一五 神の奥義は成就せらるべし

藤井武

一九三〇年二月九日早朝、集会のために病臥びょうがのまま自ら執筆して代読せしめたるもの(編者)

我また一人の強き御使いの雲をて天よりくだるを見たり。そのかしらの上に虹あり、その顔は日のごとく、その足は火の柱のごとし。その手にはひらきたる小さき巻物をもち、右の足を海の上におき、左の足を地の上におき、獅子の吼ゆるごとく大声に呼ばわれり。呼ばわりたるとき七つの雷霆いかづちおのおの声を出せり。七つの雷霆いかづちの語りし時、われ書き記さんとせしに天より声ありて「七つの雷霆いかづちの語りしことは封じて書き記すな」と云うを聞けり。(黙示録一〇の一~四)

ラッパを持てる七人の聖使みつかいのうち六人までが、すでにこれを吹きました。そうして自然と人とに対する恐ろしい審判さばきが行われました。けれどもそれはまだある程度までの審判に過ぎませんでした。もっと恐ろしい事が続いて起ころうとしています。

その時ヨハネは一つの事に気が付きました。第七の天使がまだラッパを吹かない先です。何か新しい光が彼の目の前に動きます。何かと見てありますと、それは別の一人の天使です。特別に、強い天使です。多分ミカエルかガブリエルの中の一人でしょう。身には黒雲を衣の様にまとうています。頭の上には美しい虹があります。黒雲と虹、どう見てもそれは審判の恐ろしさの中に現われる憐憫を象徴します。厳粛にしてしかも慰めに富んだ光景です。我々の人生の最も深い現わし方です。段々近づくのを見ますと、その顔は日のように輝いています。そうして足は火の柱の様に燃えています。見るからに厳かな威光にちた様子であります。片手には何かものを持っています。小さい巻物の様です。何が書いてあるか分りませんがしかし前に見たものの様に封印を施してありません。開いたままです。すぐに示されようとする啓示でありましょう。

やがて地におり立ちますと、両足を開いて、右を海の上に、左を地の上に踏み立てました。海と地と、すなわち全地に関わる音信おとづれを携えて来たものに相違ありません。

斯様かように物々しい姿勢を取ったのち、彼は大声に呼ばわりました。その声は言葉ではなくて何かの合図であったらしくあります。多分世界中の注意を喚び起こそうとしたのでしょう。獅子の吠える様な、幅広くかつ奥深い音信おとずれでありました。

この天使がかように叫びますと、天の方からその反響のようなものが聞こえました。それは七つの雷霆いかづちが各々声を出したのでありました。天使の合図に応じて何か意味深いことを言うたのでありました。ヨハネには一つの意味がよく分りました。それゆえ早速ペンをインクに浸して書き記そうとしました。するとまた天から声があって「七つの雷霆いかづちの語ったことは封じて書き記すな」と云いました。何故ですか分りません。しかし兎に角この言葉はこれを地上の人達に伝えることはふさわしくなかったと見えます。そういう事が沢山にあるのであります。神様の方ではちゃんと立派な説明がおありになる事でありながら、我々人間の小ささ弱さのゆえに、かの時までは封じてお示しにならない事柄が沢山にあるのであります。それはお知らせにならない事が聖旨みむねなのですから、我々はいてこれを知ろうとすべきではないと思います。神様は必要なだけ適当なだけを我々にお与えになります。その量りを超えて神の秘めたもうものを解こうとするは、信頼する者の態度でありません。今はよく分らぬがしかし何か理由のあることに相違ない、かの日にはきっと皆分らせて戴けるであろう、そう信じておまかせすべきであろうと思います。

かくて我が見しところの海と地とにまたがり立てる御使いは天にむかいて右の手を挙げ、天およびその中に在るもの、地およびその中にあるもの、海およびその中にある物を造りたまいし、世々限りなく生きたもう者を指し、誓いて言う「こののち、時はぶることなし。第七の御使いの吹かんとするラッパの声のづる時に至りて、神の僕なる預言者たちに示したまいしごとく、その奥義は成就せらるべし。」(黙示録一〇の五~七)

ヨハネは筆をやめて、なおも見ていました。その海と地とにまたがり立つ荘厳なる天使はやがて天に向かって右手をあげました。それは神を指して誓うのでありました。神すなわち天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるもの、およそ宇宙間の一切を創造したもうたその方です。そうして世々限りなく生きたもうその方です。この万物の創造者であり、永遠の存在者である方を指して誓いながら、天使は申しました。

