第二十四講 大いなるバビロンの滅亡

第十八章(五月十八日)

藤井武

権威ある天使、栄光のうちに宣して大いなるバビロンの倒壊を告げる。審判の終わりの宣告である。大いなるバビロンとは都会をもって代表されたる社会生活を意味する。すなわち人類社会の滅亡である。その戦慄すべき罪悪史を神はすべてりたもう、そは「悪魔の住家すみか、もろもろの穢れたる霊のおり、もろもろの穢れたる憎むべき鳥のおり」(二節)と化してしまったのである。その存続はもはやゆるされない。

バビロンの王たり柱石たるものは商人である。社会は金によって立っている、商売根性が社会精神を成している。かくのごとき拝金家の跋扈ばっこする社会にどうして神が拝されようか。神とマンモンとにねつかえるは不可能である。「富める者の神の国に入るより駱駝らくだの針の眼を通るかたかえって易し」である。不信と商売根性とは互いに因となり果となって、ついにわざわいなる大バビロンがここに建設された。その数々の商品を列挙した揚句あげくには人の霊魂たましいがある。驚いた話である。魂までが商品の中に数えられて、もはや世には商品ならざるもの一つだにない。金に明けて金に暮れる完全なる商売社会である。そのあさましさ、言語に絶する。魂を商品にしてまでも利益が欲しいのであるか、現世主義もここに至って徹せるかな。その人々にとりて魂とは利を求むるの心に過ぎない。彼らの福音も真理も道徳も芸術も、すべて商売根性の上にのみ成立する。彼ら二三人集まるところ、常に商売根性がある。彼らのわす挨拶は「儲かりますか」である、「景気はどうですか」である。青年男女は成績点数をこれ事とし、将来を打算する。彼らに成績は精神よりも貴く、パンは魂よりも大切である。

キリスト者は神に幸福をねがうか、善業の報いを求めるか、魂の平安を目的とするか。否、神は断じて打算の心をもっては仰がれない。神は人を相手に商売をなしたもうのではない。神は無条件に聖子みこキリストを棄てたもうた、もし損得の言をもって表わさんとならば神こそは人のために最大の損をなしたもうたのである。しかして神は人から何を要求したもうか。何一つないのである、ただそのまま「立ちて父に帰らん」ことのみ。十字架の救いの何たるかを知らしめられたる者は商売根性と縁を絶ちたるはずである。聖名みなのため真理のため義のため愛のためすべてを棄つるをよろこびとするはずである。「十字架のゆえにすべてのことを損せしがこれを塵芥ちりあくたとなす」とは、パウロのみの心であるべきでない。キリスト者の生活が自己中心にあらず神中心たるべきならば、義も愛も生も死も神一切であらねばならない。神の無条件に対して無条件に信従するところ、神の無打算の十字架に対し無打算の生涯を送ること、そこにキリスト者の面目がある。輝かしかるべきキリスト者道すたれてここに久しいかなである。「末の世に信を見んや」である。

けれども雲天を蔽い、雷轟きわたり、地は震い、風はたけりて、似て非なる者らは神の前よりしりぞけられるであろう。淫行と金力の大いなるバビロン滅亡して、義血を流したるものは正しき審判の成就を見たのである。

一人の力強き御使いはバビロンの滅亡かくあるべしとヨハネに示した、見まもれば、その使い大いなるうすにも似たる巨岩をもたげ揮身の力をこめてこれを海に投じた。壮烈なる水煙と共に岩塊は海底に沈んだ、あとは何処も白波である。

「大いなる都バビロンはかくのごとく烈しく撃ち倒されて、今より後、見えざるべし」(二一節)

商人が地の大臣たりしバビロンの末路あわれむべし。大海の波は高らかに力強く、神の義を讃美し、審判の讃歌をうたうであろう。