一 個人の霊魂
イエスによって明らかにせられた最大の真理の一つは、神の眼に於ける個人の霊魂の重さである。彼はいうた、「なんじらの中たれか百匹の羊を有たんに、もし一匹を失わば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。遂に見出さば喜びてこれを己が肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼び集めていわん『我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり』、われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔い改むる一人の罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しき者にも勝りて天に歓喜あるべし」と。またいうた、「人、全世界をもうくとも、おのが生命を損せば何の益あらん、又その生命の代に何を与えんや」と。一つの霊魂のために神は九十九のものを棄て置きて、その熱心と興味とを集中したもう、一人の生命の貴さは全世界にもまさる。
従って救いは先ず第一に個人の事である、各自の霊魂と神との直接交渉の問題である。我らひとりびとりが自己の罪に眼ざめ、仰いで十字架上のキリストを信ずる時に救いは成るのである。教会に加わる事によって救われるのではない、洗礼を受くる事によってでもない。個人である、霊魂である。「我に従え、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ」、「神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり」。
この個人的霊的色彩はイエスの教えにおいて比いなく濃厚に示されたが、しかしその萌芽はもちろんすでに旧約の中にあった。旧約の劈頭、人そのものが始めて創造せられた時の記事において、すでにその暗示を読むことが出来る。地上におけるすべての生命は、同種の多数のものが同時に創造せられ、最初より種族としての存在を始めたに拘わらず、人のみは単独に創造せられて、個人としての生活を営み出したのである。また人のみが神に象りて造られたという事は、彼の霊魂の独一なる貴さを意味するものでなくてはならぬ。
このゆえに旧約の詩人または預言者らはイエスの先駆者の声をもってしばしば個人の霊魂と神との直接交渉を高調した。例えばダビデはその民に勧めて「民よ、いかなる時にも神によりたのめ、そのみまえに汝らの心をそそぎいだせ、神は我らの避所なり」というた。エレミヤもまたシオンの女にむかうていうた、「なんじ夜の初更に起きいでて呼びさけべ、主の御前になんじの心を水のごとく注げ」と。
神のみまえに我らの心を水のごとく注ぎいだすというは、誠に深き消息である。それは一面において、我らの心が神ならぬ何者の前にも十分に注ぎ出されない事を意味する。心は深い。我ら一人びとりの心に皆それぞれ独特の領分がある。何人もひとつの心を探りつくすことは出来ない。何人もこれを完全に了解することは出来ない。何人もその渇きを飽くまでに満たし、その傷を残なく癒すことは出来ない。私が涙を流すことある時、人はその私の涙を見る。しかし何の涙であるかを知らない。いと近き友すらよくこれを知らない。それが心の奥底より滲み出るものである時に特別にそうである。かくてすべての人の心に本然の孤独性がある。心はみな孤独である、それだけ深いのである。たとえいかに小さき人物であっても、その内に何人も測るべからざる、その人自身さえ意識せざる深みがあるのである。
心は孤独である。これを人の前に注ぎいだすも無益である。ただひとり完全にこれを受け入れ得るものがある。心を造った神である。神はすべての心を了解しこれに同情しこれを満ち足らすことが出来る。「我が父の家には住所多し」。神の家にはあらゆる心の休らい得べき住所がある。神の前に注ぎいだしてそのままに受け入れられない心はない。何人も私を了解しない時、私はただ上を見る、上にいます者に訴える。しかして人の口よりは聴くことの出来ない慰めの言葉を聴く、人の思いにすぐる平安は私を満たしてなお余りある。心は実に神に休らうまでは真実の休安を見出さないのである。
