一 教会の人格
十六世紀の宗教改革は伝統に対する自由の喊声、制度に対する個人の反抗であった。かつてイスラエルの国民的宗教に対して個人の信仰を高唱したるエレミヤの役目を、ルーテル、カルビン等は教会史上において再び繰りかえしたのである。彼らのこの貴き努力によってキリスト教がどれだけその本来の深みを発揮したかわからない。
しかしながら公平に見て宗教改革は決して完全なるものではなかった。改革者らは個人の救いを明らかにする事に全力をそそいだために、他の多くの重大なる問題に適当なる考慮を払うの余裕を有たなかった。教会問題のごときも確かに見逃されたるものの一つである。真実の教会は目に見えざるものである事を主張したほかには、改革者らは教会問題に大なる貢献をなさなかった。
教会とは何であるか。それは礼拝及び教化のための信者の団体であると多くの人は考えている。すなわち教会は個人の救いのための手段であると見られている。救いの目的は各個人の完き生活にある、神は人類ひとりびとりの霊魂に対して最大の興味を有したもう、キリストは失せたる一匹の羊をも見出さんがために来たのである、しかしてすでに見出されたる個々の羊が緑の野、憩いの水浜にともなわれんがために成すところの「群れ」がすなわち教会である、と普通に思惟せられているようである。
私自身もまた長らくそのように考えておったのである。しかるに近頃に至りある体験を通して私に示されたる教会の真理は、キリスト教の秘義である事を私は知った。誠に教会こそ神の経綸の奥義である。その観念の中には人生と宇宙との最も美わしきものがひそんでいるに拘わらず、それは今なお多くの人に解せられていない。この奥義を示されて、私は始めて代々に亙る神の経綸、すなわち創造および救贖の経綸の深さを知ることが出来た。それは少なくとも私一己にとりて極めて福いなる経験であった。今や私もまたパウロに倣うて言おうと思う、曰く「この奥義は黙示にて我に示されたり……我はすべての聖徒のうちの最小さき者よりも小さき者なるに、万物を造りたまいし神のうちに世々隠れたる奥義の経綸の如何なるものかを現わす恩恵を賜わりたり。いま教会によりて神の豊かなる智慧を天の処にある政治と権威とに知らしめんためなり。これは永遠より我らの主キリスト・イエスの中に神の定めたまいし聖旨によるなり」と(エペソ三の三、八~一一)。神の豊かなる智慧は教会によりて現われる。唯に万人のまえにのみならず、また実に天使らのまえにさえ現われるのである。それほどに教会は大いなる秘義である。
しからば教会とは何であるか。それは羊の群れではない、信者の団体ではない。教会はそれ自体において単一の人格者である。教会はキリストの新婦である、その佳偶である。その半身である。
新約聖書の読者は何人もここかしこに「キリストの新婦」又は「羔の妻」等の言葉に気付くであろう。しかしこれらの言葉によって表わさるる実体の何であるかを明瞭に知るものは少ない。しばしばキリスト者は個人たる自己にこれらの名を当てようとする。しかしながら注意して聖書を読むとき我らはその不当を発見するのである。私の研究にして誤まらないかぎり、聖書は一度びも個々のキリスト者をかようには呼ばない。かえってその間に微妙なる区別を表示しているのである。
たとえば黙示録第十九章に、大いなる群衆の声として、
ハレルヤ、全能の主、我らの神は統治らすなり、我ら喜び楽しみてこれに栄光を帰し奉らん。そは羔の婚姻の期いたり、すでにその新婦みずから準備したればなり云々。
の言葉が聞こえると共に、又ひきつづき天使の口より
なんじ書き記せ、羔の婚姻の宴席に招かれたる者は福いなり。
との声ひびくを見る。もちろん婚姻の新婦とその宴席に招かれたる者とは別個の観念である。しかしてここに招かれたる者とは個々の聖徒を意味すること疑いを容れない。しからば新婦は教会そのものを指す言葉でなくして何か。
