かくて天に戦争おこれり。ミカエル及びその使いたち竜とたたかう。竜もその使いたちもこれと戦いしが、勝つことあたわず、天には早やその居る所なかりき。かの大いなる竜すなわち悪魔と呼ばれ、サタンと呼ばれたる全世界をまどわす古き蛇は落され、その使いたちも共に落されたり。我また天に大いなる声ありて、「我らの神の救いと能力と国と神のキリストの権威とは、今すでに来たれり。我らの兄弟を訴え、夜昼我らの神の前に訴えるもの落されたり。しかして兄弟たちは羔の血と、己が証しの言とによりて勝ち、死に至るまで己が生命を惜しまざりき。このゆえに天および天に住める者よ、よろこべ、地と海とは禍なるかな、悪魔おのが時の暫時なるを知り、大いなる憤りを懐きて汝等のもとに下りたればなり」というを聞けり。(黙示録一二の七~一二)
大いなる竜がある、その使いたちがある。竜は悪魔またサタンと呼ばれる。彼は全世界をまどわす古き蛇である。すなわち古き昔、最初の人を堕落せしめたと伝えらるる力強き誘惑者である。しかして今に至るまで彼は夜昼われらを神の前に訴えてやまざる者であるという。
我等の聖書はかくのごとき者の責任を説き、これに対して備えすべきことを切りに警告する。しかるに多くの人、殊に近代の人は信じない。聖書を尊重する人すらこれを信じない。有名なるクラークの『神学綱領』のごとき、この問題に関し一たびも言及するところがないということである。しかし人はいざ知らず、少なくとも私はサタンの実在を信ぜざるを得ない。私の心霊的実験がそれを証明するからである。例えば、私が自分のうちにある或る罪を征服せんと欲して、堅く決意し、自ら励まし、力を尽くしてこれと闘うも、憐れむべき敗北を繰り返すに過ぎざること多きは、なぜであるか。あるいは間違いてもこの罪だけはと思うようなるものに、時として誘わるることあるは、なぜであるか。あるいはわがこころ一度び軌道を踏みはずせば、良心あり理解あり常識ある人間としては思いも及ばぬほどの恐ろしき残酷性、虚偽性等を発揮することあるは何故であるか。およそこれらの経験を単なる人間の弱さ、無知、または環境の不調和というがごとき淡泊なる原因に帰し得るか。何かは知らず、ある本質的に善にそむくところの意思、人間以上の、強大なる悪の人格者の存在を想像することなしに、この謎を解き得るか。
悪魔の原語は「謗る者」を意味する。彼は第一に人のまえに神を謗る。人をして神の愛を疑わしめ遂に彼にそむいておのが途に迷い往かしめる。すべての罪ここに生まれる。我らがいかばかり意思を鍛錬し、自己の力をもって罪に打ち勝たんとするもあたわざるはこれがためである。我等とは比べがたき強大にして狡猾なる者が我等を誘うからである。彼は我らを麦のごとくに篩う。その恐ろしさを思う毎に我らの道徳的努力は冷えかつ縮む。
しかし大いなる悪の人格者の活動はここに止まらないのである。彼は謗りまた謗る。彼は人のまえに神を謗ると共に、また神のまえに人を謗る。唯にかのヨブの場合に見たるごとく、無実の罪を謗るのみならず、また現実の罪を訴える。「夜昼われらの神のまえに訴える者」とあるとおりである。来たりて自ら我らを誘い、我らをして罪を犯さしめつつ、ひるがえりてその一々の罪につき我らを神に訴える。
神はもちろんいかなる誹謗者または告訴者のためにも動かされない。サタン素よりその事を知る。しかるにも拘わらず彼が神の前に出づるは、矢張りそれによって直接に間接に人の心を冷やさんがためである。判官たとえ動かずとも、峻烈なる検事の論告は、被告の良心を脅かすこといかばかりぞ。我ら罪を犯す。しかして神は隠れたるにことごとくこれを見たもう。そのうえ我らを誘いし者みずから往きて彼の前に一々我らを訴えるとき、我らの心萎えざるを得ようか、我らの望み薄れざるを得ようか。
念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ、おろそかにそうろうこと、……いかにとそうろうべきにてそうろうやらんと申しいれてそうらいしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり云々。(歎異抄)
唯円房が経験し親鸞が経験したるこの不審を、多くのキリスト者もまた経験する。神を信じながら、何ゆえにか、時として踊躍歓喜のこころ衰え、わがたましい力なくうなだるるのである。ルーテルにさえこの経験は決して稀でなかった。
それは何ゆえか。「よろこぶべきこころをおさえてよろこばざるは煩悩の所為なり」と親鸞は自ら答え、しかしてかくのごとき煩悩具足の凡夫なればこそ、「いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり」と励ましている。しかしながらかかる深刻なるさびしみは、果たしてただ我らのうちにある煩悩の所為たるに過ぎないか。さらに深き何ものかを我らは意識しないか。恐らくそれは、聖座のまえに我らを訴える者の声が特別に高調に達したとき、何となくその消息を感知しての失望ではあるまいか。言いかえれば、天におけるサタンの鋭き告訴の反映ではあるまいか。同じ経験のうちに、「他力の悲願はかくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしくおぼゆるなり」と言いて済ませし親鸞と、「いざ、我ら詩篇をうたいて悪魔を駆逐せん」と言いつつ天の処にある悪の霊に向かいて神の言を投げかけたるルーテルと、そのいずれにおいて、我らはよりふかく霊界の実在に触れたるたましいを見いだすか。
