第三十講 輝くあけの明星

第二十二章六節以下(六月二十九日)

藤井武

全篇のばつである、黙示の終結である。聖書の末章である。これを読んで誰しも心づくことは、「速やかに到らん」と云う聖言みことばと「来たりたまえ」と云う声の繰り返されていることである。審判さばき恩恵めぐみとを啓示したまえる主は、その終わるに当たって大いなるあわれみをもって言いたもう、

よ、われ速やかに到らん、このふみの預言のことばを守る者は幸いなり。」(七節)

われ速やかに到らんとは神の聖旨みむねである。神は時間としては歴史に対し、空間としては宇宙に対して、偉大なる目的をちたもう。彼はその偉大なる聖業みわざ完成の目的を果たさんために到りたもうのである、しかも神は、よわれ目的を果たさんとは言いたまわずして、速やかに到らんと人に呼びかけたもうのである。ただに人類全体のみならず、その一人一人に対して、預言のことばを守るものは終わりの日彼来たりたもう日に祝福さるべきことを約束したもうたのである、神はその創造つくりたまいしものを終わりまで心して導きたもうことを言い表わしたもうたのである。

これに対して聖霊をはじめ、新婦はなよめも聞く者もすなわち創造つくられたるすべての者が「来たりたまえ」と呼ぶ。大いなる要求!切なる祈り!先ず、「聖霊は我らの弱きを助けたもう、我らはいかに祈るべきかを知らざれども、聖霊みずから言い難き歎きをもて執り成したもう」のである(ロマ八の二六)。新婦はなよめなる召団、キリスト者は聖霊に助けられて彼の来たらんことを祈るとき、まことの希望を言いあらわしているのである。キリスト者に限らず人はみな、人に限らず造られたる者はみな、切に慕いて神の子たちの現われんことを待つのである(ロマ八の一九)。さらにロマ書のことばをもって言うならば、「我らは知っている、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。それのみでない、御霊の初めの実をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと、すなわちおのが体の贖われんことを待っている」のである(ロマ八の二二、二三)。我々の宇宙我々の歴史はかくも厳粛なる希求と祈りの中にあるのである。かくのごとき要求は偶然であり空望であるには、余りに切実である。神がその創造つくりたまいし者に自ら植え付けたもうたのでなくして、いかにこれを解することが出来よう。神の目的ありて、人及び一切の被造物の希求は生じた。しかして神の目的は必ず成る。彼は「あらんとしてあらんとしたもう」(出エジプト三の一四)方である。その「聖口みくちよりづることばは空しく帰らず、その欲するところを成し、その命じおくりし事を果たす」(イザヤ五五の一一)である。神かくのごとき神たる以上、我らの希望は必ず実現するであろう。主にありて希望をかとうすべきである。

神がアルパでありオメガであり、最先いやさきであり最後いやはてであることは、黙示録を一貫せる神観である。神にかたどられて創造つくられし我らのまったき終わりを願うは正しきのぞみであらねばならぬ。神は自ら原因でありかつ目的にてありたもう、すべてのすべてにてありたもう。我らの始めは神よりでた、我らの終わりは神に帰することであらねばならぬ、かくて神は我らのアルパでありオメガであり、すべてのすべてである。人生の目的は神、我らの帰すべきところはキリスト。キリストにおける神、そこに我らの終局がある。時満ちて経綸に従い、天に在るもの、地にあるものをことごとくキリストに在りて一つに帰せしめたもう、これ神の自ら定めたまいし所である(エペソ一の一〇)。

現実を直視するに、世を支配する力が二つある。「不義をなす者はいよいよ不義をなし不浄なる者はいよいよ不浄をなし、義なるものはいよいよ義を行い清きものはいよいよ清くする」、世界にはこの二つの大いなる潮流があって、前者は悪の方向をいよいよ明らかに、後者は善の方向をいよいよ強くさし示す。真剣な生活をくる者は義と不義、純と不純とを、判然と弁別するであろう。麦たらんか毒麦たらんか、道は二つのいずれかあるのみ、妥協は絶対にない。両者の懸隔けんかくは展開につれていよいよ分明ぶんみょうとなり拡大せられるであろう。世よ汝の往くべきところへ往け。我はこのまま十字架に走る。我は彼処かしこにて主と共に一度死ぬるであろう。けれども新たに生きて白衣をせられ、生命いのちの樹にゆき、門をぎりて都に入るであろう。これは生命いのちと光の横溢おういつする、何たる輝かしき道ではないか。勝利は十字架の道にのみある。

「我はダビデのひこばえまたそのすえなり、
輝くあけの明星なり。」(黙示録二二の一六節)

かくのごとき道を歩む者の眼に、何ものか小さき輝かしき緑がうつる。ひこばえである。切られし樹株、一度死の斧を振られたる樹株より、萌えづる緑の美しさ!涙ぐましき美しさである。復活である。永生への第一歩である。シオンの山への旅人は、路傍の一つのひこばえを見て何を想うか。ああ小さきもののもたらす真理のいかに大いなる!その慰めのいかに深き!また険しき夜道の旅もあしたに近づくにつれ、輝きづる星影一つ、静けく深くこよなく潔く。これを見出でし旅人は、無量の想いをみ空におくる、「主よ来たりたまえ」と。「しかり、われ速やかに到らん」と確かなる聖言みことばの反応を耳にして、再び応えまつって曰く、「アーメン、主イエスよ、来たりたまえ」。

かくのごときがキリスト者の希望である。小さく短かき地上の人生をして真に意義あらしめ、永生への貴き第一歩たらしむるものは、まさにこの大いなる希望である。神の聖業みわざの完成、羔の婚姻の成就は、キリストの再臨にかかる。キリストの再臨を待望することなきところにキリスト者生涯はないのである。キリストの啓示、大いなる希望の書、ヨハネの心血を注ぎてしたためし黙示録は我らのためにのこされてある。聖書は始めより終わりまで真に驚くべき書である。この書を唯一の「わが書」として、主にありて歩まんことをねがおうではないか、主の大いなる日を待ち望もうではないか。