第一 山上の嘉信

藤井武

イエスがまだガリラヤの村々を巡って神の国の福音を宣べつたえている頃であった。彼の噂をきいて、多くの群衆が集ってきた。イエスは群衆を見るとき、大抵これを避ける。このときも彼は避けるようにして、或る山にのぼった。そうして爽やかな微風に吹かれながら、青草の上に坐した。群衆はおおむね麓にとどまり、ただイエスを師とあおいで尊敬する少数の弟子たちだけが、彼の跡を追ってきて、足許に集った。すなわちこの熱意ある人々を見おろしながら、彼はおもむろに口を開いて言った――

第一信 祝福

さいわいな人!それはどういう人ですか。心の貧しい人です。心の富、心の財産というものをたない人です。自分の胸の中に、誇るべき何ものをも見いださない人、却って様々の恥づべき霊的ガラクタのゆえに我ながら愛憎を尽かしている人、自分は罪人のかしらだと言うことのできる人、そのたましいが陶器せと断片かけらのように砕けてしまった人、そういう人がほんとうに幸福なのです。なぜというに、天の国はそういう人のものですから。天国といって、沢山の徳を積んだ立派な人たちに与えられるご褒美ではないのです。反対に、それは霊的無産者たちにめぐまれる賜物です。嬰児おさなごのような虚しい心のもののみがそこに受入れられるのです。

さいわいなのは、悲しむ人だ。悲しんで泣いている人だ。心を何かに噛まれている人、その痛みのために呻いている人、歎きのために疲れている人、眼瞼まぶたは涙のためにただれ、心臓は熱のために破れようとしている人、たましいが石のように重くうなだれている人、そういう人は幸福さいわいです。なぜというに、その人は慰められるから。そうです、悲しむ者はきっと慰められる。この世では悲しむのが当り前なのです。悲しむべき事があなたがたの内にも外にも満ちているではありませんか。今の世に笑いさざめく者は誰ですか。ここでは悲しむ人がほんとうに生きている人です。だからその人はきっと慰められる、その目の涙がみんな拭われる時が来る。その心の傷がすっかり癒される時が来る。来なくてはなりません。

さいわいなのは、柔和な人です。虐げられ、踏みつけられて、なおはげしい言も出さず、羊のように忍んでいる人、欺かれ、掠められて、なお取返そうともせず、奴隷のように甘んじている人、そういう人は、この世では一番みじめな人でしょう。けれども憶えていなさい、後に地を嗣ぐのはこの人たちなのです。虐げる者、掠める者らが、何時までもゆるしておかれる筈がない。今こそ世界は彼らのもののように任されてあるが、しかしこれは暫くの事です。やがて時が来るのです。そのとき彼らは籾糠もみがらのように吹き去られなければなりません。そうして地は彼らの手からもぎとられて、踏みつけられ欺かれた者らにわたされるのです。世嗣が家督を嗣ぐように、柔和な人はおのれの嗣業ゆづりとして必ず地を嗣ぐのです。実にこのみじめな者、この無きがごとき者こそ、やがて全世界を領有し統治すべき未来の王者たちに相違ないのです。

さいわいなのは、義に飢え渇く人です。義です、義しさです。義しくありたい、義がほしい。断食した人が食物を求めるように、熱病をわづらう人が喉の渇きをおぼえるように、義に飢え渇く人、牝鹿が渓川の水を慕いあえぐように、義を慕いあえぐ人、何よりも先ず第一に義しくありたいとの願いに燃えたっている人、その人は幸福さいわいです。なぜというに、その人は飽くことができるから。ほかの願いは聴かれなくとも、この願いだけはきっと聴かれる、飽くまでに、満ち足るまでに聴かれる。自分をとりまくすべての関係、自分の存在のあらゆる状態が完全に義しくなるまで、たましいが義をもって飽和されるまで、およそ義ならぬものは内にも外にもその痕跡さえ残さなくなるまで。何と幸福さいわいではありませんか。

