三 キリスト再臨の問題

藤井武

黙示録の主題はその冒頭に掲げられている、曰く「必ず速やかに起こるべき事」と(一の一)。それは一つの謎であるか。否、人生の実験に照らし、また聖書の旧新約に照らして、その事の何であるかを推知するに難くない。

人生における我らの実験は、何か早晩必ず起こらねばならぬ事があることを我らに教えないか。もしある事が遂に起こらないとするならば、もし世界が今までのような歴史をいつまでも繰り返すに過ぎないならば、忍びがたき不合理、矛盾、混乱、暗黒の中に埋没せしめらるるの感を我らは抱かずにいられようか。

今は正直なる者が売られ、もてあそばれている。いつまでもこのままでよいのであろうか。今は弱き者がにじられ、憐憫ある者が虐げられている。それでいのであろうか。今は小児が損なわれ、妻が盗まれ、貧民が絞られている。それでよいのか。義はすべて不義のために抑えられ、顕わるべきものは隠れ、滅ぶべきものははびこり、奸悪と背倫とは公然讃美せられている。涙がある、痛みがある、死がある。いつまでもそれでいのであろうか。

もし人類が、意識的にもせよ無意識的にもせよ、いつかこの世界に総勘定の日が来るであろう事を全く予期しなかったならば、どうしてこの途方もなき不公平、不自然、不都合の継続にえ得たであろう。絶望者は破壊する。歴史は六千年の今日を待つまでもなく、絶望の群衆の手により恐るべき争闘流血をもってくに終結を告げていたに相違ない。不完全なる歴史の存続その事が、人類共通のある期待を証明する。人生の実験に、来たるべき総勘定の日の預言がある。

人生の実験を裏書きして、さらに鮮明なる発言と確実なる保証とをこれに附与するものは聖書である。もし他の問題についてすらそうであるならば、ましてこの普遍的終局的問題についてそうでなかろうか。果然、聖書はその旧約新約を通じて、この問題に関する神の約束をもってちている。聖書は元来約束の書である。主として二つの大いなる約束を載せる書である。その一つはすでに成就してしまった。しかして残る一つがすなわちこの問題である。人生の総勘定である。あるいは聖書がこれに附与したるさらに鮮明なる発言をもってすれば「キリストの再臨」である。それは「必ず」起こるべき事である。何となれば人生の実験がこれを預言する上に、なお神の明白なる約束がこれを保証するから。それは「速やかに」起こるべき事である。何となれば神は必要以上に一刻もその時を遅滞せしめたもうはずがないから。

これをキリストの再臨という、「見よ、彼は雲のうちにありて来たりたもう」とあるとおりである(一の七)。しかしながら問題は彼がいかにして来たりたもうかにあるのではない、何のために来たりたもうかにある。雲のうちにありてとは水蒸気の集団たる雲に囲まれての意味であるかどうか。そんな事は一先ひとまずどうでもよい。とにかく活けるキリストは栄光のうちにありて来たりたもう。何のためにか。全人類に対して最後の決算を要求せんがためにである。「諸衆もろもろの目、ことに彼を刺したる者これを見ん、かつ地上の諸族みな彼のゆえに歎かん」(一の七)とあるはすなわちその意味である。一人の目として彼を見ずに済まし得るものはない。ことに彼を刺したる者、神を侮り道徳を嘲りたる者、不義をもっていま栄ゆる者が、彼を見て歎くであろう。「わざわいなるかな、いま飽く者よ、汝らは飢えん。わざわいなるかな、いま笑う者よ、汝らは悲しみ泣かん」(ルカ六の二五)。「さいわいなるかな 柔和なる者、その人は地をがん。さいわいなるかな、義に飢え渇く者、その人は飽くことを得ん」。人生の総決算、歴史の終局的革命、世界の根本的改造、言い換えれば、神の国の完全なる建設、それを代表せしめて聖書はキリストの再臨という。

再臨なるものが果たしてあるのであろうか。疑おうと思えば疑い得る。ただしかしながらエホバの神を信ずる以上は絶対にこれを疑うことが出来ない。「今いまし昔いまし後きたりたもう主なる全能の神いいたもう『我はアルファなり、オメガなり』」(黙示録一の八)。神は確かにアルファである、始めである。何となれば宇宙は彼に創造せられて現に存在しているからである。人類の歴史は彼の摂理の下に進行しつつあるからである。もし神がアルファでありオメガでないならば、もし神が始めであって終わりでないならば、しからばキリストの再臨は夢として消えるであろう。もし神が創造の為放しはなしにこの世界をうち棄て置く神であるならば、もし我ら人間さええがたき不公平不条理を遂に看過みすごしになし得る神であるならば、しからば彼は雲のうちにありて来たらず、何人の目もこれを見ないであろう。かくアルファにしてオメガならざる神を想像し得る者は自由に再臨を疑うがよい。少なくとも我らの信ずる神はかくのごとき怪物ではない。我らはエホバの神を信ずる。ゆえに必然キリストの再臨を信ずる。