第二十五講 こひつじの婚姻のときいたる

第十九章(五月二十五日)

藤井武

悪に悪を積みけがれにけがれを重ねたる不義の高楼不浄の市井、大いなるバビロンは焔々えんえんたる地獄の劫火ごうかに包まれた、ついに灰燼かいじんに帰し果つるまで。世は焼かれ、悪の幕屋は亡んだ。

陥落の敵塁を脚下に俯瞰ふかんして高翔こうしょうするは天の大軍団、そのうたに曰く、

「ハレルヤ、救いと栄光さかえ権力ちからとは我らの神に。
そは彼の審判さばきこそまことにして義なるがゆえに。
そは己が淫行をもて地を汚したる大淫婦をさば
神の僕らの血を彼女かれの手に報いたまいしゆえに。」(一、二節)

かの二十四人の長老と四つの活物いきものとはこれに和して、「アーメン、ハレルヤ」を唱える。讃美はのぼりにのぼりて高き処御座みくらに達し、御座みくらよりはまた響をかえすがごとくに声でて言う、

「我らの神をまつれ、すべて神の僕たる者よ、
神を畏るる者よ、小なるも大なるも。」(五節)

再びこれに応えて、大瀑布おおたきの落つるがごとく、雷霆いかづちの轟くに似たる、白衣の集団の大音声だいおんじょう

「ハレルヤ、全能の主、われらの神は統治すべしらすなり、
われら喜び楽しみてこれに栄光をまつらん。
そは羔の婚姻のときいたり、
すでにその新婦はなよめみずから準備したればなり。
彼は輝ける潔き細布を着ることを許されたり、
この細布は聖徒たちの正しき行いなり。」(六~八節)

ああ、この讃歌、あまりに高きその調しらべ!あまりに深きそのことば

統治と摂理の全能の神に栄光をまつれ。今ぞ心ゆくばかりのハレルヤを唱えよ。そは新天新地の出現、万物の復興、しかして羔の婚姻のときは到来したるがゆえに。羔は全人類のために十字架にかかりたまいし聖子みこであり、新婦はなよめは十字架を負いし人々の召団である。何と聖にして厳粛なことであろう。かくのごとき厳かなる祝福に対して、神への二心、かの大淫婦の心は、到底相れざる厭わしさである。このものの審判が全うされずしては、神の最後の奥義は実現されるを得なかった。しかし今やその不浄不義は地に滅されて、荘厳荘美なる最後の目的のため神の摂理はひらきゆくのである。

へブライの預言者らの峻厳なる魂の叫びし声と流しし血潮をしずかにおもい見よ、そこには神への貞操のほかのいかなる精神が据えられていたか。彼らはひたすら「神に帰れ」と唱道してやまなかった。使徒らは十字架のゆえに主を信じ通し、己れもまた殉教の死を雄々しく死んだ。かくのごとき貞潔が、キリスト者の貞潔であらねばならぬ。新婦はなよめたる召団の道はここにある。婚姻の根本観念は信仰のそれと同一である。これは聖感(divine sense)とも云うべきものである。この聖感の発するところ、「輝ける潔き細布」は織りだされる。これぞ真実の人(man of truth)の衣である。

婚姻をもってただ夢幻的にして甘美なるものと夢みることほど大いなる錯誤はない。ヨハネがこの大いなる婚姻について見たる幻はそうではなかった。彼は白馬の天に馳駆ちくするを見た。その騎士は「忠実また真実まこと」と称えられ、「義をもてさばきかつ戦いたもう」者である。「王の王、主の主」である。彼の眼はほのおのごとく光り、そのこうべは栄光の聖名みなに輝き、その衣は血に染みて赤い。これに従う天軍は白く潔き細布をまとうている。彼らは十字架の血に潔くせられし者である。彼らのうちに婚姻に際していよいよ湧き立つものは聖戦の心である。「なんじ真理まことと柔和と正義ただしきとのために威をたくましうして勝ちを得てのり進め!」と、詩の四十五篇にうたわれし精神こころに彼らは満つるのである。

羔の婚姻は聖である。潔きは全うされねばならない。聖なる戦い、婚姻の序曲をして光輝ある平和の大団円にすすましめよ。