場所は天である。たぶんそれは諸々の天の上なる天、もろもろの宇宙の中心たる所であろう。地球はもちろん、太陽系の世界からも、または数知れぬ恒星の宏大なる宇宙からさえも、なお限りなく離れた、いと高き天。古の詩人たちが有形的物質的の天から区別して、清火の天と呼んだ、夢のような国。見わたすかぎり爛々と光はみなぎって。
そこにまた際立って蒼穹のような輝きをはなつものが見える。聖座である。
聖座のうえに坐したもう者がある。その坐したもう者の姿態は見るべくもない。みとめるはただ宝玉のようなきらめき。たとえば透き徹る碧玉か、もしくは真紅の赤瑪瑙か、塵ほどの不純をも容さぬ澄明さ、一切の邪悪を焼き尽くす熾烈さ。人にはとても堪えがたい。けれどもまた聖座をめぐってまどかにかかる緑玉のような虹!中なる閃光をやわらげて、何という和やかさであろう。さながら「エホバ、エホバ、憐憫あり恩恵あり、怒ることの遅く、恩恵と真実の大いなる神」という神みずからの宣言を聴くかのように。
また聖座は単独にあるのでない。そのまわりに、より小さく、より低き幾つかの座位がこれを取り巻いている。数えてみれば二十有四。いずれもその上に坐する者がある。身には白き衣を纏い、頭には金の冠を戴いて。すべて二十四人の長老、すなわち総代である。旧約の十二(十二支族)と新約の十二(十二使徒)とをあわせたる数の総代たち。かれらは旧新両約の聖徒たちを代表する。すべて神に属ける者、すべてキリストを信ずる者の代表者が、今は白衣と金冠とを着けて、聖座のまわりにおのおの王座に即いているのである。彼らはすでに完うせられ、すでに栄光を被せられたのである。けだし終わりのラッパはすでに鳴ったのであろう。墓にある聖徒たちは、一斉に目さめた。かれらはみな瞬くまに化した。朽つる者は朽ちぬものを着、死ぬる者は死なぬものを着た。そうして斉しくハレルヤを唱えつつ、天に携え挙げられ、かくて一先ず神のみまえに参集した。二十四人の長老の現在はこの大いなる事実を表示する。
聖座は静止しているのでない。見てあれば、そこから数多の電光が燦々ときらめく、叱陀するような力づよい声がひびく、また轟々と雷霆がとどろく。つづくは嵐か大水か。その昔シナイ山の麓にイスラエルの民を戦慄させたという物凄さもこれには敵うまい。何らか恐ろしきものが迫っていることの予感にうたれる。
また聖座の前には火がある。七つの矩火が高く燃えて、あたかも戦車のようにこれを装うている(ナホム二の三、四参照)。この矩火は神の七つの霊である。すなわち聖霊の様々の働きである。聖霊は七つの燈火または矩火として、照らし慰めもすれば、焼き亡ぼしもする。この場合には殊に「さばきする霊、焼きつくすみたま」として、聖座に坐したもう者のみこころを行おうと準備している(イザヤ四の四)。
動いてやまぬ電光、音声、雷霆、ゆらめきさわぐ七つの矩火。これら安からぬ観物と著しき対照をなして、見よ、聖座のまえに遥かに布くは一面の玻璃の海。堅きは「鋳たる鏡のごとく」(ヨブ三七の一八)、しかも透き徹りて言いがたき美しさに輝くこと水晶にも似て。荘大なる安けさ、静けさよ。まさに審判かんとしたもう者の聖足はかかる所に立つのである。
みものはしかしそれだけでない。聖座の中央すなわちその正面と、その周囲すなわち左右ならびに背後とに、なお四つのものがある。「活物」である。前も後も数々の目で満ちている。ただし形はそれぞれに相異なる。第一の活物は獅子のようであり、第二の活物は牛のよう、第三の活物は顔のかたちが人のようであり、第四の活物は飛ぶ鷲のようである。この四つの活物はおのおの六つの翼をもち、その翼の内も外もまた数々の目で満ちている。疑いもなくそれは何か象徴的の存在でなくてはならぬ、あたかも二十四人の長老がすべての聖徒たちの代表者であったように。しからば四つの活物は何を象徴するのか。その数は当然、地を思わせる(四は四方、四季、四元素などに因みて地の数である)。そうして人といえば地上の被造物の首であり、獅子は獣の、牛は家畜の、また鷲は鳥の首であることを思えば、謎は必ずしも解くに難くない。恐らくこれら四つの活物は地上にあるすべての被造物、すなわちいわゆる「自然」の象徴であろう。全聖徒がかの二十四人の長老に代表せられて、きよき聖座を取り巻いているように、大自然もまたこの四つの活物に代表せられて、同じように栄光の聖座を取り巻いている。そうして彼らが前も後も、またその翼の内も外も、数々の目で満ちているのは神のまえにおける自然の断えざる警醒を示すのであろう。またおのおの六つの翼をもっているのは、多分イザヤが見たセラピムのように、二つをもって面をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛び翔るためであって、つまり自然の敬虔と謙遜と従順とを表すのであろう。その数々の目といい六つの翼というは、二十四長老の白衣または金冠のように、必ずしも栄光の姿ではない。ゆえに造られたるものはいまだ完うせられたのではないと見える。しかしながらとにかく自然は神の子たちとともに神の聖前にありて、偉大なる讃美を共にしようとするのである。
讃美はまず自然から始まる。けだし創造者としての神の讃美が救贖者または審判者としての神の讃美に先だつからである。すなわちすべての造られたるものを代表して、四つの活物は昼も夜も絶え間なく言う、
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主たる全能の神、
昔いまし、今いまし、後きたりたもう者!
自然の断えざる警醒は神の讃美に集中するのである。造られたるものの昼夜をこめての活動はただ聖名を崇めんがためである。天地の主にしてこれを創造したまいし全能の神、過去と現在と未来とにわたりて永遠より永遠まで世界を支配したもう摂理の神、その聖名は限りなく聖なるかなとかれらは歌う。「造られぬ者に対する造られたるものの讃美。」
四つの活物がこのように、聖座に坐して世々限りなく活きたもう者に栄光と尊崇とを帰しかつ感謝するとき、あたかも約束したかのように、二十四人の長老もまたその座位から起ちあがり、聖座に坐したもう者のまえにひれ伏して、この世々限りなく活きたもう者を拝し、かつ自分たちの冠を聖座のまえに投げ出して言うのである、
宜なるかな、我らの主なる神よ、なんじ栄光と尊崇と能力とを受けたもうは。
そは汝は万物を造りたまえばなり、また汝の聖意によりてかれらは存しかつ造られたればなり。
うるわしきよ、自然と聖徒との合唱。活物らが翼をもって面をも足をもおおいながら飛び翔りつつ叫べば、長老らは金冠をとりて神の聖足のもとに投げいだしつつ歌う(彼らの勝利も栄光も一切神のものに他ならぬことの表明として)。造られたるものの造られぬ者に対する感謝に和して、神の子たちもまた彼の創造を讃美する。その意にいわく、神は万物の創造者、従って万物の本質的存在もその歴史的発生もみな神の聖意によらぬはない、かかる神に栄光と尊崇と能力とを帰するはいかに適わしいかなと。かくて声なき自然の讃美と高らかなる聖徒の謳歌とは、ひとしくせまりて創造者の永遠の聖座をゆるがす。