神はただに人の心を受け得るのみでない、また常にこれを受けんことを求めたもう。「いかなる時にも主のみまえに汝の心をそそぎ出せ」とは実は神自身の要求である。始めに神の顔を避けて園の樹の間に身を匿したるアダム夫妻を尋ねて「汝は何処に居るや」と言うた時に、神はすなわちこれを求めたのであった。次に怒りて面を伏せたるカインに対し「なんじ何ぞ怒るや、何ぞ面を伏するや」と呼びかけた時に、神はまたこれを求めたのであった。爾来今に至るまで、神は同じように求めかつ求めてやまない。おのれの造りし心が失われたる羊のごとくみな徒らに迷い出づるを見て、神は追跡また追跡、遂に再びこれを回復するまでやみたまわない。
神はいかばかり長き聖手をのばして、迷いゆく心を追跡したもうか。我らの霊魂が途なき迷宮に踏み込めば踏み込むほど、神はいかばかり燃ゆる熱心と奇しき聖業とをもってこれを尋ねたもうか。その消息はまさに驚異に値する。多くの人は自分の霊魂のさすらいにかかる背景があることを知らない。捉えられて再び父の家に帰りてすら、みずからその歴史を明白に読むことが出来ない。しかしながら眼ある者は見るのである。アウガスチンがその懺悔録につづりしごとき、失せたる霊魂に対する神の追跡の歴史は、実はすべての霊魂の歴史である。もし許されるならば、私もまた第二の懺悔録を書くことが出来る。人という人、殊に迷える者、なやめる者、弱き小さき者にこの大いなる歴史がある。世よりは全く顧みられずして雑草のごとくに枯れゆく無名の生涯にも必ずこの大いなる歴史がある。
神が霊魂を追跡したもうように、霊魂もまた神を探り求める。おのがさすらいに眼ざめし霊魂は、戦慄をともなうほどの寂しさを抱いて、狂乱しながら神を探り求める。悼ましき努力である。しかしながら人の子らしき苦闘である。その記録の代表的なるものを我らはバンヤンの「恩寵溢るるの記」において見出す。ここに霊魂の奥底の悶えがある。何人かこれを他人の事として読み過ごし得よう。今の若き人々はゲーテの「ウエルテルの悲しみ」やあるいはさらに幾層倍か浅薄なる流行的告白を読む暇に、アウガスチン又はバンヤンの告白に耳傾くべきである。これらの深刻なる声に心ひかれないものは未だ人生に触れた人であるということが出来ない。
神は霊魂を追跡し、霊魂は神を探究する。けだしアウガスチンの言うたように、霊魂の造られたのは神自身のためであるからである。神はこれを真実におのがものとして有たんがためにこれを造りたもうたのである。ゆえにその目的の達せられた時に神の心に大いなる歓喜あるは怪しむに足りない。また霊魂の歓喜も同じようにおのが造られし目的の達成にあること言を俟たない。かくて神と霊魂とは互いに相慕う。我らが「ああ神よ、鹿の渓水をしたい喘ぐがごとく、わが霊魂もなんじを慕いあえぐなり、我がたましいは渇けるごとくに神をしたう、活ける神をぞ慕う」(詩四二の一、二)というて彼を仰ぐように、「神もまた我らの内に住ませたまいし霊を妬むほどに慕いたもう」のである(ヤコブ四の五)。しかしてこの二つの相互的思慕が相合う時に、天にも地にも最大の歓喜があるのである。放蕩息子の譬喩において、父がその子を見て走りゆき、その頸を抱きて接吻し、しかして「とくとく最上の衣を持ち来たりてこれに着せ、その手に指輪をはめ、その足に靴をはかせよ、また肥えたる犢を牽き来たりて屠れ、我ら食して楽しまん云々」と叫ぶはすなわちこの時である。
救いはまず第一にこの内的世界における事実である。個人的である、霊的である。神の追跡である、霊魂の探求である。しかしてその相互的発見を成就せしむるものはすなわちキリストである、神の子にして人の子なるキリストである。神は彼においておのが姿を我らに顕わしたもう。「未だ神を見し者なし、ただ父の懐裡にいます独子のみこれを顕わしたまえり」、「我を見し者は父を見しなり」。我らは彼においておのが心を神のみまえに注ぎいだす。「なんじら今までは何をも我が名によりて求めたることなし。求めよ、さらば受けん、しかして汝らの喜悦みたさるべし」。ただ彼においてのみ我らは神と相いだき相共に住むことが出来る。「人もし我を愛せば、わが言を守らん、わが父これを愛し、かつ我らその許に来たりて住所をこれとともにせん」。神と一つなるキリストがまた我らと一つになり、かくて我らをして神と一つならしめるのである。
我ら各自の霊魂と神との間に、キリストを通してかかる親密なる交渉がある。その消息の深さを言いつくすことは出来ない。キリスト教はこの意味において比いなく深き個人主義である。神は個人を求める。キリストは我ら各自の霊魂の救い主である。
