四 活けるキリスト

藤井武

再臨を主題とする黙示録の内容はおのずから三にわかたれる。

一、再臨すべき彼れ、すなわち活けるキリストの栄光(一章九節以下)
二、再臨に至るまでの準備、すなわち現世における教会の使命(二、三章)
三、再臨その事(四章以下)

「されば(第一)汝が見し事と、(第二)今ある事と、(第三)後に成らんとする事とをしるせ」と示されたとおりである(一の一九)。

ヨハネはず、天にありて活けるキリストの栄光を見させられた。時は一世紀の終わりごろ、所は小アジアに近きパトモスの島において。ロマ皇帝ドミシアンの暴虐の下にこの老使徒はつながれてそこに流謫るたくの身となっておった。ある「主の日」すなわち一週の始めなるキリスト復活の記念日に、彼は海を越えて静かに見やりながら、主慕わしさにえざるを覚えた。そのうちに彼のこころは聖霊に導かれていと高き所に上りゆいた。たちまち背後にラッパのごとき大いなる声を聴いた。来たらんとする復活のあした嚠喨りゅうりょうと鳴り響くべき終わりのラッパを連想して、主の日にふさわしき声であった。振り反り見れば、七つの金の燈台があって、燦然さんぜんと光を四方に放っている。その間に人の子のごとき者が見える。七つの燈台は世の光たるべき全地の教会であった。人の子のごとき者は世の終わりまで教会と共にあるキリストであった。

かつてサウロがダマスコヘの途上に栄光のキリストを見た経験については、彼は単に「大いなる光、天よりでて我をめぐり照らせり」というている(行伝二二の六)。しかるに今ヨハネはキリスト全体の光よりもむしろその頭より足に至るまでの各部分の形象を語るに熱心である。けだしヨハネの場合においては主としてこの部分的形象によって、彼の人格と栄光とを伝うべく導かれたのであろう。ヨハネの描写は明らかに理想的である。「その口より両刃もろはつるぎいで」とあるを見ても、これを文字どおりに解釈すべきでない事は疑いをれない。現実は現実とせよ、理想は理想とせよ。写実を譬喩と解するの誤謬であるように、譬喩を写実と解するもまたひとしく誤謬である。我らはここにおけるヨハネの叙述そのままに、活けるキリストの容姿を思い浮かべようとしない。かくのごときは文学として拙劣であると共に信仰として不健全である。我らはその一々の形象によって表現せらるる霊的真理を学ぼうと思う。

第一は衣である、「足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね」とある。ゆたかにしてかつ貴き衣である。

我らがキリストをもとめるのは、ず彼の衣をもとめるのではないか。罪に眼ざめたる霊魂は、神のまえに立ち得んがために、義の衣をまとわずしてはいられない。このゆえにいかにもして自らそれを作り出そうと努力する。自覚のあるところ必ず修養のある所以ゆえんである。アダムとエバとが智慧の樹の実を食らいし後その裸体はだかなるを恥じ、無花果いちじくの葉をに綴りてまとうたのはすなわちこの心理を代表する。しかしながらアダムを始め全人類の今日までの経験が証明するように、修養は遂に失敗である、努力は無効である。誰が神の前に恥ずかしくないほどの道徳を実行し得たか。誰が自己の義をもって神の賞讃を要求し得るか。アダムのように手製の小さきを脱ぎ棄て、ほふられしものの皮衣を神より着せらるるまでは、我らの霊魂に平安は臨まない。

ゆたかにして貴きキリストの衣。それをもって彼は我らを蔽うてくれる。その中に我らは彼と結び付く。彼は頭として我らはその体として、同じ衣を共にまとう。しかる時に神は我らを自己の義によってあしらわず、彼と一体なるものとして、彼の完全なる義によってあしらいたもう。神はキリストの衣の中に我らを見出す事を最大の悦びとなしたもう。ああその衣の有り難さ!罪に悩む霊魂のみぞ知る。「ただ汝ら主イエス・キリストを着よ」(ロマ書一三の一四)。