「このとき天国は燈火を執りて新郎を迎えに出づる十人の処女に比うべし」というイエスの譬喩においても、我らは同じ区別を見る。個々の信者は新婦自身ではなくしてこれに侍するところの侍女である。彼らのうち備えある者は新郎とともに婚宴に入り、備えなき者は外の暗きに棄てられる。
この区別は旧約においてもまた同じように現われている。「わが心は美わしき事にてあふる」をもって始まる詩篇第四十五篇は王の婚姻のうたであって、羔の婚姻の預言と見るべきものであるが、その中にいう、
后はオフルの金をかざりてなんじの右に立つ……彼女は繍せる衣をきて王のもとにいざなわる、これにともなえる処女もそのあとに従いて汝のもとにみちびかれゆかん。彼らは歓喜と快楽とをもて誘われ、かくして王の殿に入らん。(詩四五の九、一四、一五)
ここにも后あり又これに伴う処女らがある。二者はひとしく誘われて王の殿に入る。しかし観念上において二者は明らかに区別せられる。
パウロはコリントの信者に書きおくって曰うた、「われ神の熱心をもて汝らを慕う、われ汝らを潔き処女として一人の夫なるキリストに献げんとて、これに許嫁したればなり」と(後コリント一一の二)。この場合には一見しては個々の信者に許嫁すなわち新婦の観念が適用せられたかのように見える。しかしその意味でない事は、「潔き処女として」の処女が単数の形に用いられているによって明瞭である。パウロはここに多数の個人よりむしろ単一の教会に着眼してかくいうたのである。
新婦と侍女とが別個の観念であるように、教会と個々のキリスト者ともまた別個の観念に属する。教会はキリスト者の団体ではない、侍女の群れではない。教会は新婦そのものである。
従って教会は個人の救いのための手段ではない。かえって個人の救いこそ教会の救いのための準備であると言い得る。ヨハネが聞きし大いなる群衆の声にいわく、「そは羔の婚姻の期いたり、すでにその新婦みずから準備したればなり。彼は輝ける潔き細布を着ることを許されたり、この細布は聖徒たちの正しき行為なり」と(黙示録一九の七、八)。聖徒たちが正しき行為をなすとき、彼らは新婦たる教会の着るべき細布を織りつつあるのである。
今のキリスト者は救いといえば何処までも個人の事であると考える。しかし個人は個人のために救われるのではない、教会のためである。「キリストの己を捨てたまいしは、水の洗いをもて言によりて教会を潔め、これを聖なる者として、汚点なく皺なく、すべてかくのごとき類なく、潔き瑕なき尊き教会を、おのれの前に建てんためなり」(エペソ五の二六、二七)。贖罪も再臨もその終局の目的は個人にあらずして教会にある。
かくのごとくに教会は個々のキリスト者の団体ではない、それ自身に単一の人格者である。しかし又キリストとの関係より見るとき、彼女は独立の人格者というよりもむしろキリストの一部分である。この関係を最も適切に表わさんと欲して、教会はキリストの体であると聖書はいう。すなわちキリストを首とするところの体である。
彼を万の物の上に首として教会に与えたまえり。この教会は彼の体にして、万の物をもて万の物に満たしたもう者の満つる所なり。(エペソ一の二二、二三)
首と体とが如何に密接なる関係にあるかを知るには人体を見れば足りる。首なくして体は生きず、体なくして首は生きない。二者はすなわち一体である。同じ生命が彼らを充たし、同じ運命が彼らを待ち、同じ歴史が彼らに定められる。このゆえに聖書はあるとき教会を呼んでキリストと言う。
体は一つにして肢は多し、体の肢は多くとも一つの体なるがごとく、キリストもまたしかり。(前コリント一二の一二)
学者らはこの「キリスト」の意味を説明し去らんとて兎角に苦心する。しかしパウロがかかる言い方をなした事に不思議はないと私は思う。妻たる者を呼ばんとしてあるとき夫の名を用いる事が何ゆえさほどに不思議であるか。教会はキリストと一体である。ゆえにこれを彼の名にて呼ぶは当然である。
教会と個々のキリスト者との区別については先に見たとおりであるが、我らは更に二者の関係を学ばねばならない。