サタンは神のまえに我らを訴える。自ら誘うて我等を堕落せしめながら、その罪のゆえに峻烈に我らを訴える。訴え、また訴える。きのうもきょうも、夜も昼も、かの人知れぬ汚き念いについても、この偽りの一言についても。しかして彼自身がその誘惑者であれば、全知の神に次いで我らの罪を知悉する者は実に彼である。ああこの者にかくのごとく訴えられて、我らいかにして堪えようか。
しかしながら我らは失望しない。この大いなる告訴者が、我らのもろもろの罪を捉えていかに鋭く攻撃するとも、なお安全なるひとつの城砦が我らのために備えられてある。その中にだに身を寄せんか、見よ、奇しくもサタンの矢はみな跳ね返されて、我らは微傷をも負わないのである。多くの恐るべきまた慚ずべき罪にも拘わらず、この城砦に寵りて、我らの良心は永遠の平安に住むことが出来る。
「羔の血」、キリストの死!私はここに更めて贖いを説くまい。ただ全く聖かりし人の子のあのようなる死という一つの事実のうちに、いかばかり深き意義のひそめるかを再び注意するにとどめる。かかる事実なかりせば遂に解きがたき大いなる謎が、いかに多く人生に存在することよ。贖いの神学的説明は学者にゆずる。一事は如何ともすることが出来ない。キリストの死こそは人生永遠の矛盾を解くべき唯一の鍵である。羔の血は実に人間の心臓そのものの要求である。
羔の血によって安全に支払われし義のゆえに、我らの負債はいかに重くとも一切抹殺せられるとは何という嘉き音信であるか。およそ新衣をまとい、新居にうつり、新年を迎えるだに、我らが喜びである。けだし穢れたる又は傷つける古きものを一々修理するにあらずして、根本的にこれを葬り去り、しかして全然新らしき立場にたち得るところに、言いがたき福いを感ずるからである。まして我らの霊的生命が、そのすべての悪しき記憶を忘却の海に投げ棄て、あらたに創造せられし黎明の新鮮さをもって神のまえに立ち得るの福いよ。
サタンの鋭き告訴に対して我等を天に守る大いなる弁護者がある。天使の長ミカエルである。彼は聖座のまえにサタンと争い、羔の血のゆえに我らを弁護する。思い見よ、我らが限りなき罪をことごとく暴露して、大小の砲銃を乱射するサタンおよびその使いたちに対して、羔の血の城砦に拠りすべての攻撃を一蹴し去るミカエルおよびその使いたち。ああ何と壮烈なる天上の争闘ぞ。かくのごとくにして我らは誼われ、またかくのごとくにして我らは防がれる。
ダンテが煉獄浄罪の山にて出遇いしブオンコンテは、おのが最期について語る。彼はアルノ河のほとりに戦死したのである。
……ところに私は喉を貫かれ、徒歩にて逃げ、
平野を血に染めて達した。
ここに私は眼くらみ、マリアの名を
となえつつ言葉を終え、またここに
斃れてわが肉がひとり残った。
生涯不信のままにて過ごせし彼は、最後の一瞬間に悔い改めてその信仰のこころを表白した。
……神の天使が私を捉えた。すると
地獄の使いが叫んだ、「おお天上の汝、何故私を掠めるか。
わずか一滴の涙のため彼を私より奪い
その永遠の分を汝は携え去る云々」
神の天使はミカエルの使いである、地獄の使いはサタンの使いである。罪の一生を送りし者いま世を去る。サタンの使いはもちろんこれも己がものとして地獄に運ぼうとする。しかるにミカエルの使い、先んじて来たり、捉えて天国の方へと携えゆく、最後一瞬間の信仰を理由として。まことに地獄の使いの呟くとおり、僅か一滴の涙のために、神の使いは彼をサタンより奪いてその永遠の分を携え去るのである。一滴の涙よく永遠の分を左右する。何のゆえにか。羔の血のゆえにである。一たび羔の血にひたりて、我等の衣ことごとく白くせられる。ミカエルおよびその使いたちはこれによりて我等を護る。
サタンに備うべき城砦としては、羔の血あるをもって足る。ほかに何をも要しない。しかし羔の血に対する一滴の涙のために、天使をして我等を携えしむる神は、また我等がすべての労苦を記憶したもう。神の愛と義とのために我らが尽くすところのささやかなる奉仕、貧しき者に給する一杯の冷水をさえ神は忘れたまわない。「しかして兄弟たちは羔の血とおのが証しの言とによりて勝ち、死に至るまで己が生命を惜しまざりき」。告訴者が提出する限りなき罪は、羔の血のゆえにことごとくこれを忘れ、かえって弁護者のすすむる僅かばかりの証しの言と死に至るまで惜しまざる生命とを、神は漏れなく天の書に録して、永遠の報償の理由となしたもう。
羔の血ありて、天上の争闘は竜の敗北に終わらざるを得ない。敗北すなわち没落である。竜とその使いたちとはキリストの死以来すでに居る所を天に失うて、地に落されたと同様である。彼ら訴えるといえども神もはや耳を傾けたまわない。「誰か神の選びたまえる者を訴えん。神はこれを義としたもう」(ロマ八の三三)。このゆえに天および天に住める者よ、よろこべ。羔の血を信ずる者よ、心を安くせよ。なんじらの救いは確実である。これを脅かし得る者とてはない。