信仰は道義の問題であると共にまた愛の問題である。キリストはいわば我らの愛人である。彼を信ずるの生活は愛人を憶うの生活である。
キリストは再び来たるであろう。これを世界全体から見れば歴史の総勘定のためである。従ってその日は大いなる審判の日である。永遠の正義が如実に己れを顕現するの日である。「義の太陽出でて昇らん」という(マラキ四の二)。誠におごそかなる畏るべき日である。
しかしながらこれをキリスト者のみの立場から見るときに、さらに美わしき意味がある。愛人再び来たるの日である。再会の歓びの日である。審判ではない、抱擁である。義の太陽ではない、「輝く曙の明星」である(黙示録二二の一六)。「人を愛に励ます美しき遊星」である。待ちにし愛人である。その人を迎うるの朝である。
愛の歓喜は再会において極まる。その日に備えせんがために、愛する者は己の愛を守りこれを潔くする。愛の生活はある意味において再会の準備であると言うことが出来る。もし愛する者ら相別れて永遠に再会の望みがないならば、実際上、愛の生活は弛緩し疲弊することを免れ得ようか。
信仰生活は愛の生活である。再臨は愛人との再会である。しからば信仰生活もまたこれを再臨の準備として見ることが出来る。
再臨の準備としての信仰生活、愛人を迎えんがための聖潔、これ愛の使徒ヨハネの心を占めたる題目であった。彼がその書翰において「主の現われたもう時、我らこれに肖んことを知る、我らその真の状を見るべければなり。すべて主によるこの希望を懐く者は、その聖きがごとく己を潔くす」というた時に明白にこの真理を宣べた。しかして同じ事を別の言葉をもって表わしたものが黙示録の二章及び三章である。
黙示録の二、三章はアジア(小アジアの一部)の七教会に宛てられたるキリストの使信である。しかしその黙示録全体における地位から見て、特にこれらの教会をのみ目的とするものでない事は疑いがない。七教会は単に代表的の意味において選ばれたに過ぎない。目ざすは全地における総ての教会である。およそキリスト教が始まりて以来世の終わりに至るまでの一切のキリスト者に対して、再臨の備えさすべく送られたる使信である。
七教会はキリスト者の信仰生活の各種の状態を代表する。ゆえに送られたる使信の主旨もまた各々異なる。しかしこれを綜合して見て、我らは再臨のキリストを悦ばすべき生活のほぼいかなる性質のものであるかを知ることが出来る。
試みに各教会への使信中の重点を探り見よう。
エペソの教会へ、「されど我れ汝に責むべき所あり、汝は初めの愛を離れたり、されば汝いづこより堕ちしかを思え、悔い改めて初めの行為をなせ」――初めの愛の冷却。
スミルナの教会へ、「なんじ受けんとする苦難を懼るな、見よ、悪魔汝らを試みんとて、汝らの中のある者を獄に入れんとす、汝ら十日の間患難を受けん。なんじ死に至るまで忠実なれ」――苦難。
ペルガモの教会へ、「汝の中にバラムの教えを保つ者どもあり、バラムはバラクに教え、彼をしてイスラエルの前に躓きを置かしめ、偶像に献げし物を食らわせ、かつ淫行をなさしめたり、かくのごとく汝らの中にもニコライ宗の教えを保つ者あり、されば悔い改めよ」――偶像崇拝と淫行。
テアテラの教会へ、「汝はかの自ら預言者と称えて我が僕を教え惑わし、淫行を為さしめ、偶像に献げし物を食らわしむる女イゼベルを容れ置けり、我れ彼に悔い改むる機を与うれど、その淫行を悔い改むることを欲せず云々」――淫行と偶像崇拝。
サルデスの教会へ、「なんじ目を覚まし、ほとんど死なんとする残りのものを堅うせよ……されば汝のいかに受けしか、いかに聴きしかを思い出で、これを守りて悔い改めよ」――初めのものの喪失。
ヒラデルヒヤの教会へ、「汝少しの力ありて我が言を守り、我が名を否まざりき……汝わが忍耐の言を守りしゆえに云々、汝の有つものを守りて、汝の冠冕を人に奪われざれ」――忍耐。
ラオデキヤの教会へ、「汝は冷ややかにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷ややかならんか熱からんかを願う」――熱心の微温化。
すなわち知る、スミルナとヒラデルヒヤとには、苦難及び忍耐に対する賞讃奨励である。エペソとサルデスとラオデキヤとには、初めの愛または初めのものまたは初めの熱心の衰弱に対する叱責である。しかしてペルガモとテアテラとには、共に淫行及び偶像崇拝に対する誡告である。
初めの愛を守れ、淫行を斥けよ、苦難を耐え忍べ。七教会への使信を煮詰むればこの三つに帰着する。再臨の主を迎えんがためにすべてのキリスト者のなすべき備えはここにある。