その関係を表わすために聖書は三種の譬喩を用いる。第一は体とその肢である。第二は建造物とその部分である。第三は都とその要素である。
すべての真実なるキリスト者は、たとえ自ら欲せずとも必然に教会の肢を成しているのである、あたかも人体を構成するところの耳や手足のように。
体は一つ肢より成らず、多くの肢より成るなり。足もし「我は手にあらぬゆえに体に属せず」というとも、これによりて体に属せぬにあらず、耳もし「我は眼にあらぬゆえに体に属せず」というとも、これによりて体に属せぬにあらず。(前コリント一二の一四~一六)
かくすべてのキリスト者が必然に教会の肢を成すは、彼らが各々神より賜わりたる霊の賜物に従い、みなその職分を別ちながら、緊密に共同して、もってキリストの体たる機能を十分に現わさんがために外ならない。霊的分業と合力一致、この両半面はキリスト者生活の欠くべからざる要素である。神は各人にそれぞれ異なる能力を賜い、もって互いに幇助せしめたもう。すべてのキリスト者に独自の使命があり独自の活動がある。なくてはならないはずである。けだしこれによって教会そのものの活動が完うせらるるのである。
もし全身、眼ならば、聴くところはいずれか。もし全身、聴く所ならば、嗅ぐところはいずれか。げに神はみこころのままに、肢をおのおの体に置きたまえり。もしみな一つ肢ならば、体はいずれか。げに肢は多くあれど、体は一つなり。眼は手に向かいて「われ汝を要せず」と言い、頭は足に向かいて「われ汝を要せず」と言うことあたわず。(前コリント一二の一七~二一)
私自身が従来幾たびか信仰の兄弟に対して「われ汝を要せず」と言うの態度に出た事をいま主のまえに懺悔する。キリストの教会の何たるかを私はよく知らなかったのである。次の一段のごときはいみじくも教会の一致を力説して遺憾がない。
否、体の中にて最も弱しと見ゆる肢はかえって必要なり。体のうちにて尊からずと思わるる所に物を纏いて殊にこれを尊ぶ。かく我らの美わしからぬ所は一層すぐれて美わしくすれども、美わしき所には物を纏うの要なし。神は劣れる所に殊に尊栄を加えて人の体を調和したまえり。これ体のうちに分争なく、肢々一致して互いに相顧みんためなり。(前コリント一二の二二~二五)
これを言い換えれば、教会の中にて最も弱しと見ゆる信者はかえって必要である。尊からずと思わるる者は、愛をもって纏うて殊にこれを尊べ。美わしからずと思わるる者は、同情をもって蔽うて一層これを美わしくせよ。劣れる者を非難して分争することなかれ。かえって互いに相顧み相補うて、もって大いなる調和を実現せよと、いうのである。
さらに次の一節に至っては、如何に美わしきキリストらしき精神であるか。いわく、
もし一つの肢苦しまば、もろもろの肢ともに苦しみ、一つの肢尊ばれなば、もろもろの肢ともに喜ぶなり。すなわち汝らはキリストの体にして各々その肢なり。(前コリント一二の二六、二七)
一本の指の痛みはやがて全身の痛みである。眼に光を見るとき全身これを楽しむ。同じように、いと小さき一人の兄弟の苦しみは全地のすべてのキリスト者の苦しみでなければならぬ。一人の兄弟の名誉はすべてのキリスト者の喜びでなければならぬ。何となれば我らはキリストの体であって、個人としてはみな互いにその肢を成すものであるからである。
教会はまた建造物に譬えられる。かく見る時は、キリストは自らその隅の首石であり、使徒たちはその土台であり、しかして個々のキリスト者はその部分である。
汝らは使徒と預言者との基の上に建てられたるものにして、キリスト・イエス自ら隅の首石たり。(エペソ二の二〇)
主は人に棄てられたまえど、神に選ばれたる貴き活ける石なり。なんじら彼にきたり、活ける石のごとく建てられて霊の家となれ。(前ペテロ二の四、五)
キリストが始めて教会の事を語りたもうた時にも、この譬喩が彼の脳裏にあったと想像せられる。
