二 聖書におる黙示録の地位

藤井武

数うべからざる書物の群集のなかに聖書がただひとり王座を占むる所以ゆえんは、それが千何百年の長きにわたり数十人の多種多様の記者によって綴られたにも拘わらず、驚くべき統一をもって神の国の真理を啓示するところにある。聖書は書庫であってまた一書である。ひとつの精神、ひとつの目的が全巻を貫徹している。六十六書の間に整然たる秩序があり、揮然こんぜんたる調和がある。聖書に始まりあり中あり終わりあり、頭脳あり心臓あり四肢あり、相連なって一個の有機的全体を構成している。この完全なる統一をもってキリストとその国とを証明するところに、聖書の独一なる生命がある。

従って旧新約各書はいずれも無くてならぬ要素を成している。いずれの一書を欠くも聖書はそれだけ不具者となるを免れない。その意味において、聖書における各書の地位はみな同一であるということが出来る。しかしながら例えば頭脳もしくは心臓を失うときに人はただに完全を損われるのみならず、また実に生命そのものを失わねばならぬ。有機体の各機関の地位必ずしも同一でない。あるものの必要は比較的であるに反し、他のものは絶対的である。聖書中にもまたこれなくば聖書の生命を失わしむるほどの重き地位を占むるものがある。

いうまでもなく創世記はその一つである。天地の創造と人類の堕落とを明らかにするの古き一書なかりせば、救いの音ずれと神の国の告知とはいかに不徹底なるものであろう。創世記は聖書の土台である。この上にすべての福音が築かれている。次に詩篇もまたその一つである。詩篇なき聖書、我等はそれを想像することが出来ない。詩篇は聖書の肺臓である。神を慕うこころはここにおいて呼吸する。詩篇なくば信仰は絶息するであろう。次には福音書である。イエスの生涯を知らずして何処に救いがあろうか。疑いもなく聖書の中心は福音書にある。ルカ伝あるいはヨハネ伝は旧新約の心臓である、その柱石である。次にはロマ書。福音の偉大なる体系、人体ならば頭脳、建築ならば棟梁、ロマ書なき断片的福音によってまったき救いは実現しそうにも思われない。

以上はいずれもみな聖書中の聖書である。聖書がその全巻にわたりて見事なる統一を現出するは実にこれらの書あればこそである。仮にこれらを呼んで聖書中第一階級の書という。

ヨハネ黙示録はいかん。黙示録は聖書中僅かに四肢の末端ぐらいの地位を占むるに過ぎないか。あるいはまた以上の諸書と共に第一階級に列すべきものであるか。換言すれば、黙示録なくして聖書は立ち得るか否か。

この書が今日まで長らく教会に無視せられて来た歴史を思えば、この書の存在すると否とは福音の実力に大なる関係なき問題であるかのように見える。そして多分大多数のキリスト者がそういう風に考えているであろう。しかしながら私はここに問わざるを得ない。黙示録を無視して来た教会に何か大いなる欠陥、償うべからざる損失がなかったかと。私をしてそれを指摘させようとならば、私ははばからずに言うであろう、教会のラオデキヤ精神!と。こころせよ、ラオデキヤ教会はその大いなる欠陥のみたされざる限り、その見ぐるしき俗化の癒されざる限り、救われないのである。主は彼らを口より吐き出したもうであろう。教会は黙示録をしりぞくる事によって真実の生命を失い、俗化の谷に沈淪ちんりんしている。しかしてこの見ぐるしき歴史によって、教会は自ら黙示録の価値を証明しつつあるのである。

黙示録の地位はこれを創世記と対照するときに最もよく現われる。創世記は「始まりの書」である。ここに天地間一切のものの開始がある、永遠より時への出発がある。そのゆえに創世記はまた聖書の始まりの地位を占めるのである。すでに始まりあり、すなわち終わりがなければならぬ。始まりの書に対する「終わりの書」、天地間一切のものの終末をしるせる書、時より永遠への復帰を示す書、その書なくして聖書は成り立たない。旧約創世記をもって始まる聖書が、もし新約ユダ書をもって終っているとするならば、何たる忍びがたき欠乏であろうぞ、それはあたかも屋根なき家である。住むにえない、たとえ土台はいかに堅牢に、柱や壁はいかに立派に造られたとしても。

創世記が始まりの書であるに対して、黙示録は完全に「終わりの書」である。その対照は誠にいみじき観物みものである。前者に天地の創造があるに対して、後者に新天新地の出現がある。前者に人の創造があるに対して、後者に人の完成がある。前者に神の安息があるに対して、後者にその安住がある。旧き人道の代表者なるアダムの結婚に対して、新しき人道の代表者なる第二のアダム――羔の婚姻がある。蛇の勝利に対して、その滅亡がある。人類の堕落に対して、その救贖きゅうしょくがある。神との交通の破壊に対して、その完全なる回復がある。死に対して、復活、永生がある。楽園の喪失に対して、聖なる都の降下がある。生命の樹よりの放逐に対して、それへの復帰がある。地ののろいに対して、万物の復興がある。カイン及びそのすえなる悪者の跋扈ばっこに対して、偽キリスト、偽預言者らの刑罰がある。アベルその他義者の患難に対して、キリストの新婦はなよめの祝福がある。開始に対して終末、約束に対して成就、混乱に対して整理。一言にしていえば、土台に対する屋根である。

建築の屋根なる黙示録は、また人体の眼であるというてもよい。ロマ書が信仰の書であり、ヨハネ伝が愛の書であるに対して、黙示録は比類なき希望の書である。我らはロマ書において「信仰より信仰に」進ましめられ、ヨハネ伝において「その独子ひとりごを賜うほどなる」神の愛に触れ、しかして黙示録において高く「開けたる門」のかなたに天を望む。黙示録を開かずして、天国の鮮やかなる栄光を望み見ることが出来ない。眼である、瞳である。しかして信仰の生命にとって、眼の貴さは幾ばくぞ。希望なき生涯は神なき生涯である。「汝は腹這はらばいて一生のあいだ塵を食らうべし」というはサタンへののろいであった。いうところは希望の永遠的剥奪であった。ダンテの見たる地獄の門の頂には、暗き色にて、「一切の希望を棄てよ、汝らここに入る者」としるされてあった。希望は祝福の保証である、希望は栄光の予感である。希望なき信仰が何処にあるか。パウロはいう「また彼により信仰によりて今立つところの恩恵に入ることを得、神の栄光を望みて喜ぶなり」と。望まざる信仰は実は信仰ではない。望まざる愛もまた愛ではない。愛は「おおよそ事望む」という。ロマ書の頭脳もヨハネ伝の心臓も、黙示録の瞳子を得て始めて生き得る。

かくのごとくにして聖書における黙示録の必要は絶対的である。これなくして聖書は聖書たり得ないのである。あるいは創世記あるいは詩篇、あるいは福音書あるいはロマ書、それらの雄篇と共に、ヨハネ黙示録もまた聖書中の聖書、福音中の福音として輝く。