一 文学としての黙示録

藤井武

黙示録は難解の書と称せられる。この書に対するキリスト者の興味と理解とは、早くすでに三四世紀の頃から凋落ちょうらくしたらしい。後年、信仰復興して聖書が平民の書となった宗教改革以後の時代に至っても、黙示録の地位は回復しなかった。そして今なおそうである。我らは一般のキリスト者の間にこの書が愛読せらるる傾向を少しも見出さない。否、愛読は思いもよらない、大抵の教会においてはこの書はほとんど顧みられだにしないのである。キリスト者の多数にとって、ヨハネ黙示録一巻は封ぜられたる巻物である、解くべからざる謎である。

何故にこの書はさほどに難解なのであるか、何故に人はここに切実なる興味を感じ得ないのであるか。その主なる理由として私は三つのものを考える。

第一はその内容にある。この書の取り扱う問題は、個人の胸のうちに起る波瀾よりもむしろ外側の出来事である、霊魂そのものの消息よりもむしろ世界の歴史である。人間の興味は早晩霊魂の戯曲に帰るとある人は曰うた。まことに心をくものはまた心でなければならぬ。一人の霊魂が見えざる大いなる手に翻弄せられて、あるいは底しれぬ淵に沈みあるいは光明耀々の峯に上り、波瀾万丈の行程を辿るところに無限の感興がある。ことに弱き者の偽らざる告白、虐げられたる者の叫び、悔改者の涙、または運命の下に破産することを拒む意思の声、もしくは優れたる者が惜しみなく己を与える愛の姿なぞは、いつの代にも新らしき力をもって人の心に訴える。ゆえにまたある人の曰うたように、人類は常に霊魂の戯曲の真実なる再現を歓迎したのである。古きギリシャ作家の悲劇がそれであった、アウガスチンの懺悔録がそれであった、ダンテがそれであった、シェークスピヤがそれであった、ゲーテもまたそれであった。しかして試みに聖書中にこの種の人間味深き文学を求めるならば、あるいはヨブ記である、あるいは詩篇である。誰かヨブの深刻きわまる煩悶に対して腹の底から惨み出るような同情と尊敬とを寄せずにいられようか。誰かダビデの涙にまみれし歌を聞いて己が心琴におのずからなる共鳴の湧き起こるを禁じ得ようか。このゆえに詩篇またはヨブ記はいにしえより今に至るまで、キリスト者のいと近き友である。何人もこれらの雄篇からしばしば慰安と奨励とを受くることなしに信仰のみちを進むことが出来ない。恐らく教会の地上にとどまる限り、否、人類の存在するかぎり、これらの書は絶えざる光明の提供者としてつづくであろう。人類がいつか詩篇またはヨブ記に対して興味と理解とを喪失するの日を見るであろうとは、私には遂に想像することが出来ない。

しかるに我らは黙示録において滅多にこの種の消息に接しないのである。そこには堕落しつつある教会に対するキリストの熱愛の叫びがある。「われ汝の行為おこないを知る、なんじは冷ややかにもあらず、熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温なまぬるきがゆえに、我なんじを我が口より吐きいださん」といい、「見よ、我れ戸の外に立ちて叩く」という。そこには聖座みくらのまえにおのれの冠冕かんむりを投げ出して讃美する二十四人の長老の歌がある。そこには祭壇の下に大声に呼ばわりつつある殉教者の霊魂がある。曰く「聖にしてまことなる主よ、何時いつまでさばかずして地に住む者に我らの血の復讐をなしたまわぬか」と。またそこには地の権者たちが審判を恐るるのあまり山といわとに向かいて「請う、我らの上に墜ちて聖座みくらに坐したもう者のみかおよりこひつじの怒りより我らを隠せ」と呼ぶ声があり、あるいは「人々死を求むとも見出さざる」深刻なる苦しみがある。しかしおよそこれら僅少なる断片的叙述のほか、黙示録はほとんど個人の霊魂の内的生活に触れない。その描くところは何か。あるいは教会全体の信仰的傾向である、あるいは天における神の聖座みくらとそのほとりとの光景である、あるいは数多あまたの連続せる天災的患難の発生である、あるいは天使の行動である、あるいは悪霊、悪者の活躍である、あるいはバビロンの倒壊である、あるいは羔の婚姻である、あるいは最後の審判である、しかしてまた新天新地の出現である。すなわちそこに世界の戯曲はある。しかし霊魂のそれがない。そこに光彩はある、しかし表情がない。画はある、しかし涙がない。そして黙示録が今に至るまで多くの人の興味をかなかった理由の主なるものの一つはここにあると思う。