我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我れこの磐の上にわが教会を建てん。陰府の門はこれに勝たざるべし。(マタイ一六の一八)
すなわち使徒たちの中にも殊にペテロを最も重き土台石として、建てらるべき家である。
しかして教会を家として見るときにも、その個人との関係については、これを体として見た時と異ならない。ひとしく分業及び合力の関係である。我らは前のように言うことが出来る、もし全家、柱ならば、風を防ぐところはいずれか。もし全家、壁ならば、雨を凌ぐところはいずれか。柱は壁にむかいて「我れ汝を要せず」と言うことあたわず、壁は屋根にむかいて「我れ汝を要せず」と言うことあたわない。否、家の中にて最も低く位置する土台のごときはかえって最も大切なる部分である。各部分は互いにその務めを分ちながら緊密に結び合う。かくて始めて家たるの本分を完うするのである(家のうちにも特別に宮に譬えられることが多い。この場合には、あたかもエルサレムの宮のように、一つの宮が多くの建造物の建て合わせられたものと見られる)(エペソ二の二一参照)。
最後に、教会はまた都である。すでに旧約の詩人が「河あり、その流れは神の都をよろこばしめ、至上者のすみたもう聖所をよろこばしむ。神その中にいませば、都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん」と歌うた時に、この観念が現われている(詩四六の四、五)。イザヤ又はエゼキエルにも神の都の預言があった。しかし都としての教会を最も美しき言葉もて完全に描き出したものは使徒ヨハネである。
我れまた聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許を出で、天より降るを見たり。(黙示録二一の二)
……七人の天使の一人きたり、我に語りて言う、「来たれ、われ羔の妻なる新婦を汝に見せん」。天使、霊に感じたる我を携えて大いなる高き山にゆき、聖なる都エルサレムの、神の栄光をもて神の許を出で、天より降るを見せたり。(黙示録二一の九、一〇)
ここに明白に「羔の妻なる新婦」とあるによって、都が教会の象徴であることにいささかの疑いもない。しかしてかく教会を都によりて象徴するは、永遠におけるキリスト者の生活の態様を示すに最もふさわしいからである。黙示録第二十一章二十二節以下第二十二章五節まではすなわちその描写である。例えば「主なる全能の神および羔はその宮なり、都は日月の照らすを要せず、神の栄光これを照らし、羔はその燈火なり、諸国の民は光のなかを歩み、……人々は諸国の民の光栄と尊貴とをここにたづさえ来たらん」といい、「神と羔との聖座は都の中にあり。その僕らはこれに仕え、かつその聖顔を見ん」という。これよりもよく永遠の生活を写し出すことは出来ない。
かくのごとく都としての教会において、キリスト者の生活態様を示すためには、彼らはその市民として見られる。しかしまた教会を構成する分子としてのキリスト者と教会との関係を示すためには、彼らは都そのものの物質的要素として見られる。あるいは門、あるいは石垣の基等これである。
ここに大いなる高き石垣ありて、十二の門あり、……門の上に一つづつイスラエルの子孫の十二の族の名を記せり。……都の石垣には十二の基あり、これに羔の十二の使徒の十二の名を記せり。(黙示録二一の一二、一四)
ヨハネの見たるこの都は「いと貴き玉のごとく、透き徹る碧玉のごとく」、燦爛として輝くところの壮麗きわまるものであった。しかして都なる教会がかくも美しくその装いを整えたのは、いう迄もなくその構成要素なる個々のキリスト者が光輝をはなつからである。
都の石垣の基はさまざまの宝石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり。十二の門は十二の真珠なり。おのおのの門は一つの真珠より成り云々。(二一の一九~二一)