又さいわいなのは、憐憫あわれみある人です。人を想いやるこころ、可哀想だ気の毒だというこころの先立つ人、責めるよりもまず赦そうとする人、自分を忘れ、自分を棄て、自分を犠牲にして、人を立てようとする人、受けるよりも寧ろ与えることを喜ぶ人、その人は幸福さいわいです。なぜというに、その人自身が或る大きな憐憫あわれみを受けるからです。実に人は憐憫あわれみなしには生きることができないのです。神があなたがたを憐みたもうのでなければ、あなたがたは滅びるよりほかない。恐ろしい審判さばきというものがある。どうしてそれを免れようか。ただ彼の憐憫あわれみによるばかりです。神は憐憫ある者を憐みたもうのです。神に憐まれるものは幸福さいわいです。

さいわいなのは、心の清い人です。すなわち心が透き徹って外から見とおせる人、思いが単純であって、裏表のない人、二心ふたごころをいだかず、虚偽いつわりを知らない人。なぜというに、その人は神を見ることができるから。不純な心では神が見えない、黒いはらには聖者の姿はうつらない。ただ一すじの誠をもって神のみまえに出る者のみが、まのあたり彼のみかおをあおぐことをゆるされるのです。そして神を見るにまさって幸福な事がどこにありますか。

さいわいなのは、平和を作る人です。闘争をにくむこと蛇蝎のごとく、出来るならば平和を実現しようと絶えずつとめる人、分裂を見ては堪えがたさに心おののき、いかなる代価を払っても之を癒さなければやまない人、分裂や闘争の根本原因をつきとめて、身をもってこれを取り除こうとする人、平和の殿堂のためには人柱に立つことをさえ厭わない人、そういう人は幸福さいわいだ。なぜというに、その人は神の子と呼ばれるから。神は平和を作る方です。彼はみずから絶大の犠牲を払って、万物との間の平和を実現しようとしておいでになる。だからまたすべて平和を作る者をお喜びになる。そうして我が子よといって彼らに呼びかけたもうのです。

さいわいなのは、義のために責められた人です。義しさのために人からにくまれ、排斥され、迫害された人、不義姦悪なるこの世が置くに堪えなくなった人、そういう人のためにこそ別の国が備えられる。すなわち天の国です。天の国はこの世に安住する者のためには無用です。それはただ義のために責められた人たちのものです。

皆さん!あなたがたは遠からず私のために人から罵られ、責められ、いつわって様々の悪口を言われるようになりますぞ。その時はあなたがたは幸福さいわいです。喜びなさい、大悦びしなさい!なぜなら、あなたがたの報いは天において大きいのだから。天の国は豊かな饗宴の備えをしてあなたがたを待っているのだから。考えてみなさい、あなたがたより前の預言者たちも、みなそういう風に責められたではありませんか。エリヤでもエリシャでも、アモスでもホセアでも、イザヤでもエレミヤでも。そうして彼らはみな天にあるものを望んで、喜んでその迫害を受けたではありませんか。

人はあなたがたを軽しめるでしょう。世の芥のように、地の垢のようにあしらうでしょう。しかしそのためにあなたがたは自分の地位の重さを忘れてはなりませんよ。あなたがたは何ですか。垢ではない、塩です、地の塩です。塩があればこそ、物は腐らずに保つのです。あなたがたがあればこそ、世界は滅びずにのこるのです。何でもない人たちのようだが、あなたがたの存在の意義は実に深い。然るにその塩がもしけてしまったらどうですか。何でそれに塩づけるのですか。もうそうなっては仕様がない。外に棄てられて、人に踏まれるだけだ。あなたがたがもし俗化してしまったら、それこそ無用の長物だ。

またあなたがたは世の芥ではない、世の光です。芥なら谷底に埋められるがいい。けれども光なら高く輝かなければならない。山の上にある町は隠れないものです。それは何処からでも見えるのです。また人はランプをけたとき、升の下に置きますか。置かないでしょう。必ずランプ台の上に載せるでしょう。うしてこそランプは初めて家の中にあるすべての物を照らすのです、すなわちランプとしての役目を果たすのです。そのとおりに、あなたがたもあなたがたの光を人の前に輝かさなければなりません。それがあなたがたの役目です。あなたがたがそうしなかったら、誰が世を照らしますか。誰が真理を伝えますか。誰が道を示しますか。全世界は今や真暗まっくらではありませんか。人々はみなうもののない羊のように迷っているではありませんか。お起ちなさい、光をはなちなさい!私があなたがたの光になってあげるから。そうしたら人々はあなたがたの善い行為おこないを見て、天にいますあなたがたの父を崇めるだろう。

