六 金冠を投げて

藤井武

再臨の準備について七教会に送るべき使信の啓示を受けたる後、ヨハネは一つの光輝ある実験をもった。すなわち天に開けたる門あるを彼は見た。「ここに登れ、我れこののち起こるべき事を汝に示さん」との声を聴いた。たちまち聖霊に感じてその高き天に彼は携え上げられた。しかしてそこにいともさいわいなる光景を彼は見た。それは実に「こののち起こるべき事」、すなわちキリストの再臨によって起こるべき事の幻影であった。

見よ、天に聖座みくらが設けられてある。その上に坐する者がある。

坐する者の状態は?それは余りに荘厳にして、とても説明にえない。たとえんに何ものをもってしようか。あるいはき徹りて爛々ときらめく碧玉へきぎょく、燃え立ちて赫々かくかくかがやく赤瑞瑠めのうか。たぐいなき気高さまたはげしさ。もしその聖座みくら周囲まわりを取り巻くところの柔かき光、緑玉の虹がなかったならば、何人がここに目くらまざるを得よう。

碧玉へきぎょく、赤瑪瑙めのう、しかしてくまどるは緑玉の虹、真に貴さの限り美わしさの極みである。しかして神とは実際こんな者ではないか。聖にして聖にして聖なる者、犯すべからず近づきがたき者、その聖手みてに陥るよりも怖ろしきはなき者、義の義なる者、しかし限りなき恩恵をもって罪人の頭首をも永遠にいつくしみたもう者、その聖顔みかおをあおぐにまさりて喜ばしきはなき者、誠に愛の愛なる者。すべてイエスを通して神を見たる経験ある者は、このヨハネの簡潔きわまる叙述の中に、言いがたき味わいを見出さずにはやまない。

聖座みくらのまわりにはまた二十四の座位くらいがある。その上に坐する二十四人の長老がある。

長老とは誰か。見よその衣を、また冠を。白衣に金冠!罪の痕跡をも留めぬ純白の衣に、まっとうせられし聖潔の表示があり、十字架ならぬ輝く冠に、勝利の栄光の象徴がある。望ましいかな、彼らはすでにまったき救いにあずかりてキリストに似たる者となったのである。彼らはすでにさいわいなる復活の経験を経て永遠の栄光に入ったのである。

彼らは世の始めより終わりまでにおけるすべての聖徒の代表者である。へブル書記者が「信仰によりて」と頭韻を踏んで列挙したところの旧約の戦士たち、その他一々語らば時足らざるべき預言者、使徒、ならびにキリスト者の全体である。彼らはみなかつて地上にありて信仰によりて歩んだ。信仰により十字架を負うて歩んだ。その時彼らはみないまだ約束のものを受けなかったが、遥かにこれを見て迎えた。そして地にては自ら旅人またやどれる者として寂しく過ごした。彼らもしそのでし処をおもわば帰るべきおりはあったのである。しかし彼らの慕う所は天にあるさらに勝る処であった。それを望みながら、彼らの多くは一たび死んだ。死んでなお待ちつづけた。

今こそ時は来たのである。終わりのラッパすでに鳴り、キリストすでに天よりくだりて、すべて彼らをして甦らしめ、朽ちざる身体を着せしめ、しかして一先ず聖座みくらのある天にまで伴い去ったのである。二十四人の長老によって代表せらるるものはすなわち復活直後の聖徒の集団である。あしたはらよりでし露よりも潔き、いとさいわいなる集団である。彼らのかおには復活の子ならでは知りがたき歓びが漂うている。人生の福祉さいわいをうたいし詩人が「罪びとは義しき者の集いに立つことを得ざるなり」というたのは、主としてこの日の集いを指すのであろう(詩一の五)。

また聖座みくらの正面とその周囲とに四つの生物いきものがある。第一は獅子のごとく、第二は牛のごとく、第三はかおのかたち人のごとく、第四は飛ぶ鷲に似ている。各々六つの翼を備え、また前にも後にも翼の内にも外にも数々の目をもって満たされている。