あるいは碧玉、あるいはサフイヤ、あるいは玉髄、あるいはエメラルド、その他さまざまの異なりたる宝石が、おのおの独特の光輝をはなちつつ相連なりて、もって都の栄光を織り成すのである。まことに思い見るだに心ゆく光景である。一々の宝石の輝きが異なれば異なるほど都は美しく、その連結が密切であればあるほど都は堅い。
体である、また家である、また都である。体としては、個々のキリスト者はそのもろもろの肢であり、キリストはその首である。家としては、キリスト者はその部分であり、キリストは隅の首石である。また都としては、キリスト者はあるいは門、あるいは石垣の基、あるいはその市民であり、キリストはその宮また燈火である。これ教会をおもにキリスト者との関係において見た観察であるが、これをキリストとの関係において見るとき、教会はキリストの新婦であると言えばすなわちすべてを言い尽くして余りある。
二 創造の経倫中における教会の地位
教会は神の奥義である。それは新約の福音によって始めて啓示せられた。旧約にはその明白なる預言は一つもなかった。「この奥義はいま霊によりて聖使徒と聖預言者とに顕わされしごとくに、前代には人の子らに示されざりき」(エペソ三の五)。かく人の子らには示されなかったが、しかしながら神にありては、それは永遠よりの経綸の中にあった。ゆえにパウロは教会についていうたのである、曰く「万物を造りたまいし神のうちに世々隠れたる奥義の経綸」と。元始の万物創造の中に教会はもちろん極めて重要なる地位を占めて居ったのである。
万物は何のために造られたか。聖書は答えていう「天にあるもの地に在るもの、見ゆるもの見えぬもの、あるいは位あるいは支配あるいは政治あるいは権威、みな……彼(キリスト)のために造られたり」と(コロサイ一の一六)。キリストのための創造である。永遠の神の独子キリストのある要求を充さんがために宇宙は造られたのである。
しかし万物がキリストの要求を充すについても自らその間に秩序がなければならぬ。万物のうち直接にキリストに奉仕すべきものがある、間接にこれを幇助すべきものがある。すなわちそのキリストに対する関係によって万物を幾つかの範疇に別つことが出来る。
あらゆる被造物のうちその創造せられし時において又その置かれし場所において最も優れたるものは天使である。天使は神と共にエロヒムとさえ称せられ、神に似たる霊的存在者であって、天において常に彼の聖旨を実行する。その智慧と能力と威厳とにおいて、彼らは少なくとも現在の人間よりは遥かに高い。このゆえにダンテが煉獄浄罪の山の麓において一隻の船を導き来たる白衣の天使を望み見た時、導者ヴァージルは彼に指図していうた「いざいざ膝をかがめよ、見よ、神の天使を。合掌せよ」と。使徒ヨハネさえ一人の天使より最も荘厳なる宣言を聴いた時にその足下にひれ伏して拝せんとしたのである(黙示録一九の一〇)。しかるにも拘わらず、天使は被造物のうち最も貴きものではない。彼らは人の従者に過ぎない。「天使はみな仕えまつる霊にして、救いを嗣がんとする者のために職を執るべく遣わされたる者にあらずや」(へブル一の一四)。人のために職を執るべく遣わされたる者、それが数多の天の使者たちである。
天使を除きし被造物の中において、人の優越は問題なく明白である。神に象りて造られ、万物をその足下に従わしむべきものとして人は示される。万物は人に従たるものである。
かくて天使も万物もその直接の使命は人のためである。彼らは人を通してキリストのために貢献すべく造られたのである。人をしてその使命をついに完うせしめんがために天使は生き万物は存在するのである。みずから直接にキリストの要求を充すべく造られたものはただ人あるのみ。
ここにおいてか創造の目的は「人」をキリストに与えんがためであったと言い得る。
そこまでは多分何人も容易く承認し得るであろう。いま私の特に明らかにしたく思うは、そのいわゆる「人」の観念である。独子キリストのためにせられたる創造において、神は人を如何なるものとしてキリストに与えんと欲したもうたかの問題である。