「こののち時は延ぶることなし
第七の天使の吹かんとするラッパの声のづるその時に
神の奥義は成就せらるべし
彼のしもべなる預言者たちに示したまいしごとく。」

この一つの音信おとずれを万国の民に向かって、否、天地万物に向かって宣べんがために、この天使は遣わされたのでありました。

これは何と云う心強い音信おとずれでありましょう。「もう待たなくてもよいぞ。今すぐ第七の天使がラッパを吹き初めるのだが、そのラッパの第一声が鳴り出すその時に、待ちに待った神様の奥義、すなわち宇宙人生にかかわる彼の目的の全部が、完全に成就するのだ。それは旧約の預言者や新約の使徒たちにお示しになったその通りに」。どうです、これらの言葉があなた方の胸に響きませんか、こたえませんか。これは譬えば高山に登るものが麓から一合目二合目と喘ぎつつ辿って来まして幾度か疲労のために倒れようとしながら苦しい忍耐を続けて来ますと、いきなり案内者が声を出して「さあ来ましたよ、すぐその上に見える岩を越すとそれが頂上です。」と云うてくれるその音ずれです。あるいは痛ましい陣痛に悶えてまだかと待ち焦がれた産婦に向かって産婆が喜ばしげに「さあ赤さんがお生まれになりましたよ。」と告げるその音信おとずれです。登山の苦しみ、産みの苦しみをめないものには意味が出ますまい、しかしこれをめたものにとってはこれほどうれしい音信おとずれはないはずです。

思うに我々の神様は約束の神様です。彼は始めから人類と契約を結んであるものを約束としてお与えになりました。罪を犯したアダムには「女の末が蛇のかしらを砕くであろう」ことを約束せられました。選ばれたアブラハムには「汝の子孫によって万国の民が福祉さいわいを得るであろう」ことを約束せられました。エジプトに悩んだイスラエルの民には「乳と蜜との流るるカナンの地に導き入れるであろう」ことを約束せられました。すべてそういう風です。後にはダビデや預言者たちを通して様々の輝かしい約束が与えられました。旧約聖書は約束の歴史です。否旧約に限りません、新約もまた同様です。イエスによりまた使徒たちを通してらゆる約束を与えられました。実に文字通り旧新約はふるき新しき約束よりほかのものではないのであります。ふるき新しきといいますが、要するに一つのものに帰着します。つまり神の国の実現です。聖国みくにの来ることです。神みずから人の間に幕屋を張りたもうことです。人の目から涙がことごとく拭われることです。旧約も新約もこの事に尽きます。そうして神の約束は人の側から見ればすなわち希望であります。モーセもダビデもイザヤもエレミヤも皆望みました。パウロもヨハネも、アウガスチンも、ダンテもルーテルもミルトンも、皆望みました。彼らは皆希望をいだいて死にました。いまだ約束のものを受けませんでしたが遥かにこれを望み見て、地上では自ら旅人またやどれる者であると思いさだめました。彼らの慕う所は天にある永遠の都でありました。それの来たらん日を待ち望みました。それが彼らの生涯の全部でありました。

我々にとっても同じことです。少なくとも私はそうです。私の神は約束の神です。私も神様の声を度々聞きました。その度毎に神様は私に未来の完全なるものを約束して下さいました。私はそれを信じて、待ち望んでいます。私の生涯も希望するほか何でもありません。

それゆえにもしこの神様の約束が成就しないならば、我々キリスト者の生涯は実に空しいものです。こんなつまらぬ事はありません。一切を未来の希望にかけているのでありますから、それが実現しない位ならば何のための生涯でしょう。一切空です。パウロの言うた通りです。「我らこの世にありキリストによりて空しき望みを抱くに過ぎずば、我らはすべての人の中にて最もあわれむべきものなり」と。

すなわち我々の生涯は冒険の生涯です。最大冒険です。しかしそこに信仰の信仰たる所以ゆえんがあるのであります。神様のお言葉であるから、満腔の信頼をもってこれを信ずるかどうか。神様のお約束であるから、絶対無条件にアーメンを唱えてこれを受け入れるかどうか。アブラハムのように望むべくもあらぬ時になお望みて、不信をもて神の約束を疑わず、信仰によりて強くなりて神に栄光を帰し、その約したまえることを成し得たもうと確信するかどうか。ただこれだけです。これの出来るものがその信仰を義と認められるのです。人間のなし得る正しき事はこの一つよりほかありません。

しかし実際においてはなかなか困難です。神様は急ぎたまいません。その車は廻るに遅くあります。我々の希望は幾度か空しくなるように見えます。我々はあせります、悶えます、心を暗くします。

神様は我々の弱きを御存じです、そうして深い御同情をもって見て下さいます。それゆえに我々の足が躓き倒れぬよう、時としてそのお使いをお遣わしになります。そうして約束は決して空しくなったのではない、必ず時が来て成就すると保証したまいます。預言者ハバククもその声を聞きました、曰く「この黙示はなお定まれる時を待ちてその終わりを急ぐなり。偽りならず。もし遅くあらば待つべし。必ず臨むべし、とどこおりはせじ。」(ハバクク二の三)。ヘブル書記者も云いました、「されば大いなる報いを受くべき汝らの確信を投げすつな。汝ら神の聖意みこころを行いて約束のものを受けんために必要なるは忍耐なり。いま暫くせば来たるべきもの来たらん、遅からじ。」(へブル一〇の三五、三六、三七)と。

我々もまた同じ事を経験します。我々のためにも強き天使が雲と虹とに包まれながら天からりて来ます。そうして聖書のことばと世界の歴史とを指して誓いながら云います「疑うな、ただ信ぜよ。神様の約束はきっと成就する。決して間違いはない」と。私は度々この声を聞きました。それは本当に有難ありがた音信おとずれです。私はただ涙をもって答えます「アーメン」と。これが私の信仰であります。これが私の生涯であります。