第二は頭である。「そのかしら頭髪かみのけとは白き毛のごとく雪のごとく白く」。白さは潔さである、イザヤ書に「なんじらの罪はのごとくなるも雪のごとく白くなり、くれないのごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん」とあるがごとくである。絶対に罪なき潔さ、聖にして聖にして聖なるもの。

キリストの頭が何であるかは、彼の衣の問題に劣らず重要である。人格者の価値はそのかしらと仰ぐもののいかんによって定まる。キリスト者が罪なきもののごとく神にあしらわるるは、キリストをかしらと仰ぎて彼と一体になるからである。しかして「キリストのかしらは神なり」(前コリント一一の三)。ゆえに毛のごとく雪のごとくに白い。聖なる聖なる聖なる者をかしらと戴き彼と一体の関係にありて、キリスト自身がいと聖き者である。しかり、彼はすなわち神である。彼を見し者は神を見し者である。彼を信ずる者は神を信ずるものである。彼に結ばるるものは神に結ばるる者である。従ってまたキリストに頼らずして神に頼ることは出来ない。キリスト抜きの信仰はない。およそ我らと神との関係はすべて彼に集中する。キリスト、キリスト、信仰問題は一から十までキリストである。彼さえあればそれで沢山である。彼の無いところに何も無い。「ほかの者によりては救いをることなし、あめの下には我らの頼りて救わるべきほかの名を人に賜いし事なければなり」。

次には目である。「その目はほのおのごとく」。燃えて鋭く何ものをもとおさずばやまない目、「造られたる物に一つとして神の前に顕われぬはなし、万物は我らがかかわれる神の目のまえに裸にて露わるるなり」(へブル四の一三)。

すべての人の目に塵があり梁木うつばりがある時、かくのごとき目が実在するという事は、何たる慰めであろう。人生における最も苦き経験の一つは「誤解」である。これあるがためにいかばかり愛が傷つけられ、道徳的熱心が冷やされることぞ。もしどこかにすべてを見ぬく目がないとしたならば、この世はほとんど住むにえない世である。しかしさいわいにもその目がある、ありて微睡まどろみだにすることなく永遠に見はっている。「彼れ知りたもう」とこの一つの思いに言い尽くせぬ慰籍を経験する者はあに私のみであろうか。

同時にそれはまた我らの畏れでなくてはならぬ。「その目は人の子を、その眼瞼まぶたは彼らを試みたもう」。彼の前にいかなる秘密の思いをか包もう。我らは刻々に探られつつある、こころみられつつある。我らが隠れたる内的生活の一切の波瀾は確実に彼の眼底に印象を刻みつつある。畏ろしき事実である。人類の道徳観念の緊張は一にこの事実に負う。

次には足。「その足は炉にて焼きたる輝ける真鍮しんちゅうのごとく」。白熱の真鍮しんちゅうのごとく烈しくして力ある足である。

今は世が彼に向かってほしいままくびすを挙げている。神は馬鹿にせられ、道徳は嘲弄せられ、正義は踏み付けられている。しかして我らの怪しとするまでにキリストは応じたまわない。

しかしながら「刺ある鞭を蹴るは難い」。主は己に頼る者の足さえ動かさるるをゆるしたまわずば、まして彼自身の足をや。シオンの山の上にいと堅く彼は立ちたもう。もろもろの不虔と不義とがはびこりながら、なお正義の最後の勝利を暗示するもの多きはこれがためである。やがて彼の足は「オリブ山の上に立つ」であろう、しかして「オリブ山その真中ただなかより西にしひがしに裂ける」であろう(ゼカリヤ一四の四)。やがてその足が「全能の神のはげしき怒りの酒槽さかぶねむ」であろう(黙示録一九の一五)。またサタンの頭を砕くであろう。最終の敵なる死をも滅ぼすであろう。しかして遂に万物がその下に服するに至るであろう(前コリント一五の二七)。力強き聖足みあし!我らの望みはただそれにかかわる。

「その声は多くの水の声のごとし」。北風あらき冬の夜、試みに日本海の岸に立って、闇の中にたけぶ怒濤の声を聴け。理由なくして、深き物凄さが心を圧するを覚えるであろう。