二 全人類の有機的結合
神は個人の霊魂を求める。彼は妬むほどにこれを慕いたもう。その失せたる一つを回復せんがためには、残れる九十九を措き、往いて見出すまでこれを尋ねたもう。しかるにも拘わらず、神の目的は個人にあらずして人類全体にある、キリストの最大関心は全体を一団として見たる人類そのものにある。
人類は地上におけるその他の一切の生物のように種族として造られず個人として造られた。しかしながら人類はまた天界の使者たちのように全然個別的に造られず、男女一体の祖先より派出すべきものとして造られた。すなわち人類の生活の特徴として、一面においては個人的であると共に他面においては社団的である。人は個人であると共にまた人類の一員である。私は独立の私であると共にまたアダムの子である。
神は個人を愛するがごとくに、また社団としての人類全体を愛したもう。「それ神はその独子を賜うほどに世を愛したまえり」という。ここにいわゆる世とは全人類の社団である。個人の救いに努力したもう神は、それにも増して人類そのものの救いに熱中したもう。「神その子を世に遣わしたまえるは……彼によりて世の救われんためなり」(ヨハネ三の一七)。世の救いである。全人類が一個の人格者のごとくに神に帰依し服従するに至らんこと、その事が神の期待である。そのために彼は心を砕きたもうのである。
かくのごとく人類を個人としてよりはむしろ社団として見る神のこころは、まず「選民」の観念において現われた。選民とはもちろん読んで字のごとく選び出されたる民であって、人類全体ではない。しかしながらそれは明らかに社団的観念である。神はすべてアブラハムの子孫を一括しこれを一体と見て、選民と呼びたもうたのである。ゆえにこれにむかいてあるいは「わが僕」「わが選び人」といい(イザヤ四二の一)、あるいは「契をなして我に従いしもの」という(エレミヤ二の二)。選民はそれ自体においてひとりの人格者として神に愛せられたのである。しかしてこの選民に対する神の愛は実は全人類に対する愛であった。選民に対する恩恵は実は彼等のものではなくして全人類のものであった。ただそれは彼等を通して万民に及ぶべく定められたのである。ゆえにいう、「汝は福祉の基となるべし……天下の諸々の宗族なんじによりて福祉を得ん」と。アブラハムが選民の祖として選ばれたのは「衆多の国民の父」とならんがためであった。選民は万民の初穂に過ぎない。
このゆえに選民の観念は始めより膨脹的使命を帯びて居った。神は常に選民を通して全人類を見たもうた。従ってイスラエルの籬はいつか撤廃せられて、異邦人がこれと合体すべきは神の予定の計画であった。イスラエル自身はこの事をよく悟らなかった。彼らには時いたるまで奥義として隠されて居った。しかし遂に時は来て奥義は明白に顕わされた。「この奥義は今聖霊によりて聖使徒と聖預言者とに顕わされしごとくに、前代には人の子らに示されざりき。すなわち異邦人が福音によりキリスト・イエスに在りて共に世嗣となり、共に一体となり、共に約束に与かる者となる事なり」(エペソ三の五、六)。イスラエルに限られし選民の観念はここに一変して、異邦人をも包括したる一体の観念となった。これすなわち「教会」である。
教会こそ神の奥義である。この一つの観念の中に聖なるロマンスがある。教会はキリストの愛人である。彼女を潔く瑕なきものとして己に獲んがためにキリストは己を捨てたのである。ゆえにパウロはいう、「夫たる者よ、キリストの教会を愛し、これがために己を捨てたまいしごとく、汝らも妻を愛せよ」と。社団たる教会そのものがキリストの新婦である。教会に属する各個人に対して聖書は一度もこの観念を適用しない(ヨハネ三の二九又は後コリント一一の二等においても同様である)。妻に対する夫の愛の理想的なるものをもって、キリストは教会そのものを愛する。
しかして教会もまたその語義よりすれば「呼び出されたるもの」を意味し、選民と同じように、全人類よりは狭き観念であるが、しかし教会の使命が膨脹的であることは選民の場合にもまさる。教会は福音と共に限りなく膨脹しゆく。イスラエルたると異邦人たるとを問わず、およそ福音の及ぶところに教会は伸びる。しかして福音の使命は言うまでもなく世界的である。水の海を蔽うがごとく福音全地をおおい、全人類がこれによって救われんことを神は望みたもう。換言すれば、人類の全体が化して教会と成らんことを神は欲したもう。キリストの理想の新婦は人類の一部ではない、その全体である、人類そのものである。これを真実におのがものとして獲んがために彼は己を捨てたのである。理想的の意味において、教会即人類である。