人間の興味が早晩霊魂の戯曲に帰ることは確かに真理である。しかし私はあらためて問う、ヨハネ黙示録には果たして霊魂の戯曲がないか。あるいはかえってその全篇が最も偉大なる霊魂の戯曲そのものではないか。

霊魂は人にある、また神にある。神は霊なりという、彼は霊魂の最大なるものであり、また実に霊魂自体である。しかして人の霊魂に戯曲があるように、神の霊魂にももちろん戯曲がある。それは戯曲中の戯曲、人類のいかなる傑作にも比較すべからざる驚くべき偉大なる戯曲である。しかも二者はその本質をひとしうする。何となれば人類の霊魂はもと神から出たものであるからである。我らは人類の霊魂の戯曲を解するように、神の戯曲を解し得る(程度においてははなはだしく異なるとも)。我らは前者に対して興味をもつように、後者に対しても興味をもち得る。しかのみならず、もしアウガスチンの曰うたように、人は神のために造られたものであるから、人の心は神のうちに憩うまで安んじないことが事実であるならばいかん。しからばすなわち人間の興味は早晩神の戯曲にまで帰らざるを得ないのである。しかして実際そうである。ふかく神の心を知った者はみなその事を経験した。見よ、キリスト者が神の摂理に対して抱くところのあの異常なる讃美と感謝とのこころを。あれはそもそも何であるか。摂理すなわち神の戯曲の発現にほかならない。ゆえに神を知る者にとっては、摂理の記録なる歴史に言いがたき興味がある。歴史を神の戯曲として見て、それは人の霊魂の戯曲にまさる最も偉大なる文学である。

黙示録は神の霊魂の戯曲である。ここには人が苦しむに先だちて彼を造りし者が苦しむ。ここには人の声の聞こえないところに救い主の叫びが聞こえる。ここには天災の陰に愛の悶えがあり、新天地の出現の裏に永遠の正義者の歓喜がある。黙示劇において主役を演ずる者は、小さき個人ではなくて、神彼自身である。彼の悲哀と歓喜と憤怒と満足と、すなわち霊魂の最も偉大なるものの消息を綴りし記録が黙示録一巻である。

私はかくのごとくに黙示録を見る。ゆえに私にとって黙示録の興味は決してヨブ記または詩篇に劣らない。例えばその第五章において、聖座みくらに坐したもう者の右の手にある封ぜられたる巻物を羔がすすみて受け取る場のごとき、または第二十一章において、聖なる都、新しきエルサレムが夫のために飾りたる新婦はなよめのごとく備えして神のもとで天よりくだる場のごとき、人の綴りしいかなる文学がかつてかほどに私の心を捉え得たか。ヨブ記とヨハネ黙示録としかしてダンテ神曲と、この三つを呼んで私は世界の三大文学という。甲は旧約に、乙は新約に、丙は教会に。甲は現世における個人の霊魂の戯曲として、丙はの世における人類の戯曲として、しかして乙は天と地とにおける神の戯曲として。

第二に黙示録の理解と興味とをぐものはその文体にある。黙示録はいわゆる黙示文学(apocalyptic literature)の範疇に属し、その文体において極端に象徴主義である。ここにはあらゆる譬喩がちている。「天然と生命とのすべての部門が形象を提供する。動物界はその活物と獣とをもって――白き赤き黒き青き馬があり、羔と子牛とがあり、獅子と豹と熊とがあり、いなごさそりかわずとがあり、鷲と鷹とがあり、空の鳥と海の魚とがある。植物界はその樹と草とをもって。また地と海と天とがあり、収穫、酒槽ふみなどの農業的活動があり、大都会の生活と産業があり、大軍団の進撃と潰滅とがあり、破璃はりの海は聖座みくらのまえにべられ、河は聖都の中を流れ、星はあるいは空に輝きあるいは地に落ち、あるいはキリストの掌中に握られあるいは婦人の頭上を飾る。……母あり、子あり、淫婦あり、その愛人あり、夫のために飾りたる新婦がある。冠をいただくもの、両刃の剣を執るもの、鉄の杖を握る牧者、鎌を挙ぐる収穫者、ラッパ吹く使、間竿けんざおのぶる測り手、曰く何、曰く何、曰く何」。