第二信 天国の義

私の言う事やする事が新しいからと言って、私は旧い律法おきてや預言者(即ち旧約全体)を破壊しに来たのだと思ってはなりません。破壊しにではない、却って成就しに来たのです。すなわち律法や預言者を十分に引伸ばして、その理想を実現するために私は来たのです。ほんとうに私はあなたがたに言うが、律法おきてはみんな完うせられるのですぞ。天も地もやがては過ぎ往くだろう。けれどもそれまでに、律法は一点、一画も過ぎゆくことなく、みんな完うせられるのです。モーセの伝えた事は、悉く満されるのです。それをするのが私の使命です。私のもたらす天の国は律法の理想の実現した国に他ならない。だから誰でも之等のいと小さい誡命いましめの一つを破り、又そういう風に人に教える者は、天の国に於いていと小さい者と呼ばれるだろう。これに反して、誰でもそれを行い、又人に教える者は、天の国に於いて大いなる者と呼ばれるだろう。かの国においては律法の義は理想的に完全に行われなければならない。私はあなたがたに言うが、あなたがたの義は当然、学者やパリサイ人よりも勝るものでなければなりません。勿論のことです。もしそうでなかったら、あなたがたは天の国に相応ふさわしくない者です、それでは決してかの国に入ることができません。あなたがたがもし私に従うなら、必ず全き義人になれる筈です。私の国の義は全き義です、律法の理想とするところはそこにあるのです。それに比べては律法はあまりに低い。だから私は律法を高め、これを十分に引伸ばして、そうしてその理想を実現するために、すなわち律法を成就するために来たのです。

例えば、昔の人にこう言われたことをあなたがたは聴いているでしょう、いわく「なんじ殺すなかれ、殺す者は審判さばきにあうべし」と。しかし私はあなたがたに言う、すべて兄弟を怒る者は審判にあうだろう。また兄弟にむかって馬鹿という者は衆議にあうだろう。また痴者たわけという者はゲヘナ(地獄)の火にあうだろう。殺すなかれという律法の理想は、ただ殺さないというだけの事にあるのではない。怒るは殺すの始めです。怒る者すなわち殺す者です。だからもし殺す者が審判にあうなら、すべて兄弟を怒る者もまた神の審判にあわなければならない。怒って馬鹿と言う者も最後の衆議にわたされなければならない。憎んで痴者たわけと言う者も永遠に消えぬ地獄の火に投入れられなければならない。天の国においてはすべて之らの事は一様にゆるされないのです。神の前における罪としての価値ねうちは、殺す事と全く同一です。

だからもしあなたが神を礼拝しようとして供物そなえものを祭壇にささげるときに、そこで何か兄弟に怨まれる事、たとえば曾て彼を怒って悪言を吐いたような事があると思い出したら、供物をそのまま祭壇の前に遺しておいて、先ず往ってその兄弟と和睦しなさい。そうしてから来て、供物をささげるがいい。殺人にひとしい罪を犯しながら罪とも思わずにうち遣りおいて、それでいて神の礼拝も何もあったものではない。小さな事のように見えても、神の前にはどんなに大きな罪であり、従ってどんなに重い刑罰に値するのかを考えなければならない。既に訴えられた場合ならば、訴える人と一しょに裁判所へゆく途中で、一刻も早く和解しなさい。さもなければ、訴える人はあなたを裁判官に引渡しますぞ。裁判官はまた下役に渡し、そしてとうとう、あなたは牢屋にぶちこまれますぞ。ほんとうに私はあなたに言うが、一旦そこまで往ったら、一厘も残なく償わないかぎりは、永久にそこから出ることができないのです。そうして勿論それは償うことのできる負債ではない。

また「姦淫するなかれ」と言われたことをあなたがたは聴いているでしょう。けれども私はあなたがたに言います、すべて色情をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫をしたのです。

恐ろしい事です。ゲヘナに投げ入れられる罪です。その罪を犯す機会が到るところにあなたを待ち受けているのです。どうかしなければなりますまい。どうしますか。一体あなたを躓かすものは何ですか。右の目ですか。もしそうなら、右の目をくじり出してお棄てなさい。それは五体の一つだけが亡びて、全身がゲヘナに投げ入れられぬために必要な事だ。それともまた躓かすものは右の手ですか。もしそうなら、右の手を切ってお棄てなさい。それは五体の一つだけが亡びて、全身がゲヘナに往かぬために必要な事だ。