このゆえにキリストの最高の興味は個人よりもむしろ人類にある。彼がピリポ・カイザリヤの地方においてその弟子たちにむかい「人々は人の子を誰と言うか」「なんじらは我を誰というか」と尋ね、しかしてペテロがいみじくも「なんじはキリスト、活ける神の子なり」と答えるを聴いて、喜びに満ちた時に、始めてその胸中最高の興味の問題を披瀝していうた、「……我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我れこの磐の上にわが教会を建てん云々」と。このペテロに対するキリストの約束は、数千年前になされしアブラハムに対する神の約束と全く精神を同じうする。天下万民の福祉の基として、選民の祖アブラハムが選ばれたように、全人類の救いの基として、教会の磐ペテロが選ばれたのである。選民問題は万民問題である、教会問題は人類問題である。全人類より成る理想的教会の建設こそキリストの最大関心事である。イエスは個人にまさりて人類を愛した。彼は人類そのものを救わんと欲した。彼は「世の罪を負う羔」であった。「キリストの己を捨てたまいしは、水の洗いをもて言によりて教会を潔め、これを聖なる者として、汚点なく皺なく、すべてかくのごとき類なく、潔き瑕なき尊き教会を、おのれの前に建てんためなり」。世のため、人類のため、全人類を潔き瑕なき教会として己に獲んがために、キリストは生きかつ死んだのである。また同じ目的のために彼は復活した。彼は復活の初穂と称せられる。すなわち「死人の中より最先に生まれたまいし者」である(コロサイ一の一八)。これやがて全人類を復活的生命に入らしめんがためであった。かくてキリストの生も死も復活もみな人類本位であった。キリストは個人にまさりて人類を愛する。人類そのものが彼の慕うところの新婦である。各個人は婚宴に招かるる侍者に過ぎない。
同じように我らの生活もまた人類本位でなければならぬ。キリスト者生活はまず個人的経験として始まる。神は我ら一人びとりの迷える霊魂を追跡したまい、我らはまた聖霊のみちびきの下に、各々自己の渇きをもって神を求め、自己の意思をもって神を信じ、自己のたましいをもって神と交わる。しかしながらかくして我らの救わるるは我ら各個人のためではない、全人類のためである。全人類が救われたる者として神に奉仕せんがため、その目的のために各個人は救われるのである。「我らはユダヤ人ギリシャ人奴隷自主の別なく、一体とならんために、みな一つ霊にてバプテスマを受けたり」(前コリント一二の一三)。「我は汝の我に賜いし栄光を彼らに与えたり、これ我らの一つなるごとく、彼らも一つとならんためなり」(ヨハネ一七の二二)。聖霊を受くるは一体とならんため、栄光を受くるは一つとならんためである。個人的経験として始まるキリスト者生活は、必ずや社団的経験として進まねばならぬ。救われたる者の生活は個人主義ではなくして、遥かに熱情ある人類主義でなければならぬ。
ここに私が人類主義と称するものは、単に個人の集団としての人類、すなわち社会としての人類の意味ではない。聖書の人類観はさらに深い。聖書は全人類を一個の有機体として示す。現実的には肉によりて結ばるる有機体であり、理想的には霊によりて結ばるる有機体である。この二重の有機的関係に着目してパウロはいうた、「されば一つの咎によりて罪を定むることのすべての人に及びしごとく、一つの正しき行為によりて義とせられ生命を得るに至ることもすべての人に及べり。それは一人の不従順によりて多くの人の罪人とせられしごとく、一人の従順によりて多くの人、義人とせらるるなり」と。一人の罪、万人に及ぶは肉の結合のゆえにである、一人の義、万人に及ぶは霊の結合のゆえにである。肉と霊との差別こそあれ、その有機的結合の関係は異ならない。しかして肉の結合は現実であり、霊の結合は理想である。前者の関係が潔められて後者の関係に化せんとするところに人類の歴史があり進歩がある。