信仰生活は愛の生活である。ゆえにキリスト者というキリスト者に初めの愛の経験がある。彼らは少なくとも一度はキリストを憶うこころをもって燃えたのである、一切をキリストに献げたのである、キリストのために死なんことをもって最大の願望となしたのである。その心はいじらしくも貴い。嬰児のごとくに純真である、処女のごとくに新鮮である、恋人のごとくに熱烈である。人として最も美しき経験である。誠に人は初めの愛において変貌する。キリスト者が最もキリストに似るは、来世栄化の夕を措いては、かえってその入信の曙においてある。その時彼らもまた暗黒の帷幄をかかげて、新郎が祝いの殿を出づるごとく、勇士が競い走るを喜ぶごとくに雄々しくも自己献供の首途にのぼる。その時サタンも誘うべき隙を見出さない。回心の経験は多くの場合において聖霊に満たさるるの経験である。キリストに対する初めの愛に燃えるとき、我らは全自己を彼に明け渡して、隅から隅まで彼の霊をもって満たされるのである。確かにその時我らは何一つ自己に留保せんことを願わない。キリスト我がために死にたまいたれば、我もまた彼のために生き彼のために死なんことをのみ願う。「海ゆかば水つく屍、山行かば草むす屍、主イエスの辺にこそ死なめ、顧みはせじ」とは、少なくとも一度び我らが衷心よりの祈りであったのである。
「されど我れ汝に責むべき所あり、汝は初めの愛を離れたり」。いかに悲しむべき使信であろう。かく責められて我らに一言の申し訳もない。ああ、我らは何故に初めの愛を離れたのか。何故にきのうもきょうも永遠までも変わらず熱くあることが出来ないのか。何故におぞましくも一度び献げしものを幾たびか復た取り戻そうとするのか。
初めの愛!我らをして再びそこに立ち帰らしめよ。そのために絶えず再会の日を思わしめよ。キリストは復た来たる。その日は近づきつつある。我らは遠からず眼のあたり彼に会おうとしている。復た会う日の望みは愛する者の心を躍らせるではないか。キリスト者の信仰を初めの愛に立ち帰らしむるものにして、キリスト再臨の希望のごときはない。彼れ戸の外に立ちて叩くと知って、我らいつまで微温的生活を続けようか。
聖き者に対する初めの愛冷えて、淫行は容易く我らに近づく。今の人は淫行を憂えず恥じない。彼らはそ れを神の国への途における躓きの石と認めない。ピウリタンと言えば、今はかえって嘲弄の名である。しかし彼らはかつてこの問題に関する聖書の言を調べて見たことがあるのか。「汝ら知らぬか、正しからぬ者の神の国を嗣ぐことなきを。自ら欺くな、淫行のもの……などはみな神の国を嗣ぐことなきなり」(前コリント六の九、一〇)。「それ肉の行為はあらわなり、すなわち淫行……などのごとし。我れすでに警めたるごとく、今また警む、かかることを行う者は神の国を嗣ぐことなし」(ガラテヤ五の一九~二一)。「すべて淫行のもの……等のキリストと神との国の世嗣たることを得ざるは、汝らの確く知る所なり。汝ら人の虚しき言に欺かるな、神の怒りはこれらの事によりて不従順の子らに及ぶなり」(エペソ五の五、六)。「それ神の聖旨は汝らが潔からんことにして、すなわち淫行をつつしみ……せんことなり。すべてこれらのことを行う者に主の報復したもうは、わがすでに汝らに告げかつ証せしごとし」(前テサロニケ四の三~六)。「自ら潔からんことを求めよ。もし潔からずば主を見ることあたわず。汝ら慎め、恐らくは神の恩恵に至らぬ者あらん。……恐らくは淫行のもの起こらん」(へブル一二の一四~一六)。「神は淫行のもの姦淫の者を審きたもうべければなり」(へブル一三の四)。そのほか同じような言葉は沢山にある。およそこれらの言葉に極めて重大なる響きがあることに気付かないか。聖書が神の国を嗣ぐあたわざる者の目録を挙げる毎に、先ず第一に名指すものは何であるかに注意せよ。聖書は戯れにかくは言わない。
けだし淫行は貞操の喪失である。しかして信仰問題は畢竟神に対する貞操の問題に外ならないことを知らば、聖書が何故に爾かく淫行を憎悪しこれを排斥してやまないかの理由を容易に了解することが出来る。聖書には聖き霊に対して淫行の霊なるものをさえ指摘せられている。「彼ら淫行の霊に迷わされ、その神の下を離れて淫行を為すなり」、「そは淫行の霊その衷にありてエホバを知ることなければなり」(ホセア四の一二、五の四)。淫行の霊は実にサタンの霊である。キリスト者の堕落も数ある中に、淫行にまさりてキリストを歎かしむるものはないはずである。現代のキリスト者は何故にこの問題を今少しく真面目に考えて見ないのであるか。
淫行の排斥とともに、聖書がキリスト者に勧めてやまないものは、主のための苦難の生涯である。この二つを高調する声は横糸縦糸として旧新約を貫通する。しかして二つは別の事ではない。「身は淫行をなさんためにあらず、主のためなり」(前コリント六の一三)。主のためはすなわち主の苦難の欠けたるを補わんがためである(コロサイ一の二四)。誰か享楽の途に主の足跡を踏み得ようか。誰か十字架を負わずしてキリストに従い往くことが出来ようか。ヘブライズムとヘレニズムとの調和を夢みる若き人々よ、天国とこの世とを混同してはいけない。涙ことごとく拭わるるは新しきエルサレムに入りての事である。ここには永遠の都がない。ここにては我らキリストの恥を負い、陣営より出でて彼のみもとに往かねばならぬ。余りに明白なる事実である。途は二つに一つである、苦難か享楽か、ダンテかゲーテか、モーセかパロか。我らをして再臨の日を憶いつつそのいずれかを決定的に択ばしめよ。