思想を露骨に表白すべき平明なる文字を避けて、これら目まぐるしき譬喩の衣をまとうときに、いかなる文学もその意味は晦渋かいじゅうに、その興味は索然さくぜんとなるを免れない。いわんや常識の眼には奇異にうつる形象も少なくないにおいてをや。黙示録の象徴主義は新約においては全く比倫ひりんを見ず、旧約においてさえ、例えばダニエル書のごときをもってしてなお遠く及ばざるところであることを思えば、多くの人がこの書に躓くは怪しむに足りない。

しかしながら譬喩文学必ずしも難解ならず、象徴主義必ずしも索莫さくばくたらずである。否、かえって譬喩の本領は理解を適切ならしむるにあり、象徴の貴さは説明の及ばざる興趣きょうしゅを添えるところにある。誰かイエスの垂訓がその自由なる譬喩のゆえに何人の胸にも喰い込む鋭き力あることを知らないであろうか。誰かダビデの牧羊詩がその野趣あふるる象徴のゆえに永久にうつろわざる新鮮味を備えることを認めないであろうか。けだし譬喩または象徴はもと人生哲学の産物である。人生は「偶然」の団塊かたまりではなくして、微妙なる法則の織物であることを知るときに、我らの眼は同じ法則によって支配せらるる現象と現象との類例に気付かざるを得ない。さらに道徳界の法則と自然界の法則とがいずれも同じ神の意思より成ることを知るに及びて、我らの眼に触るる万象に限りなき発言あるを見出すのである。たとえば水流のほとりに植えられし樹に、神を信ずる者の福祉さいわいのおもかげあり、屠場ほふりばかるる無言の羔に世の罪を負う者の犠牲の預言がある。播かず刈らずたくわえずして楽しむ空の鳥、つとめずつむがずしてその装い栄華の極みのソロモンにもまさる野の百合に、人の思いわずらいを嘲る最も雄弁なる声があるではないか。

「信仰によりて我等は悟る、もろもろの世界は神のことばにて造られ、見ゆる物は顕わるる物より成らざるを」(ヘブル一一の三)。見ゆる物は顕わるる物より成るのでない、もろもろの世界は神のことばによって造られる。しかしてことばはこころの表現である。よって知る、見ゆる物の世界は顕われざる心の世界より成ることを。物質は精神の譬喩であり、天然は霊魂の象徴である。何故に我々の心あやしきまで天然にき付けられるのか。何故に武蔵野の丘と林と雲とは夕ごとに私を書斎からおびき出さずにはやまないのか。何故にそれらの生命いのちなきものが時として私の眼から涙をさえ引き出すに至るのか。もし自然が霊魂のために発言しないならば、もし天と地とが造物者の意中を語らないならば、私は私の心理の健康を疑わざるを得ない。しかし預言者エレミヤは一本の早咲きの巴旦杏はたんきょうに、速やかにことばを行わんとする神を見た(エレミヤ一の一一、一二)。詩人ブライアントは「はてしなき空をかけりて帯より帯へと導かれゆく水禽」に、おのがひとりなるさびしき長きみちの平安を思うた。万物は神の戯曲を語る。使徒ヨハネがそのたぐいなき黙示録を綴るべく極端なる象徴主義を採ったことは、かえってこの書の正しき理解と感興かんきょうとを増進するゆえんではなかったか。