しかしてこの理想を現実化したるものがすなわち教会である。教会は霊によりて結ばれたる全人類の有機的生活の典型である。あたかも人体におけるように、キリストは首、教会は体、各個人はその肢(目、耳、口、手、足等のごとき)である。ゆえにただに我ら各自が聖霊によりてキリストと一つに結ばれるばかりでない、また相互に一つに結ばれるのである。イエスはその関係を方式のごとくに表わして「すなわち我れ彼らに居り、汝われにいまし、彼ら一つとなりて全くせられんためなり」というた(ヨハネ一七の二三)。パウロもまたいう、「我らも多くあれど、キリストに在りて一つ体にして、各人たがいに肢たるなり」(ロマ一二の五)。独立人格者の共同生活ではない、一つの体に連なりて互いに肢たるの生活である。その関係の密切さを思え。まことに「一つの肢苦しまば、諸々の肢ともに苦しみ、一つの肢尊ばれなば、諸々の肢ともに喜ぶなり」(前コリント一二の二六)である。この特別の関係を知って、我らは始めてイエスの言「われ新しき誠命を汝らに与う、なんじら相愛すべし」の意味を解することが出来る。唯に隣人としてではない、キリストの体の肢として相愛すべきは、すなわち新しき誠命でなくして何か。この深き愛こそ教会の生命でなければならぬ。イエスや使徒たちがくどきほど兄弟相愛を主張した所以はここにある。相愛はキリスト者の栄光である。相互的分争はその最大の恥辱である。
分争は恥辱である。それと共に愛を教会内に独占せんとする精神も同様である。キリスト者の愛は人類主義の大いなる理想に基づく。教会は全人類の典型である。我らは信仰の兄弟を愛するその心をもってすべての人を愛せねばならぬ。イエスは常にいうた、「わが汝らを愛せしごとく、互いに相愛せよ」と。イエスの我らを愛せしその愛こそ、人類がかつて見たる唯一の崇高なる人類的大精神ではなかったか、己に敵する全人類のためにその生命を捨つるの大愛ではなかったか。しからば我ら彼に倣うて互いに相愛する時、我らの愛もまた広く博く全人類に向かって進まざるを得ようか。教会内に局限せらるる愛は偽りの愛である。人類的熱情に乏しき教会は偽りの教会である。
我らは何故に自分の問題又は自分の属するいわゆる教会(断じて真実の教会ではない)の問題のみを心配して、今少しく博大の同情をいだき得ないのであるか。あるいは何故に社会問題にのみ没頭して、さらに深く人類の救いの問題を考慮し得ないのであるか。モーセは民の罪の赦しを得んがためには天の記録よりおのが名の消し去られんことをさえ願うた。パウロもまた兄弟の救いについて大なる憂いと絶えざる心の痛みとを抱き、そのためには「みずから誼われてキリストに棄てらるるもまたねがう所なり」と告白した。かくのごときが真実なるキリスト者の精神ではないか。この精神をもってイエスは我らを憶うたではないか。言葉あり、いわく「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ、汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と(ピリピ二の四、五)。
三 万物の帰一
神は全人類を愛したもう。キリストの新婦なる教会は理想的の意味においては全人類の社団である。キリストは死者の中より「最先に生まれたまいし者」(Prototokos, the first born)として、全人類を己の復活的生命に与らしめんとしつつある。人類そのものが彼によって完成せられんとするのである。
しかしながら神の熱心はここに止まらない。キリストの地位はさらに限りなく広き関係を有する。あたかも復活の世界すなわち新しき創造の世界における「最先に生まれし者」としてキリストは教会の首であるように、旧き創造の世界においてもまた「万の造られし物の先に生まれたまえる者」(the first born of creation)として、キリストは万物の主である(コロサイ一の一五)。ここにおいてか個人とキリスト、教会又は人類とキリストとの他に、なお万物とキリストとの関係がある。
万物に対する彼の関係は、あたかもその教会に対すると同じように、「先に生まれし者」としての彼の地位に基づく。先に生まれし者すなわち長子である。長子は世嗣である、家督を嗣ぐ者である。後に生まるるものはみな長子に属する。キリストは復活の世界における長子である。ゆえに教会は当然彼に属する。そのようにキリストはまた創造の世界における長子である(彼は造られし者ではない、しかし神の子であるがゆえに神より生まれし者であって、もちろんすべて造られしものの先に生まれし者である。その意味において彼は創造の長子である。黙示録三の一四を参照せよ)。ゆえに万物は当然彼に属する。
この二つの類例的関係を簡単明瞭に記述したるものはコロサイ書における左の数節である。
