七 審判まさに始まらんとす

藤井武

場所は天である。たぶんそれは諸々の天の上なる天、もろもろの宇宙の中心たる所であろう。地球はもちろん、太陽系の世界からも、または数知れぬ恒星の宏大なる宇宙からさえも、なお限りなく離れた、いと高き天。いにしえの詩人たちが有形的物質的の天から区別して、清火の天と呼んだ、夢のような国。見わたすかぎり爛々と光はみなぎって。

そこにまた際立って蒼穹おおぞらのような輝きをはなつものが見える。聖座みくらである。

聖座みくらのうえに坐したもう者がある。その坐したもう者の姿態すがたは見るべくもない。みとめるはただ宝玉のようなきらめき。たとえばき徹る碧玉へきぎょくか、もしくは真紅の赤瑪瑙めのうか、塵ほどの不純をもゆるさぬ澄明さ、一切の邪悪を焼き尽くす熾烈しれつさ。人にはとてもえがたい。けれどもまた聖座みくらをめぐってまどかにかかる緑玉のような虹!うちなる閃光をやわらげて、何というなごやかさであろう。さながら「エホバ、エホバ、憐憫あわれみあり恩恵めぐみあり、怒ることの遅く、恩恵めぐみ真実まことの大いなる神」という神みずからの宣言を聴くかのように。

また聖座みくらは単独にあるのでない。そのまわりに、より小さく、より低き幾つかの座位くらいがこれを取り巻いている。数えてみれば二十有四。いずれもその上に坐する者がある。身には白き衣をまとい、頭には金の冠を戴いて。すべて二十四人の長老、すなわち総代である。旧約の十二(十二支族)と新約の十二(十二使徒)とをあわせたる数の総代たち。かれらは旧新両約の聖徒たちを代表する。すべて神にける者、すべてキリストを信ずる者の代表者が、今は白衣と金冠とを着けて、聖座みくらのまわりにおのおの王座にいているのである。彼らはすでにまっとうせられ、すでに栄光をせられたのである。けだし終わりのラッパはすでに鳴ったのであろう。墓にある聖徒たちは、一斉に目さめた。かれらはみなまたたくまに化した。朽つる者は朽ちぬものを着、死ぬる者は死なぬものを着た。そうしてひとしくハレルヤを唱えつつ、天に携え挙げられ、かくて一先ず神のみまえに参集した。二十四人の長老の現在はこの大いなる事実を表示する。

聖座みくらは静止しているのでない。見てあれば、そこから数多あまたの電光が燦々さんさんときらめく、叱陀するような力づよい声がひびく、また轟々と雷霆いかづちがとどろく。つづくは嵐か大水か。その昔シナイ山の麓にイスラエルの民を戦慄させたという物凄さもこれにはかなうまい。何らか恐ろしきものが迫っていることの予感にうたれる。

また聖座みくらの前には火がある。七つの矩火たいまつが高く燃えて、あたかも戦車のようにこれを装うている(ナホム二の三、四参照)。この矩火たいまつは神の七つの霊である。すなわち聖霊の様々の働きである。聖霊は七つの燈火または矩火たいまつとして、照らし慰めもすれば、焼き亡ぼしもする。この場合にはことに「さばきするみたま、焼きつくすみたま」として、聖座みくらに坐したもう者のみこころを行おうと準備している(イザヤ四の四)。

動いてやまぬ電光、音声、雷霆いかづち、ゆらめきさわぐ七つの矩火たいまつ。これら安からぬ観物と著しき対照をなして、見よ、聖座みくらのまえに遥かにくは一面の玻璃はりの海。堅きは「鋳たる鏡のごとく」(ヨブ三七の一八)、しかもき徹りて言いがたき美しさに輝くこと水晶にも似て。荘大なる安けさ、静けさよ。まさに審判さばかんとしたもう者の聖足みあしはかかる所に立つのである。