しかのみならず、注意すべきは黙示録と旧約との関係である。黙示録は解釈の鍵を添えずには象徴を与えない。しからば鍵はいづこか。主として聖書にある、ことに旧約にある。ヨハネがここに用いし譬喩の多くのものは、あるいはかつて預言者らの一たび用いしものである、あるいは古きユダヤ歴史においてその精神のすでに明らかにせられしものである。(ウエストコット及びホルトによれば、黙示録全巻四〇四節中旧約の引照を含むもの実に二七三節の多きに上るという)。例えば生命の樹、生命の水、生命の書といい、羔、ユダの族の獅子、ダビデのひこばえというがごときは、さながらに旧約語彙ごい中のもの。また七つの金の燈台と幕屋の中にありし七の燈皿ともしびざらとの関係、新しきエルサレムの石垣の基を成せる十二の宝玉と祭司長の胸牌むねあてめられし同じ数の宝玉との関係、その聖都の構造とエゼキエル又はイザヤの同じ問題に関する預言、封ぜらるる巻物と土地の買契かいてがた、竜と蛇、また聖座みくら、祭壇、四つの活物、二十四人の長老、香炉、竪琴、虹、雷霆、酒杯、酒槽、バビロン、エルサレム、ユフラテ、エジプト、イゼベル、淫婦……挙げ来たれば、いづれか旧約文学の再現でなかろうか。黙示録は譬喩をもってちるというも、ヨハネ自身の創意にかかるものは実ははなはだ少数に過ぎない。黙示録の象徴主義は原則として旧約の領域を超えないのである。これに躓きこれをしりぞける者は、自ら旧約の読者にあらざることを証明するものである。モーセ、ダビデ、また預言者らのことばに照らして読むときに、ヨハネの謎は謎でなくして、まことに美しき黙示である、詩である。

ヨハネ黙示録は詩であると私はいうた。そして私は実にそう信ずる。単に文体の上から見ても、黙示録は普通の散文とはなはだしくおもむきを異にする。古き黙示録学者として有名なるデイオニシウス(三世紀)は、この書がギリシャ文法ことにその文章法シンタクスを無視すること多きに撃たれ、著者に被するに文法背反者ソレシストの名をもってさえしたと称せられる(そのいわゆる文法背反はおもに anacoluthon すなわち語格錯誤である)。また近ごろ大監督ベンスンのごときもその黙示録論中に特に「非文法の文法グランマー・オブ・アングランマー」と題する一章を設けて、この問題を論じているという。もし私の信ずるように、黙示録がヨハネ伝福音書とその著者を同じうするならば、彼は何ゆえに後者において多くなさざる非文法を前者においてなしたのであるか。もちろんこれを無知に帰することは出来ない。博士スイートはいう、「彼の文章法の変態は恐らく多くの原因に基づくであろう。……その幻影に運動を与え生々たる現実性を与えんとのねがいもまたその一つであろう。……しかしいかなる原因に基づくにもせよ、文章法の通常の規則を無視することにおいて、またそのために文意の明白および文章の力を失うことなかったという成功の点において、ヨハネ黙示録がギリシャ文学中独特の地位に立つ事は疑いをれない。この書は公然かつ熟慮的に文法家に挑戦する、しかも文学としてさえその独自の壇場において比倫ひりんなきものである」と。

思うに黙示録の文体のこの特徴は恐らくその内容に伴うところの必然の結果であろう。新酒は古袋に盛るべからず、詩は文章法に盛ることをゆるさない。黙示録の内容はそれ自体において立派なる詩である。およそ天と地とにおける最も聖きもの、最も厳粛なるもの、最も美しきものが、偉大なる韻律を踏みて預言者の眼のまえに展開せられたのである。内容のみについて見て、いかなる詩が黙示録よりも崇高であるか。神曲といえども遂にその栄光を奪うには足りない。ヨハネの幻影はあるがままにしてすでに最高級の詩である。ヨハネは特にこれに詩の衣をせようとはしなかったけれども、その文体はもちろん低き文章法の世界を超越しておのずから詩の世界にさまようている。黙示録を散文として扱わんとするは誤謬の始まりである。少なくともダンテの地獄篇または天国篇を読むの用意をもってせずして、黙示録の審判やその栄光を実感するを得ないのは当然である。

第三にはその色彩である。黙示録をいろどる濃厚なる色彩が二つある。一は患難である、二は天国である。しかしてこの著しき特徴のゆえに人はまた黙示録につまづく。何となれば患難は人の愛好せざる所、天国はその頓着せざる所であるからである。何人も暗きわざわいについて聞きまた考えるを好まない。またその望みを高き天につなぐものはいつの世にもはなはまれである。人のこころは常に現世にある、その歓楽にある。ことに現代人においてそうである、現代のキリスト者においてそうである。彼らの興味なきものにして患難または天国の音信おとずれのごときはない。

