第六封印は解かれて、神の怒りの大いなる日はすでに来た。やがて恐るべき審判の第七封印が開かれようとする。その間にヨハネはまた別に二つの挿話的幻影を見た。七章一節ならびに九節に「この後我れ見しに」とあるはすなわち新しき幻影の開始を示す(黙示録四の一、一五の五、一八の一参照)。
第一は地上において印せらるる神の僕らである。ヨハネ見るに地には何か容易ならぬ変動の起こらんとするごとき予感があった。四人の天使が地の東西南北の四隅に立って居った。彼らは地の四方より大風を送りて地をも海をも諸の樹をも害わんと身構えつつ、なお暫しこれを引き止めて吹かせざるもののごとくあった。ここにまた日の出づる方より他の一人の天使が何ものかを携えながら登り来たるを見た。その携えるものは神の名を刻める印であった。彼は中空たかく翔り上りしのち四方を睥睨し、四人の天使にむかい大声に呼ばわって言うた、「われらが我らの神の僕の額に印するまでは、地をも海をも樹をも害うな」と。かくて四人の天使が差し控えつつある間に、その嵐の前の物凄き静寂の裡に、かの一人の天使は全地を翔り巡りて、すべての神の僕の額に神の名を印した。ヨハネその印せられたる者の数を聴けば、総計十四万四千であるという。すなわちイスラエルの各族中一万二千づつ十二族である。
これら印せられたる十四万四千人は何者であるか。終末時代に地上に生存せる信者たちであろう。「イスラエルの子ら」とあるも、これを文字通りにユダヤ人と解すべきでない。イスラエルといいエルサレムといいシオンの山といい、黙示録においてはすべて霊的の意味に用いられる。その他聖所、幕屋、祭壇などいうも皆同様である。すべての信者はイスラエルの子らである(ロマ九の六、ガラテヤ六の一六)。従って彼らはある意味において十二族のいずれかに属する。ユダ(神の讃美)か、ルベン(子を見る)か、ガド(集団)か、アセル(恵まれし者)か、ナフタリ(角力者)か、マナセ(忘却)か、シメオン(聴従)か、レビ(依附)か、イサカル(報償)か、ゼブルン(住所)か、ヨセフ(附加)か、はたベニヤミン(右の手の子)か。これら諸族に属するもの各々一万二千、すなわち完全の数十二を天の数なる千にて倍したる象徴的数字である。その時地上にありて神に忠実なる総ての男女を表示する。
かくのごとく歴史的には彼らは終末時代の信者である。しかしこの幻影によって教えらるる真理の適用は彼らに限らない。それは原理において何時の代たるを問わず一切の信者に当てはまる。
神はすべて己に属く者を知りたもう、そのいと小さき一人に至るまでことごとくこれを見知りたもう、しかして彼らの数の満つるまで、審判の天使の活動を許したまわない。神の子の最後の一人の額に印せられ終わるまで、地の四方の風は決して彼らを害うことないのである。信者に臨む難難は審判ではない、試練である、恩恵である。
今の世の奸悪不義をまざまざと実見する時、我らは幾度びか疑う、何故にかかる世がなお滅びないのであるかと。滅びるが当然である。まことに「審判の日にはソドムの地のかた汝よりも耐え易からん」「ニネベの人審判のとき今の代の人と共に立ちてこれ(今の代)が罪を定めん」である。もしソドムにして滅ぼされしならば、何故に今の世は免れてあるのか。答えて曰く、印せられつつある少数者のためである。ソドムに五十人の義者あらば、否、十人だにあらば、その十人のために我れこれを滅ぼさじと神はアブラハムに誓うた。十四万四千人のイスラエルの子らが地上に存在する限り、地の四隅に立つ天使らは恐るべき審判の風を引き止めて地にも海にも諸々の樹にもこれを吹かせないのである。一人の義者の存在は社会の破滅を防ぐ鍵である。