またこう言われているでしょう、「妻をいだす者は離縁状を与うべし」と。しかし私はあなたがたに言う、淫行の理由による場合のほか、すべて自分の妻をだす者は、妻に姦淫をしろというのだ。また誰でも、出された女と結婚するものはみな姦淫を行うのだ。なぜなら、妻を出しても夫は依然として彼女の夫であり、夫にだされても妻は相変らず彼の妻だから。夫妻は神のまえに永遠に一体です。神がこれを合せたのです。どうして人が勝手に離すことができますか。律法の言は不完全だが、そのほんとうの精神、その理想はそこにあるのです。

また昔の人にこう言われたことをあなたがたは聴いているでしょう、いわく「いつわり誓うなかれ、なんじの誓いは主に果たすべし」と。しかし私はあなたがたに言う、一切ちかってはなりません。偽りの誓いだけではない、誓うことその事が間違いです。なぜ誓うのですか。もし自分に真実があるなら、殊更に神かけて誓うには及びますまい。もしまた真実がないのに誓うなら、それは何という甚だしい聖名の濫用でしょう。実に容易ならぬ罪悪です。そうして大抵はそうなのです。真実がなければこそ誓うのです。誓いは真実の証明ではなくて、却って真実欠乏の証明だ。いけません。いけません。直接に神を指しては勿論のこと。たとえ間接に他のものを指してでも同様です。天を指して誓ってはいけません。天は神の聖座みくらだから。地を指して誓ってはいけません。地は神の足台だから。エルサレムを指して誓ってはいけません。エルサレムは大君エホバの都だから。また自分の頭を指して誓ってはいけません。髪の毛一筋すら自分で白くも黒くもすることが出来ないのだから。すべては神のものです。何を指しても神を指すのです。おのれの不真実の埋め合せにそうして聖名を濫用してたまりますか。

誓うのではありません。ただ「然り」「然り」、「否」「否」と言いなさい。それでいいのです。単純な肯定でなければ、単純な否定です。真実はその中にあるのです。然りなら然りです。否なら否です。きまっていることだ。それで沢山だ。ほかに何の保証がろうか。それより以上の事は虚偽いつわりから出るのです。そうです、悪魔から出るのです。

「目には目を、歯には歯を」と言われたことをあなたがたは聴いているでしょう。しかし私はあなたがたに言う、悪人に抵抗しなさるな。人がもしあなたの右の頬を撃ったら、左の方をも向けてやりなさい。あなたを訟えて下衣を取ろうとする者には、上衣をも取らしてやりなさい。人がもしあなたに一里ゆくことを強いたら、一しょに二里往きなさい。願う者にはくれてやるがいい。借りたいという者には拒まないがいい。自分の愛する者のためなら誰でもそうするでしょう。ほんとうに愛さえあればできる事です。愛は悪にむくいるに悪を以てしません。却って善を以て悪にむくいます。律法の理想とするところは結局そこにあるのです。

「なんじの隣人を愛し、なんじの敵を憎むべし」と言われたことをあなたがたは聴いているでしょう。しかし私はあなたがたに言う、あなたがたの敵を愛しなさい、あなたがたを憎む者を善くしてやりなさい、あなたがたを誼う者を祝してやりなさい、そしてあなたがたを侮辱しあなたがたを迫害する者のために祈りなさい。難かしいですか。しかしそれでこそ天にいますあなたがたの父の子ですぞ。子は父になければならない。あなたがたの父はどんな方ですか。その太陽を悪人のうえにも善人のうえにも昇らせる方、雨を義者にも不義者にも降らせる方ではありませんか。天の父のまえには隣人も敵もないのです。みな愛されるのです。みな慈悲を受けるのです。然るにあなたがたはただ自分を愛する者だけを愛したとて、何の報いに値しますか。取税人でもそうするではないか。兄弟ばかりに挨拶したとて、何の勝ることがあるのです。異邦人でもそうするではないか。報いてもらおうと思って人に貸したとて、何のよみすべき事があるのです。罪人でもそうするではないか。いやしくも神の子たるものは、遥かに高いところに上らなければならない。そうです、あなたがたの天の父は完全な方です。だから私はあなたがたに言う、あなたがたも必ず完全な人におなりなさい、お父さんと同じように!