この怪しき生物いきものは何か。かつてはイザヤもエゼキエルも、後にはダンテも同じようなものを見た。イザヤはこれをセラピムと呼び、エゼキエルはケルビムと呼ぶ。それは単に幻影の中に現わるる非実在的なる象徴ではあるまい。何となれば人が始めて楽園をわれた時に神はケルビムを置いて生命の樹のみちを守りたもうたとあるからである。ツロの王にサタンの姿を認めし時、預言者は彼をケルビムと呼んでいる(エゼキエル二八の一四)。ケルビムまたはセラピムなる生物いきものは恐らく天使の一階級であろう。ただし彼らは特別にあるものを代表するのであろう。あるいは獣類の王なる獅子として、あるいは家畜の王なる牛として、あるいは被造物の王なる人として、あるいは禽類の王なる鷲として、一切の被造物を代表するのであろう。その多くの翼と目とはすべての被造物に生命のち満つることを暗示するのであろう。四つの生物いきものはすなわち神のまえに生ける天然である。天然は実際生きている。天然を愛する者はみなその事を知る。

この四つの生物いきもの、昼も夜も絶え間なく言う、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔いまし今いまし後来たりたもう主たる全能の神」と。天然はこぞりて偉大なる讃美歌を合唱している。すべての被造物がひたすらに神をたたえている。彼らの久しかりし歎きと苦しみとはことごとく癒されたのである。彼らはすでに滅亡ほろびの僕たる状態より解かれて神の子たちの光栄に参与したのである。荒野と潤いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランのごとくに咲き輝きつつあるのである。山と岡とは声を放ちてみまえに歌い、野にある樹はみな手をうちつつあるのである。

四つの生物いきものがかく歌いつつある時に、見よ、二十四人の長老もまた聖座みくらに坐したもう者のまえに伏して彼を拝し、おのが冠を一斉に聖座みくらのまえに投げ出して言う、「我らの主なる神よ、栄光と尊崇とうとき能力ちからとを受けたもうはうべなり、汝は万物ばんもつを造りたまい、万物ばんもつ聖意みこころによりて存しかつ造られたり」と。

復興の天然にさえ感謝がある時、復活の聖徒に讃美なくして可なろうか。「天然と教会とは常に讃美を共にせねばならぬ。前者がその歌を始める時は後者がその膝を聖座みくらのまえに折るべき合図である」(H・B・スイート)。しかして聖徒には聖徒にふさわしき表現の方法がある。彼らはその頭に戴くところの黄金の冠を脱いで、これを聖座みくらのまえに投げ出す。神よりせられし冠である、地上における勝利の生涯の報償として、苦難に代わるとこしえの栄光の象徴として、神よりせられし冠である。それをさえ献げ物として再び聖座みくらのまえに投げ出さずば彼らはやまないのである。神は罪をさえ恩恵の手段に化したまえば、聖徒はまた恩恵をさえ讃美の手段に化する。恩恵また讃美、報償また献供、光栄また奉仕、かくて永遠の生活は限りなく進みゆく。

聖座みくらのまえに天然と人との共同なる讃美。まことにさいわいなる光景である。造られしものはすべてこの日のために造られたのではないか。創造の目的、人生の至上善は、神の讃美にあるのではないか。人も天然も讃美の状態に在る時に最も人らしくあり天然らしくあるのではないか。しかして我らの小さき実験はその事を証明する。私が何時よりも生き生きして居るは、私のうちに讃美の心が湧いている時である。神のかぎりなき恩恵をおもい、その偉大なる聖業みわざをおもい、彼自身のいと高き栄光をおもうて、言いがたく厳粛なる歓喜に満たされる時、その時人生は私にとって厳かなるものとなり、生くることその事が大いなる特権と感ぜられ、私のうちにあるすべての能力が春雨にうるおう若草のごとく伸びんとするを経験する。その時梢にさえずる小鳥も、空を流れゆく灰色雲も、みな祝福にかがやくがごとく、万物が私と共に歓喜の交響楽を奏するかと思う。これは確かに来たるべきさいわいなる日の序曲である。