第二十九講 その聖顔みかおを見ん

第二十二章一~五節(六月二十二日)

藤井武

黙示録第三章一九~二二節、第七章一四~一七節、第十四章一~五節、第十九章五~九節、第二十一章一~五節等と並んで、第二十二章一~五節の一団もまた輝かしき星座の一つである。星は一つ一つに美しい、しかしこの五つの星は一団をなしてさらに美しい、そこには不断の糸がある、見えざる聖手みてがこれを結ぶ。

御使いまた水晶のごとく透徹すきとおれる生命いのちの水の河を我に見せたり。
この河は神とこひつじとの御座みくらよりでて都の大路の真中まなかを流る。(一節)

生命いのちの水と生命いのちの樹との二つの存在は、神の恩恵の代表であり、天の真理の象徴である。

「神るに美しく食らうに善きもろもろの樹を地より生ぜしめまた園の中に生命いのちの樹と善悪を知るの樹を生ぜしめ、河はエデンよりでて園をうるお彼処かしこより分れて四つの源となった」(創世二の九、一〇)のは、まさに人への恩恵であった。また預言者エゼキエルの示されし清流の幻は深き真理を教えている、曰く「およそこの河の往くところには諸々の動くところの生物いきものみな生く、またはなは衆多おおくの魚あるべし、この水到るところにていやすことをなせばなり、この河のいたる処にてはものみな生くべきなり……河のかたわらその岸の此方彼方こなたかなたに食らわるるを結ぶ諸々の樹いそだたん、その葉は枯れずそのは絶えず、月々新しきをむすぶべし、これその水かの聖所より流れいづればなり、そのは食となりその葉は薬とならん」(エゼキエル四七の九、二一)。また詩第四十六篇四節にいう、「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者いとたかきものの住みたもう聖所を喜ばしむ」と。もし水と樹による恩恵と真理の文字をとり去るならば、聖書もまた焼士と化し曠野となり果てんのみ。聖書もまた、水と樹の文字のゆえに生命いのちがあるのである。ダンテが浄罪山上にてマテルダをして、「汝の見る水は、息きして切らす流れのごとく、寒さが還す水蒸気に補われる脈よりでず。両側にむかい、開いて注げば注ぐほど神の聖旨みむねによって償わるる滾々こんこんとして尽きざる泉より発する」(中山昌樹氏訳)と語らしめ、清火天に昇っては光の河を幻に見る心など、すべて相通うふしである。緑葉茂り聖水流るる神の都の新春に、誰か憧慢の心を燃やさないだろう。ここに民の心は潔められて泉水のごとく、清く甦りて若葉のごとく新しい。神の恩恵は注ぎてみなぎり、民の心は福祉さいわいに溢れ、のろわるる者は一人だにない。それのみでない、キリストの言いたまいしごとく、主を生命いのちとして生くる民の「腹からはける水が川となって流れでる」(ヨハネ七の三八)のである。生命いのち生命いのちを生むのである。くることは働きかけることである、他の者に生命いのちを与えることである。神に対しては奉仕として現われ、人に対しては愛として働く、これ実にキリスト者生活の活動的二面である。

神と羔との御座みくらは都のうちにあり。
その僕らはこれに仕え、かつその御顔みかおを見ん、
その御名みなは彼らのひたいにあるべし。(三、四節)

神に奉仕するところの彼らは、また神の聖顔みかおを目のあたり見るのである。さきなるは活動であり奉仕であるに対して、あとなるは信頼であり仰瞻ぎょうせんである。主イエスの聖言みことばに聴こう、主は曰いたもうた、「神のわざはその遣わしたまえる者を信ずるこれなり」(ヨハネ六の二九)、また曰いたもう「幸なり心の清き者、その人は神を見ん」と(マタイ五の八)。活動は大切である、しかし仰瞻ぎょうせんはさらに大切である。瞻奉みたてまつることは信仰の始めと終わりである。「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により思い煩いて心労こころづかいす、されど無くてならぬものは多からず唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり、これは彼女より奪うべからざるものなり」(ルカ一〇の四一、四二)と言いたまいしイエスの御心を味わうべきである。誠に、「み顔を見ん」との一事の何たるかを知らんがための人生である。失明せしミルトンの "stand and wait"「立ちて待つ」の信、「おおいかに言葉足らず、わが歓喜を表すに力弱きよ。否わが見しものに対して言葉はかすかなりとさえ呼ぶに足らず」、と記せし真理をる人ダンテの魂、これこそキリスト者の生活態度である。この世の子らが歓楽と幸福と繁栄を求むるに対して、キリスト者の生活態度はダビデの祈りの一句もて答えられる。曰く

されど我は義にありて聖顔みかお
目さむるとき容光みかたちをもて飽き足ることを得ん。(詩一七の一五)