* * *

何という偉大な宣言であろう。それはほんとうに律法の成就である。有限的な律法がここに無限的なものに引き伸ばされている。天そのもののように無制限であり無条件である事がこれらイエスの言の特徴である。此の世のあらゆる制限は撤廃され、あらゆる条件は排斥されて、何でもが極端に走っている。どこまで往こうとするのか見究めがつかない。全く気味がわるい。これをこのまま素直に受入れる事は容易でない。余りに高過ぎて、ついて行くことができない。そこで大抵の人は色々の場合における例外を認めた上で、ようやく之に従おうとする。例えば一切ちかうなと言っても、此の世との関係においては誓約をせぬ訳にゆかぬ場合もあるなどという(マイヤー註解参照)。しかしそういう風に解釈するのは、せっかく無制限無条件に引伸ばしてくれたイエスの言にもう一度制限を加え条件をつける事であって、いわば彼を天から地に引落そうとするのである。そのくらいならば、イエスが口を開くは徒然いたづらであったのである。イエスの言をそこなうな。容易でないにもせよあるにもせよ、天からの音ずれは地上の小さな物尺で測ることなしに、そのままこれを受入れねばならぬ。誓うなと言ったら誓うなである。悪人に抵抗するなと言ったら抵抗するなである。何処までも絶対的な無限的な意味に解するよりほかない。然らばかのいわゆる無抵抗主義者ら(例トルストイ)のように、我々は何でもイエスの言どおりの行動をとればよいのか。一切誓わず、一切抵抗せねばそれでよいのか。否、そうではない。たとえば右の頬をうたれたとき、心の中で「この憎い奴が」と思いながら左の頬を差し出して見たところで、何になるか。それは形式本位の偽善に過ぎない。それよりもむしろ思いきり撃ち返してやる方が、どれだけまさっているかわからない。イエスの言うのは形式のことではない、精神である。誓うなというは、誓う必要のないほどに誠実であれというのである。抵抗するなというは、たとえば下衣を取ろうとする者があった場合に、「君はそんなにまで困っているのか。気の毒な人だ。私は別に裕かな身ではないが、しかしさしあたり是が無くては凌げぬというわけでもないから、どうだ、是も一しょに持っていったら」と、そう心の底から言って上衣をも取らせることが出来るだけの愛をもて、というのである。この誠実、この愛は、無制限、無条件なものでなければならぬ。これには微塵の例外をもゆるすことが出来ない。しかし問題は飽くまでも精神にあって形式にない。無条件の誠実、無制限の愛さえあれば、それでよいのである。誓約の形式をとるとらぬ、左の頬をだすださぬは必ずしも問題でない。もし無条件の誠実をもって尚かつ誓い得る場合があるとしたら、誓ってもよい。もし無制限の愛をいだいて尚かつ人を撃ち返し得る場合があるとしたら、撃ち返してもよい。そうしてそういう場合がないとは誰が断じ得よう。誓う誓わぬ、出す出さぬは、みな形である。形はめるわけにはゆかない、又定めるべきものでない。形を固定さしたら生命いのちは死んでしまう。誠実は生命である、愛は生命である。形はどうでもよい。しかし生命は必ず無限のものでなければならぬ、誠実と愛とはいかなる場合にも例外をゆるすことなき絶対のものでなければならぬ。然り、それは実に天の父の完きがごとく完きものでなければならぬ。そうしてみずから生命であり真理であり愛であるイエスこそはこの事を我々に可能ならしめてくれるのである。彼の名は讃美すべきである。

第三信 善は秘密に

だが、あなたがたの義を行うについては、気をつけなさい。人に見られようとおもって、人の前でやらないように。この虚飾、この偽善が何よりもいけない。天にいますあなたがたの父はこれが大嫌いだ。この事を気をつけなければ、父から報いは得られない。

だから、たとえば慈善をするとき、自分のまえにラッパを鳴らしなさるな。自家広告をやりなさるな。偽善者らは人に崇められようとおもって、会堂や町々でよくやることだが。ほんとうに私はあなたがたに言う、あの人たちはもうその報いを得たのです。もともと人に見られたさの慈善なのだから、見てもらえばそれで本望を遂げたわけだ。その上の望みはありはしない。しかしあなたが慈善をするときには、右手のする事を左手にも知らせなさるな。そのようにしてあなたの慈善は秘密にさるべきです。そうすれば秘密の中に見たもうあなたの父が報いて下さるだろう。慈善は秘密にです。