彼は……万の造られしものの先に生まれたまえる者なり。万の物は彼によりて造らる。天にあるもの地にあるもの、見ゆるもの、見えぬもの、あるいは位、あるいは支配、あるいは政治、あるいは権威、みな彼によりて造られ、彼のために造られたればなり。彼は万の物より先にあり、万の物は彼によりて保つことを得るなり。しかして彼はその体なる教会の首なり、彼は始めにして死人の中より最先に生まれたまいし者なり。これすべての事につきて長とならんためなり。(コロサイ一の一五~一八)
宇宙万物は創造の長子たるキリストに属する。換言すれば、万物は彼にありて造られたのである。彼にありての関係を分析すればまず第一に彼によりて造られたのである、第二に彼のために造られたのである、第三に彼によりて保つことを得るのである。創造の原因はキリストにある、その目的もまた彼にある、その保存もまた彼にある。万物の創造は始も終も中もみなキリストにある。すなわち万物は彼にありて造られたのである。あたかも教会がキリストにありて造られたと同じように。
万物がキリストによりて(を通して)造られたというは、キリストが創造の仲介者であったことを意味する。万物は存在するに至るまでに一たびキリストの思想と意志とを経過したのである。「すべての物、いと小さき昆虫又は草の一葉さえ、彼の仲介を経て存在を開始したのである、従ってみな彼の智慧と能力との印を帯びているのである」。
万物がキリストによりて保つことを得るというは、キリストが宇宙の維持者であることを意味する。彼はただに創造に参与したばかりでなく、爾来今に至るまで宇宙の支配にも参与しつつある。神はキリストの智慧と能力とを用いて万物の存在を維持したもうのである。宇宙がとにかく渾沌に帰らず破滅に終らずして、その秩序と継続とをたもつ所以は、キリストが何らかの方法によりてこれを支配し保持しているからである。
しかし最も重要なる問題は創造の目的にある。目的によりて原因も定まり保存も定まる。万物がキリストによりて造られたといい、また彼によりて保つことを得るというは、解するに易からぬ提唱である。しかしもし創造の目的がキリストにあったならば如何。万物は彼のために造られたのであるとしたならば如何。
万物がキリストのために造られたというは、キリストが万物の目標であることを意味する。すべて造られし物は各々おのが好むところに向かって歩みつつあるように見える。しかし万物に通じて定められたる一つの目標がある。全宇宙は唯一つのものを目指して進みつつあるのである。すなわちキリストである。キリストに仕えること、キリストを中心として限りなき大調和を実現すること、キリストに従って永遠に神の聖名を讃美すること、それが全宇宙の目的である。そのために天にあるもの地にあるもの一切のものが造られたのである。
この宇宙の目的は様々の言葉によって表現せられる。あるいは「それ造られたるものは切に慕いて神の子たちの現われんことを待つ」といい、あるいは「神は万の物を彼の足の下に服わせたまいたればなり」といい、あるいは「これ天にあるもの地にあるもの地の下にあるもの、ことごとくイエスの名によりて膝を屈め、かつ諸の舌の『イエス・キリストは主なり』と言いあらわして栄光を父なる神に帰せんためなり」という。しかしその最も代表的なるものはけだしエペソ書における次の一句であろう。曰く
すなわち時満ちて経綸に従い、天にあるもの地にあるものをことごとくキリストに在りて一つに帰せしめたもう。(エペソ一の一〇)
万物のキリストにおける帰一である、宇宙のキリスト集中である。ここに「一つに帰せしめ」と訳されし原語 anakephalaioo は多くの散乱したるものを一つの主要なる中心において集約することを意味する。その用法の最も良き実例をロマ書の次の言において見ることが出来る。「それ姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、貧るなかれといえるこの他なお誠命ありとも、己のごとく隣を愛すべしという言の中にみな籠もるなり」(ロマ一三の九)。みな籠もるなりとはこの原語の訳語としてははなはだ拙劣である。むしろエペソ書の場合と同様に「……という言に在りて一つに帰するなり」と改訳するは遥かにまさる。いずれにせよ、全文の意味は解しがたくない。律法に無数の誠命がある、その一々を実行せんとすれば際限を知らない。律法にもし統一がないならば、それを守る事は我らの道徳生活を混乱に終らしむる所以であろう。しかし渾沌たるごとき律法に大いなる統一がある、多岐多端の誠命に唯一つの中心がある。我らもしこの統一を発見しこの中心的誠命を守らば、すなわちそれによって全律法を実行し得るであろう。中心的誠命とは何か、曰く「己のごとく隣を愛すべし」である、愛である。全律法はこれを目的とする。ゆえにこの一つのものにおいて一つに帰するのである。愛は律法を完うするとはすなわちこの事をいう。