キリストの声――神の声は今は静かにして細くある。今は彼は叫ばずして囁きたもう。しかし預言がある、曰く「我れ久しく声をいださず黙して己を抑えたり。今はわれ子を生まんとする婦人おんなのごとく叫ばん」(イザヤ四二の一四)。また「エホバ、シオンより呼びとどろかし、エルサレムより声を放ち、天地を震い動かしたもう」(ヨエル三の一六)。今は彼の審判の声を期待しながらこれを聴かない場合のみ多い。このゆえに嘲る者らいう、汝の神は何処にあるのか、彼は眠っているのかと。否、神は眠りたまわない。キリストはただ時満つるを待ちたもう。しかして今にても、時として彼は少しくその声を放ちたもうではないか。昨年(一九二三年)の我が国の経験をおもえ。九月一日正午三分前のあの声――まことに大水の声に似ておった――あれは何であったか。今にあの幾百層倍かの声を聞く時が来るであろう。「墓にある者みな神の声を聞きてづる時来たらん」。「それ主は号令と天使みつかいおさの声と神のラッパと共にみずから天よりくだりたまわん」とあるはその時である。

しかし多くの水の声はまた大調和の声である。「弾琴者ことひき竪琴たてごとく音のごとし」とある(黙示録一四の二)。さながら創造の初日のように、その声によりて暗黒から光明が、混乱から秩序が、死から生が生まれるであろう。ああその声。

「その右の手に七つの星を持ち」。七つの星は七つの教会の使いすなわちその代表者である。

聖足みあしは砕かんがため、聖手みては支えんがために強い。すべて真実に彼に信頼するものは、今も支えられ、永遠までも支えられる。我らは時として自分の罪のゆえに前途について暗き思いを抱く。あるいは祈っても力を得ない時に(実は大抵の場合に祈りが足らぬのである)、すでに棄てられたのではないかを疑う。「シオンはいえり、エホバ我を棄て主われを忘れたまえりと。おんなその乳児ちのみごを忘れておのはらの子をあわれまざることあらんや。たとえ彼ら忘るる事ありとも、我は汝を忘るることなし」。不安は不信である、しかして不信こそ最大の罪である。不安に襲われんとする毎に私は十字架を思うてまた安んずる。誠に主はその右の手に七つの星を持ちたもう。これを奪い得る者はない。

「その口より両刃もろはつるぎいで」。言うまでもなく彼のことばである。「神のことば生命いのちあり、能力ちからあり、両刃もろはつるぎよりもくして云々」(へブル四の一二)。キリストのことばすなわち神のことば、神のことばすなわち聖書。聖書の旧新約全体をキリストのことばと見てよい。

幾度いくたび感じ直してもなお足らぬは聖書の生命いのちである。その能力ちからである。それは死せる者を生かし、悲しむ者を慰め、高ぶる者を審く。すべてのみちが尽きた時にもなおここにのみは必ず奇しきみちが備えられている。救わるる者には生命いのちかおり、亡ぶる者には死のかおり。誠に両刃もろはつるぎである。

最後に「その顔ははげしく照る日のごとし」。人はその顔によって代表せられる。ある人の誰であるかをるには、必ずしも他の部分を見るに及ばない。顔を見れば足りる。そこにすべての特性の表現がある。キリストの顔ははげしく照る日であるというて、上に描かれし七つの形象を総括する。

日のある所に昼がある、キリストの顔のある所に祝福がある。彼が顔を挙げて照らしたもうところすなわち天国である、救いである。彼が顔をそむけたもうところすなわち地獄である、滅亡である。

日は彼を慕うものをはぐくみ、彼を軽んずるものを撃つ。キリストの顔もまたしかり。

「日は新郎はなむこが祝いの殿をづるごとく」に現われる。キリストの再臨もまた聖き新郎はなむこの出現でなくして何か。

美しき光、あたたかき光、しかしてまたはげしき光、かくのごとき者が今現に活きて天にありたもう。かくのごとき者がその聖業みわざまっとうせんがために再臨せんとするより当然なる事が何処にあろうか。