羔はすでに巻物を受け取った。彼は今よりその封印を解き破ろうとする。久しく失われたる人類の所有は今より現実に回復しようとする。贖いは完全に成就しようとする。重大なる時である。パウロが「次には終わりきたらん、その時キリストは諸の権能・権威・権力を亡ぼして云々」と預言したその時である(前コリント一五の二四)。イエス自ら「これらの事起こり始めなば、仰ぎて首を挙げよ、汝らの贖い近づけるなり」と言うたその時である。封印の解破すなわち救贖の完成である。
七つの封印を羔は逐次に解き破りゆく。その第一より第四までは、これを解く毎に、四つの生物の一つ一つが交々雷霆のごとき声して「来たれ」と叫ぶを聞く。しかしてこの叫びに応じて、各々異なる使命を帯びたる四騎士を乗せし四頭の馬が出でゆくを見る。第五以下の封印にかくのごとき事はない。ゆえに四つの封印はそれだけにて一つの群を成すことを知る。
「来たれ」と生物が叫ぶは何の意味か。恐らくそれは贖いの完成を希う被造物の声であろう。四つの生物は一切の被造物の理想でありその代表者である。理想であるがゆえに彼らはすでに栄光の姿に化せられしごとくに聖座をめぐりて日も夜も讃美を続ける。しかし彼らによりて代表せらるる現実の天然そのものはこの時いまだ贖われていない。先に羔が巻物を受け取った時に、現実の天然すなわち「天に地に地の下に海にあるすべての造られたる物またすべてその中にある物」が下界より讃美を献げ、その代表者たる四つの生物が天界より「アーメン」をもってこれに応えたのはその事を暗示する。ここにては四つの生物みずから現実の天然に代わりて口を開くのである。すべての天然は聖徒と同じように聖国の来たらんことを待ち望んでいる。しかして封印いよいよ解き破られんとする時、贖いまさに近づく時、天然のこの叫びは最も鮮やかに聞こえるであろう。
声に応じて出で来たるもの、見よ、第一には白き馬、騎士は弓を手ばさみ冠冕を戴き、勝ちて復た勝たんとの勢いを見せて。第二には赤き馬、騎士は大いなる剣を帯び、地より平和を奪う事と人をして互いに殺さしむる事とを許されて。第三には黒き馬、騎士の手に持つは権衡、しかして四つの生物の間より「小麦五合は一デナリ、大麦一升五合は一デナリなり云々」との声聞こえて。第四には青ざめたる馬、騎士の名は死、陰府これに随い、地の四分の一を支配して剣と飢饉と死と地の獣とにより人を殺す事を許されて。
馬の色と、騎士の持つものまたはこれに随うものと、その使命とはよく調和する。白は義の色、弓と冠冕とは征服と勝利とを示す。かくて第一のものは永遠の勝利の象徴である。赤は血また火の色、剣は説明をまたない。第二のものは疑いもなく戦争の象徴である。黒は欠乏の色、権衡を持ちて小麦大麦を計るは食糧の欠乏を示す。すなわち第三のものは飢饉である。青ざめたるは血の気なき死の色、陰府は死の国。かくて第四はいうまでもなく死である。
戦争と飢饉と死と、しかしてそれらすべてのものの根底に義の永遠の勝利。贖いの完成はかくのごとくにして始まるのであるという。果たしてしからばこの世は多くの人の想像するように文明の進歩によって漸次に改善せられないであろう。軍備制限の国際会議を幾度び重ぬるとも、戦争は遂に止まないであろう。否、かえって最大の戦争は最後に来たらんとするであろう。飢饉も死もまたその通りであろう。世界は人の努力によりて理想国と化さない。神を信ぜず神に委ねざる努力はすべて失敗に終わる。
戦争は止まない、飢饉は絶えない、死は滅びない。「民は民に、国は国に逆らいて起たん、また処々に飢饉と地震とあらん、これらはみな産みの苦しみの始めなり。その時人々汝らを患難に付し、また殺さん」(マタイ二四の七~九)。しかしながら失望するには及ばない。それらの根底に義の永遠の勝利がある。白馬に跨り、冠冕を被りて弓を持つものは、勝ちて復た勝たんとてゆく。キリストは遂に必ず世界を征服する。戦争と飢饉と死との蔭に、すべての暗黒と罪悪と災禍との蔭に、人の気付かざる所に、永遠の勝利者の聖旨は確実に成りつつある。世の終わりに至りて、彼の能力は最も顕著に現われるであろう。実に人生を支配する第一原理は義の最後の勝利である。福いなる事実である。
第五及び第六の封印の解かれた時に、ヨハネは全く異なる二つの光景を見た。前者には一つの聖なる祭壇があった。祭壇の下には多くの潔き霊魂があった。彼らはみな大声に呼ばわって言うた、「聖にして真なる主よ、何時まで審かずして、地に住む者に我らの血の復讐をなしたまわぬか」と。すなわち彼らは殉教者である、神の言のためまたその立てし忠実なる証のために生命を棄てし殉教者である。彼らの声は悲壮であった。しかし言いがたき平安の基調が伴うて居った。彼らは各々雪のごとき白衣を与えられ、かつ彼らと均しく殺されんとする兄弟らの数の満つるまでなお暫く安んじて待つべきを言い聞かせられた。
後者には大いなる地震があった。日は荒き毛布のように黒く、月は全面血の色を呈し、天の星はさながら無花果の樹が大風に揺られてその生後の果の落ちるように地に落ち、天そのものは巻物を捲くように去り行き、山と島とはことごとくその処を移された。しかしてかかる恐ろしき震災の中に、国王、大臣、将校、富豪、勇士、奴隷、自主の人ら、みな洞と山の巌間とに匿れ、山と巌とに向かいて叫んで言うた、「請う、我らの上に墜ちて聖座に坐したもう者の顔より、羔の怒りより、我らを隠せ。そは聖怒りの大いなる日すでに来たればなり。誰か立つことを得ん」と。何たる意味ふかき対照ぞ。祭壇と地震、殉教者と不信者、白衣と黒日、祈祷と悲鳴、平安と狂乱、待望と絶望、私はここに人生の帰趣を見る。この世の生涯は遂にこの二者のいずれかに帰着せざるを得ないのである。義のため真理のための殉教にあらずんばすなわち恥ずべき絶望の死である。苦痛はいずれにもある。しかしその性質は天と地との差である。すべての高貴なる生涯に殉教の苦痛がある。これを欲しないものは審判の日の狂乱の苦痛を免れない。地震か祭壇か。第六封印か第五封印か。人生にこの二つの途がある。