みものはしかしそれだけでない。聖座みくらの中央すなわちその正面と、その周囲まわりすなわち左右ならびに背後とに、なお四つのものがある。「活物いきもの」である。前もうしろも数々の目で満ちている。ただし形はそれぞれに相異なる。第一の活物いきものは獅子のようであり、第二の活物いきものは牛のよう、第三の活物いきものは顔のかたちが人のようであり、第四の活物いきものは飛ぶ鷲のようである。この四つの活物いきものはおのおの六つの翼をもち、その翼の内も外もまた数々の目で満ちている。疑いもなくそれは何か象徴的の存在でなくてはならぬ、あたかも二十四人の長老がすべての聖徒たちの代表者であったように。しからば四つの活物いきものは何を象徴するのか。その数は当然、地を思わせる(四は四方、四季、四元素などにちなみて地の数である)。そうして人といえば地上の被造物のかしらであり、獅子は獣の、牛は家畜の、また鷲は鳥のかしらであることを思えば、謎は必ずしも解くに難くない。恐らくこれら四つの活物いきものは地上にあるすべての被造物、すなわちいわゆる「自然」の象徴であろう。全聖徒がかの二十四人の長老に代表せられて、きよき聖座みくらを取り巻いているように、大自然もまたこの四つの活物いきものに代表せられて、同じように栄光の聖座みくらを取り巻いている。そうして彼らが前も後も、またその翼の内も外も、数々の目で満ちているのは神のまえにおける自然の断えざる警醒を示すのであろう。またおのおの六つの翼をもっているのは、多分イザヤが見たセラピムのように、二つをもってかおをおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけるためであって、つまり自然の敬虔と謙遜と従順とを表すのであろう。その数々の目といい六つの翼というは、二十四長老の白衣または金冠のように、必ずしも栄光の姿ではない。ゆえに造られたるものはいまだまっとうせられたのではないと見える。しかしながらとにかく自然は神の子たちとともに神の聖前みまえにありて、偉大なる讃美を共にしようとするのである。

讃美はまず自然から始まる。けだし創造者としての神の讃美が救贖きゅうしょく者または審判者としての神の讃美に先だつからである。すなわちすべての造られたるものを代表して、四つの活物いきものは昼も夜も絶え間なく言う、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主たる全能の神、
昔いまし、今いまし、後きたりたもう者!

自然の断えざる警醒は神の讃美に集中するのである。造られたるものの昼夜をこめての活動はただ聖名みなあがめんがためである。天地の主にしてこれを創造したまいし全能の神、過去と現在と未来とにわたりて永遠より永遠まで世界を支配したもう摂理の神、その聖名みなは限りなく聖なるかなとかれらは歌う。「造られぬ者に対する造られたるものの讃美。」

四つの活物いきものがこのように、聖座みくらに坐して世々限りなくきたもう者に栄光と尊崇とうときとを帰しかつ感謝するとき、あたかも約束したかのように、二十四人の長老もまたその座位くらいからちあがり、聖座みくらに坐したもう者のまえにひれ伏して、この世々限りなくきたもう者を拝し、かつ自分たちの冠を聖座みくらのまえに投げ出して言うのである、

うべなるかな、我らの主なる神よ、なんじ栄光と尊崇とうとき能力ちからとを受けたもうは。
そは汝は万物ばんもつを造りたまえばなり、また汝の聖意みこころによりてかれらは存しかつ造られたればなり。

うるわしきよ、自然と聖徒との合唱。活物いきものらが翼をもってかおをも足をもおおいながら飛びかけりつつ叫べば、長老らは金冠をとりて神の聖足みあしのもとに投げいだしつつ歌う(彼らの勝利も栄光も一切神のものに他ならぬことの表明として)。造られたるものの造られぬ者に対する感謝に和して、神の子たちもまた彼の創造を讃美する。その意にいわく、神は万物の創造者、従って万物の本質的存在もその歴史的発生もみな神の聖意みこころによらぬはない、かかる神に栄光と尊崇とうとき能力ちからとを帰するはいかにふさわしいかなと。かくて声なき自然の讃美と高らかなる聖徒の謳歌とは、ひとしくせまりて創造者の永遠の聖座みくらをゆるがす。