思うに創造の目的はキリストの生命をいよいよ豊かならしめんがためであったに相違ない。「キリストのために」の意味をこれより以外に解釈しようがない。しかしてキリストの生命は神の生命とひとしく愛である。彼は永遠より父なる神に対する愛の生活をつづけている。この生命は素よりそれ自身において完全なるものである。しかしながら父は子を愛するのあまりに、彼の生命をなおも豊かならしめずしてはやむことが出来なかった。しかして生活を豊かならしむるの方法は、その生命を本として第二の自己を創造するにある。かくて複数の自己が相結び合うて有機的存在を続ける時に、愛の生命の要求は最もよく充される。神自身が永遠よりキリストと共にこの関係にあった。「太初に言あり、言は神と共にあり、言は神なりき」。言と称えられるキリストは、神の生命の飽くまでも豊かならんがために、太初に生まれたる神の半身である。同じように、神はおのが子たる者の立場におけるキリストの半身を創造せんことを欲したもうた。神が自己の生命をさらにキリストにおいて見出すように、キリストもまた自己の生命をさらに何者かにおいて見出すよう、彼の半身を創造せんことを欲したもうた。創造の目的は畢竟するにここにあったのである。
この消息を説明すべき好箇の譬喩はアダムのためにせられたるエバの創造にある。アダムは始め完全なる一箇の生命として存在した。しかし神は彼の生命をなおも豊かならしめんと欲して言うた、「人独りなるは善からず、我れ彼に適う助者を彼のために造らん」と。しかしてまず彼を深く睡らしめ、その生命の中心を代表する肋骨の一つを取り、これをもってエバを創造して、しかしてアダムに与えたもうたという。エバの創造の動機はさながらに万物創造の動機を説明する。
神のためにと生まれしキリストのごとく、あるいは一層適切には、アダムのためにと創造せられしエバのごとく、そのごとくにキリストのためにと創造せられしものがすなわち「人」である。かく見来たれば、創造の経綸の中における「人」の概念は、数多の個人に当らない事は明白である。兎に角にもそれは単一の人格者でなければならぬ、キリストの半身たるべき一箇の生命でなければならぬ。
それは何か。我らが先に研究したるキリストの新婦、すなわち教会こそまさしくそれではないか。
しかり、教会こそキリストの要求を充すべき彼の佳偶である。教会こそキリストの生命を豊かならしむべき彼の半身である。教会こそ適当に「人」と称せらるべきものである。
創造の目的は「人」をキリストに与えんがためであったと私は言うた。いま当然言葉を置き換えて私は再びいう、創造の目的は教会をキリストに与えんがためであったと。キリストのための教会であり、教会のための創造である。まことに万物の創造は教会のためである。神は遂に完全なる教会をキリストの新婦として彼に与え、もって彼の生命を限りなく豊かならしめんがために、天地を創造したもうたのである。ここにおいてか我らは知る、創造の経綸の中において、教会ほど重要なる地位を占むるものは一つもなかった事を。実に世の創より神の理想は個人たる人にはなくして教会にあったのである。
三 教会の生誕とその成長
創造の目的にして神の奥義なる教会は如何にして歴史上に実現したか。いうまでもなく聖霊の降臨によってである。キリスト復活後五十日なるペンテコステの日においてである。
思うに最初の人アダムにしてもし罪を犯さなかったならば、聖霊は多分すでに彼ら夫妻の上に降ったであろう。しかして教会の生誕は人の創造と相距たること遠くなかったであろう。ただ罪がプログラムを別のものにした。罪あり、その始末がなければならぬ。罪をそのままにしてキリストの新婦は造らるべきでなかった。四千年の世界歴史はその始末のために用いられた。
偉大なる十字架の贖いは遂げられた。キリストは栄光の姿に復活して、ふたたび父の許に帰った。地には備え成れる百二十人あまりの一団が一つの高楼に集うて、「心を一つにしてひたすら祈りを務め」ていた。
