第二十三講 大淫婦の審判

第十七章(五月十一日)

藤井武

さきにヨハネは十角七頭の怪獣が海から上るのを見たが、このたびは一人の女のその獣に乗れるを見る。獣は涜神の名に覆われて緋色をなしている。女は紫緋しひの衣をまとい、金、宝石、真珠などにてこれを飾り、手にはあらゆる悪と淫行の汚穢けがれとにて満ちた黄金の酒杯さかづきを持っている。その額には相応ふさわしくも「奥義、大いなるバビロン、地の淫婦らと憎むべき者との母」とあり、その毒々しき眼はすでに血に酩酊している。その乗れる獣は淫乱の古巣バビロンの傍ユーフラテ河の水の上に浮かんでいる。誠に妖艶奇異なる幻である。

この淫婦は何か、唯物主義、現世主義の象徴的化身である。獣とは何か、現世的権力繁栄の象徴である。獣に乗れることは現世的の力との妥協を示すものであろう。諸々の国民は滔々とうとうとしてこの類である。エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、しかしてローマ、いずれも皆しかり。その帰するところは審判と滅亡とである。かれらの故郷は暗黒なる底なき穴である。現代の妖婦たるアメリカニズムとマルキシズムとの奇怪なる姿を拝して滅びゆく人々の波もまた、この穴の呑むところとならんのみ。現世にては彼らに外的の勝利がゆるされているが、真正の勝利はこひつじに従う者に内在している。それはやがて来たるべき大いなる日に本来の光を放つのである。羔と共に戦う召されたるもの、選ばれたるもの、忠実なる者は少ない、しかし彼らのゆえに地はなお保つのである。

剣は剣によりて亡びねばならぬ、そのごとく獣は淫婦を憎みこれを滅ぼす時が来る。女すなわち「地の王たちをつかさどる大いなる都」は、その自ら妥協せし現世的の力によってかえって滅尽めつじんする。「なんじの見し十の角と獣とは、かの淫婦を憎みこれをして荒涼あれすさばしめ、裸ならしめ、かつその肉を食らい、火をもてこれを焼き尽くさん」(一六節)、烈しき文字である。しかし神を離れてこの世に淫したるものの末路はかくのごとくである。国をゆだねられたる獣もまた、その権はしばしでありその往くところは滅亡の国である。エホバはべ治めたもう。かくして富も力も、およそ空なるものは空に帰するよりほかないのである。

我々は常にこの女を見、この獣に出遭っている。これと妥協するならばこの世の成功と栄誉が得られもしよう。人の心をむしばめる虚栄は水の低きにつくごとくこの世のものを慕い求める。呪われたるは人の心である。さればこの身中の虫を殺し、この都を横行する怪物と戦う事の、決して容易ならぬを知る。人はかくて矛盾の谷を歩かせられる。救われてなおも嘆きの谷にある。悔い改めは死の日まで続かねばならぬ。けれどもふるき我と新しき我との懸隔けんかくの大となればなるほど、戦いは勝利である。十字架により義とせられたるものは、必然に悩みを通して潔きに導かれる。肉の欲、眼の欲、財の誇りは奪われるけれども、神が歓びと望みの極みとなりたるものに、この世の栄えは塵芥ちりあくたとなってゆく。神の愛の何たるかを知りたる彼らは、ただ神への信頼に生きんことをねがう。貞潔のため一切を犠牲にせんことをねがう。彼らは「サタンよしりぞけ」と云いて、戦い傷つきつつ召さるる日まで、愛の戦いを戦うであろう、犠牲の血を流すであろう。これがキリスト者の唯一つの生き方である。