黙示録は患難と天とについて語る。あるいはむしろ全篇がこの二つのものの音信おとずれより成るというても誤謬ではない。始めより著者みずからその雰囲気のなかに筆を取っているのである。曰く「汝らの兄弟にして汝らと共にイエスの患難なやみと国と忍耐とにあずかる我ヨハネ」と(一の九)。イエスの患難と国と忍耐とにあずかる者が、同じようにそれにあずかる者を慰め励まさんと欲して、その患難の意味と天国の希望とについて書き送った書翰が黙示録である。「七つの封印」の患難がある、「七つのラッパ」の患難がある、「七つの金の鉢」の患難がある。戦がある、迫害がある。これら数多あまたの患難と交錯して、聖所の幻影がある、白衣の群衆の聖会がある、聖なる婚姻がある、新しき天と新しき地とがある。禍いわざわにあらずんば天である、審判にあらずんば永遠である。

かくのごとく黙示録は患難と希望とについて語る。しかしてそのゆえに世の人、ことに現代の人、ことに現代のキリスト者は、この書に対して理解と興味とをもつことが出来ない。私はそれを至当の事と考える。黙示録は彼らのために書かれなかったのである。みずから患難に住み希望に生きたる著者は、同じ経験の中にある兄弟らと共に語らんことを欲したのである。冷ややかにもあらず、熱きにもあらざる現代キリスト者のごときに対しては、彼は今もイエスのことばりていうであろう、曰く「なんじただ微温なまぬるきがゆえに、我れ汝を吐きいださんとす」と。

わが勇敢なるへさきの裂きゆく
この航海は、小さき船や、命を惜しむ
水夫かこらのくし得るものにあらず。

とダンテもまたおのが詩についていうている。ダンテといい、ヨハネといい、ひとしく流竄るざんの中にありて筆をったのである。彼らにとっては、人生は真剣なるもの、厳粛なるもの、痛ましきものであった。彼らにとって現代文士の創作のごときは蚯蚓みみずのたわごとにも値しなかった。彼らは「キリストの恥を負い彼とともに陣営よりでて門の外に苦難くるしみを受けん」と欲せざる享楽の子や偽りの信者に対して寄すべき何の嘉信をもたなかった。「罪のはかなき歓楽たのしみを受けんよりは、むしろ神の民とともに苦しまんことをし」とする小さき群れよりほかに、黙示録の甘美を味わうの特権は許されない。現代キリスト者がこの大いなる饗宴よりしりぞけらるるは、その事自体が彼らに対する適当なる審判である。

聖書の最上の註解者は患難の経験である。ベンゲルの「指針」もデリッチの旧約もマイヤーの新約も、聖名みなのために受けし一つの傷には及ばない。苦痛のなかに呻吟しつつひもとくとき、聖書は我らの前に変貌する。この事実は黙示録について特別に真理である。「患難かんなんは忍耐を生じ、忍耐は練達れんたつを生じ、練達れんたつは希望を生ず」。希望は患難のである。患難は希望の母である。患難におらずして誰が生々たる天国の希望を抱き得たか。エジプトの肉の鍋の側に坐りて飽くまでにパンを食らうものに、カナンの栄光を説くよりも大いなる徒労はない。「かかるがゆえに我れ彼をいざないて荒野にみちびき入り、ついに彼の心をなぐさめ、かしこをづるや直ちに我れ彼にその葡萄園を与え、アコル(患難なやみ)の谷を望みの門となして与えん。彼は若かりし時のごとく、エジプトの国より上り来たりし時のごとく、かしこにて歌うたわん」(ホセア二の一四~一五)。黙示録は荒野における慰めである、「アコルの谷より望みの門へ」の枝折しおりである。ゆえにその喜びにあずからんと欲する者は、まずエジプトを棄てて荒野に上らねばならぬ。かしこにてヨルダンのかなたを望みつつ預言者ヨハネの声に聴け。そのとき航海者が洋上浪高きところ、目ざす故国よりの無線電信に接するにも遥かにまさりて、我らのたましいは永遠の希望の喜びにうちふるうであろう。少なくとも私にとって、黙示録は他のいかなる書をもってもえがたき独一の使信である、喜びの音ずれである。