五旬節の日であった。暴風吹きすさぶようなる響き俄かに天より起こりて、彼らが坐するところの家に満ち、また火のごときもの舌のように現われ、分れて各人の上に止まった。そのとき彼らの生命にいまだかつて見ざりし大いなる変化が生じた。その時よりして彼らはもはや単なる個人ではなかったのである。聖霊と称えられる一つの霊、すなわちキリストの霊が彼らすべての中に宿りて、彼らを一つの体に組み成してしまったのである。言い換えれば、彼らはみな一つの聖霊の中に浸りて、その聖霊のゆえに再び離るべからざる有機的関係に結ばれてしまったのである。この経験の事を呼んで聖霊のバプテスマという。あたかも水のバプテスマにおいて水の中に浸るように彼らは聖霊の中に浸ったからである。
かくのごとくにしてキリストの新婦なる教会は生まれた。聖霊のバプテスマは謂わば彼女の使いし産湯である。従ってそれはもちろん唯一度びの経験である。ペンテコステの日に唯一度び教会そのものが聖霊のバプテスマを受けて生まれ出でたのである。爾来教会に加わるべき代々のキリスト者も理想的にはこの日すでにこのバプテスマに与かったのである。ゆえにいう、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と(エペソ四の五)。しかしてまたパウロもコリントの信者らも遥かに後れて教会に加わったに拘わらず、彼は彼らに書きおくって言うた、
我らはユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自主の別なく、一体とならんために、みな一つ霊にてバプテスマを受けたり。(前コリント一二の一三)
新婦はすでに生まれた。爾来彼女は日々に成長をつづけつつある。キリストの体は絶えず発育しつつある。それは最初に百二十人の肢より成ったが、同じ日のうちにはや三千人のものがこれに加わった。その後パウロの恵まれたる働きに基づき、万国の民がこれに加わりまた加わりて、二千年後の今日にまで及んだのである。しかしながらその体はいまだ完きに至らず、新婦はいまだ十分に成人しない。別個の譬喩をかりて言うならば、夕餐すでに備わり、僕は遣わされて町の大路小路より数多の貧しき者らを連れ来たったが、しかしなお余りの席があるのである(ルカ一四の一五~二四)。席は満たされねばならぬ。体は完うせられねばならぬ。新婦は備えを整えねばならぬ。
こののち神はその僕を「道や籬の辺にまで差し遣わして、人々を強いて連れきたらしめ、彼の家に充たしめ」たもうであろう。しかしこのようにして我ら個人が救いに与かるは、我ら自身のためではない事に注意せねばならぬ。救贖の目的は創造の目的とひとしく、個人にはなくして教会にある。今はなお不完全なるキリストの体が完成せられんため、今はなお未熟なる彼の新婦が遂に彼と永遠の婚姻の関係に入らんため、そのためにこそ我ら各自が救われつつあるのである。聖なる都の光輝いや増さんがためにこそ我らは潔められつつあるのである。
このゆえに私はいう、個人主義はキリスト者生活の敵であると。ひとしくキリストの霊を受けて生まれかわり、ひとしく彼の体の肢たる関係に結ばれしものが、自己のみを守って善かろうか。我らの生命の籬はすでにキリストにありて撤去せられたはずである。我らは一本の葡萄樹に連なる枝として、同じ生命の連帯所有者に過ぎない。しかり、我らの主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つであるように、我らの生命もまた実は一つである。さらば兄弟姉妹よ、我らをしておのが生命の周囲に高き塀を築いて相離れしむることなく、かえって同じ血潮の不断にかよう肢体のように、今少しく自由に愛と同情とを交換せしめよ、今少しく相互のあるいは苦きあるいは甘き酒杯を分たしめよ。
「旧約と新約」第五八号、一九二五年四月