦も、世の終末のハルマゲドンの戦いの目醒ましさには及ぶまい。

ハルマゲドンの戦いは世の終末に限らない。霊的にまた外的に、この戦いは常に我々個人にとりまた社会の中にある。悪は戦いを挑む。神は義をしてこれと戦わしめたもう。かつてヨブはこの戦いを戦い、悪戦苦闘、遂に見事サタンを撃退した。今の世に見るならば、マルクス主義は獣の口よりでし穢れし霊の一つである、偽キリストの先ぶれである、見よいかに多くの同志を全世界から呼び集めたかを。敵はさらに近くにもある、キリスト教の中にある。現代のキリスト教はまさに偽預言者の口よりでしかわずの類いではないか。キリスト抜き、十字架なしのキリスト教、現世的キリスト教とでも云うべきか。かかるキリスト教は享楽主義の姉妹たるのみ。しかもこんな奇怪なものが跳梁してもあやしむ者すらまれなのである。悪霊の跋扈ばっこもまたはなはだしいと言わねばならない。要するに、マルキシズムとモダーニズムは現代のわざわいなる同盟軍である。彼らは神の敵たるにおいて一つである。

主イエスは千九百余年前この大同盟軍の代表者をば単身荒野にて撃破したもうた。誠に「主我らの味方ならば誰か我らに敵せんや」(ロマ八の三一)、「主は強ければおそれはあらじ」(讃美歌)である。我ら生くるの意義はまさにこの戦いにある。今直ちに神軍に参じてこの戦いを戦うにある。老若男女何人にまれ、この戦いには非戦闘員は一人もあるなし。各人その部署につき、持場を持し、全力を挙げて、この尊き戦いを戦い、戦いてたおるべきである。このために生命いのちを惜しむものは、よろしくサタン軍に左袒さたんすべきである。「人もし我に従い来たらんと思わば、己を棄て、己が十字架を負いて我に従え。己が生命いのちを救わんと思う者は、これを失い、我がためまた福音のために己が生命いのちを失う者は、これを救わん」(マルコ八の三四、三五)。

最後の鉢が空中に傾けられたとき、聖所より大いなる声が呼ばわった、

「事すでに成れり」。(一七節)

重き一言である。審判成就の宣告である。地はいまだかつてなかりしほどに震い動き、山も見失うに至った。電光いなずま雷霆いかづち、降雹、空もまた怒るがごとくである。かくわざわいは地にくだるに、悪しき者らはなおも神をけがすのである。滅亡来たらずしてあり得ようか。