律法の渾沌たるごとく、宇宙もまた渾沌として見える。誠命の多岐であるごとく、万物もまた多端である。しかしながらその間に何らかの統一があるのではあるまいか。律法が愛を中心として一つに帰するように、万物もまた何ものかを中心として一つに帰するのではあるまいか。多分そうであろうと人は想像する。それを発見せんと欲して哲学者科学者宗教家芸術家らが昔より今に至るまで健気なる努力を続けつつある。かくのごとく渾沌の中に統一を探るということ、その事がすでに偉大なる努力である。宇宙の中心の探究は人たるものの栄光である。ましてこれを発見することは、一種の創造にも近きほどの喜びでなかろうか。創造の始めに、神、光あれと言いたもうて、すなわち原始の渾沌の中に美しき統一が現われ初めたのである。もし万物の中心が何処かに発見せられるならば、それによって宇宙の秘密がことごとく開かれるであろう。それによって人生と天然とに関する一切の謎が見事に解かれるであろう。
聖書はいう、万物の中心はキリストにある、宇宙は彼によって統一せられると。律法は愛のために造られた。ゆえに愛は律法を完うする。愛はもろもろの誠命の目的であり理想である。そのように、宇宙はキリストのために造られたのである、ゆえにキリストが宇宙を完うするのである。彼は万物の目的であり、理想である。万物がキリストを慕う、その潜める意識の底においてみな彼を慕う。しかして彼を迎え彼によって満たされる時にその存在の意義を成就するのである。
それは真理ではないか。すでにその多くの類例を我らは知っているではないか。我ら自身の内的世界もまたかつては渾沌たるものであった。様々の惨ましき矛盾と分裂と争闘とがその中にあった。しかるに一たびキリストを迎えるに及びて、不思議なる調和が我らの全性格の上に実現するを見たのである。人の性格はキリストによって完うせられる。家庭の平和は如何にして実現するか。キリストを迎えざる家庭に永久的の平和はない。彼を真の主人として仰ぐ家庭にのみ美しき統一と断えざる愛の結合とがある。社会の平和は如何。万国の平和は如何。みな同じ事である。ゆえにいう、「末の日にエホバの家の山は諸の山の頂に堅く立ち、諸の嶺よりも高く挙がり、すべての国は流れのごとくこれにつかん……かくて彼らはその剣をうちかえて鋤となし、その鎗をうちかえて鎌となし、国は国にむかいて剣を挙げず、戦闘のことを再び学ばざるべし」と。エホバの家の山はキリストである。万国は彼にありて一つに帰するであろう。同じように全宇宙がキリストによって完うせられるであろう。時満ちて彼の能力が著るしく豊かに傾注せらるる日に、自然は現在のすべての欠陥を癒されて、完全なるものに変化させられるであろう。天の使いたちさえ神の智慧の奥義を示されて、いよいよその輝きを増すであろう(エペソ三の一〇)。かくて「あるいは地にあるものあるいは天にあるもの、万の物が神と和ぐ」に至るであろう(コロサイ一の二〇)。
このゆえに宇宙の秘密を解くべき鍵はキリストである。彼によって開かれない門はない。近世科学はその進化の理法の発見によって大いなる謎を解いた。すべての生命は人を目的として進み、人にありて一つに帰することを明らかにした。しかしながら人の生命は何を目的として進むのであるか。生物のみならず数多の無生物を包括するところの全宇宙は何において一つに帰するのであるか。今なお解決せられない。思う、科学がキリストを発見するの日はすなわち科学完成の日ではあるまいか。カント哲学の深刻なる二律背反は何処にその調和を見出すのであるか。ダンテ神曲の荘美は何によるのか。秘密の秘密はキリストにある、解決の解決はキリストにある。
万物の完成、完全なる新宇宙の産出、これキリストの最後の使命である。彼は個人をおもい人類をおもうがごとくに万物をおもう。彼の興味は宇宙と共に広い。黙々たる山獄、怯える小鳥、爛々たる星斗、渦まく星雲、みな彼の博大なる同情の中にある。天上天下一切の被造物の呻き苦しみをキリストは残なく癒さんとする。これよりも狭きものはキリスト教ではない。
「旧約と新約」 第五四号、一九二四年一二月