一四 騎兵二億

藤井武

第六の天使がまたラッパを吹いた。

場面は再び天である。神の前なる金の香壇のほとりである。その四つの角から声がきこえる。いわく「大いなるユウフラテ川のほとりつながれおる四人の天使を解き放て」と。ラッパをもつ第六の天使にむかっていうことばである。

大いなるユウフラテ川はイスラエルの郷国きょうこくの最も重要なる辺彊へんきょうの一つである。しばしばそこからアッシリアまたはバビロン勢が大洪水のようにパレスチナに押し寄せた。そうして多くの場合にそれらの洪水はイスラエルに対する神の審判であった。恐らく神はユウフラテ川のほとりにひとりの天使をつなぎ置いて、時満つる毎にこれを解き放ちもって審判の洪水をパレスチナに送りたもうたのでもあろう。あたかもそのように、ヨハネは今見たのである、人類の世界のある重要なる辺彊へんきょうに当て、四人の天使がつながれておることを。彼らは時満つると共に解き放たれて、恐るべき洪水を全地の民に送ろうとする。しかも今やその時が差し迫ったらしい。何となれば「解き放て」との命令がすでに出たから。

かくていよいよその時その日その月その年が到来した。四人の天使は解き放たれた(彼らは人の三分の一を殺さんために備えられていたのであった)。

たちまち押し寄するはいかなる大洪水か。見よ驚くべき騎兵の大集団!その数無慮むりょ二億と註せられる(ヨハネは正確にその数を聞いたという)。

天から地まで、真正面に、まっしぐらに、切って落とすように進軍し来たるその馬よ、その騎手よ。騎手は胸を、馬は頭と口とをこの方に向けて。

遥かに望めば、さながら猛火の軍勢のようである。けだし騎手の胸当は赤き火を頂にして、青煙と硫黄とこれにつづく。馬の口から吐き出される気もまた同様、煙を中に火と硫黄である。ひそむは硫黄、挙がるは焔。およそ前に当たるほどのものをことごとく焼き尽くすまでは、自ら燃え尽きることなき永遠の火とおぼしい(馬の頭は獅子の頭に似ている)。

かくてその全地を席巻しゆくや、馬口から発する三つの苦痛、すなわち火と煙と硫黄とに触れて、人また人はたおれ、遂に全人類の三分の一に及ぶ。ただし馬の力は前なる口のほかなお後なる尾にもある。尾は蛇のごとく、頭があって、人をそこなう。

かくのごときがヨハネの見た第六ラッパの審判の幻影であった。そうして第五ラッパの審判が第一の禍害わざわいと呼ばれるに対し、これは第二の禍害わざわいと称えられる。しからば第二の禍害わざわいの意義如何いかん

試みにこれを第一の禍害わざわいに比べてみよ。そこには著るしき対照があることを見いだすであろう。底なきあなに代えて聖座みくらのまえなる金の香壇である。サタンに代えて四人の天使である。あなから立ちのぼる煙とその煙の中から出てくる怪しき小虫の群れに代えて、天から驀進ばくしんしてくる騎兵二億である。死にさえまさるさそり のごとき苦痛に代えて、焼きつくす火である。

もし第一の禍害わざわいの特徴が陰暗と歪曲と複雑とにあったとするならば、第二のものは公明である、正大である、単純である。二者はただ禍害わざわいであることにおいて、すなわち罪人への審判であることにおいて一致するのみ。

我らは第一の禍害わざわいの意味を解して、罪がみずからを罰するのであるというた。すなわちそれは罪自体に内在するところの禍害わざわいである。罪人が罪そのもののために悩まされる悩みである。

しかし罪を原因とする禍害わざわいはそれに尽きないのである。罪はみずからを罰するが、その上になお神は罪を罰したもう。前なる審判は罪自体に内在する。後なるものはあらためて外からくる。すなわち天からくる。前なるものは良心の自己苛責かしゃくである。後なるものは滅亡そのものである。罪は罪みずからの悩みによって消滅しない。ただ神の審判によって処分せられる。アダム夫妻はまずその心を暗くして神を避けた。しかし神は彼らを尋ねいだして、労苦と死とをこれに負わせたもうた。

神は罪を罰したもう。何となれば罪はあるまじきものであるからである。神の統治したもう世界に、何があることを許されても、罪だけは許されない。この曲れるもの、この暗きもの、この神の聖に逆らうものは、これを根こそぎ処分したもうまで、神は決して休みたまわない。

そうして罪に対する神の正しき審判は、かつて一たび完全に現われたのであった。かのゴルゴタの丘の上に、罪なき人の子をして「わが神、わが神、何ぞ我を棄てたもうや」と叫ばしめたところのそのわざわいこそは、まさしく全人類の上に天からくだった審判そのものであった。人はややもすればキリストの十字架上の苦悶を怪しむ。ことにこれを釈迦またはソクラテスの最期に比較して、解しがたいとなすものが少なくない。何という愚かさであろう。キリストのほかに誰が世の罪を負うたか。罪の人類への神の審判がどうして尋常なるものであり得たか。イエスがあのように死んでくれたればこそ、罪びと我らの赦さるべき理由ができたのではないか。イエスは十字架の上に我らに代わって、天よりの火と煙と硫黄とにさらされてくれた。このゆえに我らは彼を受け入れる限り、もはや罪の審判にあずかるべきおそれがない。我らの審判はすでに果たされた。キリストにおいて果たされた。我らは彼において、十字架につけられたる自己を見る。

残れる問題はキリストを受け入れない人々についてである。彼の受けた審判を自分のものと見て、心からアーメンを唱えざるかぎり、その人々の審判はいまだ果たされないのである。何となれば彼らとキリストとの間に結び付きがないからである。すべてキリストを信じないものは、早晩みずから審判さばかれねばならぬ。

いわゆる第二の禍害わざわいはすなわちそれである。罪人であってキリストを信じない者が、そのまさに受くべきものを今や受けるのである。神はかつて十字架の上に人の子をうち砕きたもうたように、今や熱火の騎兵を天から送って、彼らをふみにじりたもう。

しかしながらこれすらまだ最後の禍害わざわいではない。もう一つの、さらにはげしきものが残っている。

この苦痛によって殺されなかった残りの人々はどうしたか。かれらは厳かなる審判のまえに心をふるわせて、ついに神に立ち帰ったか。

否「残りの人々はおのが手の業を悔い改めずして、なお悪鬼を拝し、見ること聞くこと歩むことあたわぬ金銀銅石木の偶像を拝せり。又その殺人ひとごろし呪術まじわざ、淫行、窃盗せっとうを悔い改めざりき」とある。何というかたくなさであろう。しかしそれが人の心である。審判を見たからとて人は悔い改めない。かえってますます心をかたくなにする。震災後の現代日本を見よ。ひたと思い当たるではないか。

悔い改めを安価に見積って、軽々しく百万救霊とか神国運動とかを提唱するものは、誰であるか。一人の霊魂が神に立ち帰るは、決して容易な事ではない。それは断じて人の力で出来る事ではない。伝道師の説教や何々連盟の運動などによって出来る事では断じてない。ただ神のみこれを果たしたもう。彼みずから恩恵の手をのべて引きたもうのでなければ、誰人のたましいが救われようか。