また祈るときでも、あなたがたは偽善者のようにしてはいけません。彼らは人に見られようとおもって、会堂や町々の辻に立って祈ることを好むのです。ほんとうに私はあなたがたに言う、かれらはもうその報いを得たのです。かれらの祈りは確かに聴かれたのです。本来、神に聴かれるための祈りではないのだから。しかしあなたは、祈るときにはあなたの部屋に入りなさい。そしてその戸を閉じて、秘密の中にいますあなたの父に祈りなさい。そうすれば秘密の中に見たもうあなたの父が報いて下さるだろう。祈祷は単独に、かつ秘密にです。

また祈るとき、異邦人がするように、いたずらに繰返言くりかえしごとを用いなさるな。かれらは言数ことばかずを多くして聴かれようと思うのです。愚かな事だ。だから彼らに倣ってはいけない。あなたがたの父は、お願いする前に、すべてあなたがたの必要なものをご存じであられる。だからあなたがたはこういう風に祈るがいい。

天にいます私どものお父さま、
聖名みなが崇められますように。
聖国みくにが来ますように。
聖意みこころが成されますように、天においてと同じく地におきましても。
私どもの日用の糧を今日もお与え下さい。
また私どもの負債おいめをおゆるし下さい、私どもも自分に負債ある者を免しましたように。
また私どもを誘惑の中に陥れず、悪者あしきものからお救いだし下さい。

大体こういう風に。別だんくどくどしく神にものを申し上げる必要はない。まず子どもらしい信頼をもって、肉の父にいうように、「お父さま」と呼びかけるのです。ただしそれは天にいます父であることを忘れてはならない。父ではあるが、至高いとたかき方であることを。

さて祈るべき事の第一は、自分の事ではない、人の事でもない。神ご自身の事です。神は天地万物を創造つくり、聖意みこころのままにこれを統べ治め、またこれを完きに導きたもう方です。地とそれに充つるもの、世界とその中に住むものとはみな彼のものです。あなたがたも勿論彼のものです。あなたがたの生きているのは自分のためではなくして彼のためです。万物の存在がひとえに神の栄光のためだ。だから祈りはまず第一に神ご自身の事に関わらなければならない。中んづく彼の聖名が崇められること、神が神として最高無二の尊敬を受けたもうこと、万物が彼のみまえに絶対無下の恭順を表わすこと、それは実に人生の至上善であり、宇宙の終局目的であるのです。天地の造られた理由も、あなたがたの生きている所以も、みなそこにある。従ってあなたがたの一切の祈りはこの一つの事に尽きるのです。この事さえかなえば、凡てがかなったのです。神が神として完全に顕われたもうのであったら、もうそれで十分ではないか。ほかにまた何の願うべき事があろうか。「聖名が崇められますように!」そうです。それが祈りの始めです、また中です、また終わりです。

そのように、聖名の崇められる事をもって、あなたがたの祈りはもはや尽きているのです。しかしながらこの大きな祈りのこころは、もう少しゆっくり天の父に言い表わされたい。この輝かしい望みのおもいは、もう少しほかの方面からも神に告白されたい。

聖名の崇められる世界、それはすなわち聖国みくにです。神が完き統治をおこないたもう国です、従って全き義の国です。そこでは神みずから人とともにいまして、義をもって彼らを統べおさめたもう。また彼らの目の涙をことごとく拭い去りたもう。悲しむ者が慰められ、柔和なる者が地を嗣ぎ、義に飢え渇く者が飽くことのできるのは、みなこの国においてです。なんと慕わしい国ではありませんか。しかもこの国は人の努力によってうち建てられるのではない。神の定めたもうたときに、天からくだってくるのです。あたかも刈りとった牧場にふる雨のように、地をうるおす白雨むらさめのように。願わしきはこの国の速やかに来たらんことだ。「聖国が来ますように!」これがあなたがたの第二の祈りでなくてはならない。

聖国は今は天にあるのです。あすこでは今現に神の聖名みなが正しく崇められている。神の統治が全く行われている、神の聖意みこころがそのままに成されている。天の万軍と呼ばれる使いたちは、ひたすらにみことばを聴いてこれを守りいそしみ、また夜昼となく聖なるみ名を讃めたたえているのです。実に美わしのきわみです。然るに地上ではどうですか。昔から今まで叛逆の絶えたときがない。「エホバ天より人の子を望み見たまいしに、みなそむきいでて、悉く腐れたり。善をなすものなし、一人だになし」と聖書にあるとおりだ。この叛逆は根底から癒されなければならない。人の子はみな立ちかえって神の子となり、神の喜びたもう事のみを為すものと成らなければならない。およそ聖意みこころにかなわぬ事は地の上に絶えて見られなくなるまでに、万物があらたまらなければならない。「聖意が成されますように、天においてと同じく地におきましても!」あなたがたの祈りの第三はこれです。

聖国が天から地にくだって来て、聖意が天におけると同じく地にも成されるならば、そのとき聖名は天地に隈なく崇められるのです。そうして聖名が崇められさえすれば、神が神として顕われたまいさえすれば、あなたがたの願いはもはや満ち足るのです。ほかに祈るべき事はない筈だ。けれども天の父はあなたがたが弱いものである事をご存じであられる。彼はあなたがたが先ず彼ご自身に関する永遠の事を祈ったのちに、今度は自分の立場に立って、弱い自分に関する目前の事をも祈ることをおゆるしになる。

あなたがたが自分の立場に立って日々に出会う問題は何々ですか。その代表的なものは、肉については糧の問題、霊については罪の問題でしょう。それらのすべてを天の父に訴えなさい。事毎に憚らず祈りなさい。

あなたがたの肉体を養うものは神です。だから糧を人に求めず神にお求めなさい。神に生活を支えて戴きなさい。ただし慾張ってはいけない。必要以上のものを求めるのでない。今日は今日一日分だけを願うのです。日用の糧について祈るのです。すなわち「私どもの日用の糧を今日もお与え下さい」と。今日は今日だけ。

あなたがたは自分が罪びとである事を知っているでしょう。みな罪びとです。みな神にそむき、みな神の律法おきてを犯しているのです。即ちあなたがたは神に負債おいめある者です。しかも大きな大きな負債、とても償いきれぬものです。どうかそれを免していただく事を祈らなければならない。ついてはまず自分に負債ある者から先に自分が免してやることです。おのれ自身が神に対してどんな負債ある身であるかを思えば、人の自分に対する負債が何です。免しておしまいなさい。そうしてから神に祈りなさい、「また私どもの負債をお免し下さい、私どもも自分に負債ある者を免しましたように」と。もしあなたがたが人の過失あやまちを免してやれば、あなたがたの天の父もあなたがたを免して下さるだろう。けれどももし人を免さぬくらいならば、天の父もあなたがたの過失を免しては下さるまい。

またあなたがたは誘惑の恐ろしさを知っているでしょう。何処からともなく悪い者が胸の中に忍びこんで、逆らいきれぬようにあなたがたに囁くのです。到るところに深い陥穽おとしあながあって、うっかりすると忽ちその中にあなたがたは転げ落ちるのです。もし神が助けて下さるのでないなら、もし神がその手を引いてお見棄てになるなら、たとえどんなに自分で努力しても到底うち勝つみこみはない。それほどに誘惑者の力は強いのです。だからひたすらに祈りなさい、「また私どもを誘惑の中に陥れず、悪者あしきものからお救いだし下さい」と。そう言って何処までも天の父にすがれば、きっと聴かれるでしょう、きっとあなたがたはすべての誘惑を征服することが出来るでしょう。

またあなたがたは断食をするとき、偽善者のように悲しそうな容子ようすをしてはいけない。彼らは断食していることを人に見られようとおもって、その顔色をそこなうのです、或いは灰を塗ったり、或いはよごれたまま洗わなかったりなどして。ほんとうに私はあなたがたに言う、彼らはもうその報いを得たのだ。断食者らしく見られればいいのだから。しかしあなたは、断食するときは頭に油を塗りなさい、また顔をきれいに洗いなさい。そのようにして、断食していることを人には見られず、ただ秘密の中にいますあなたの父だけに見られるようにすべきです。そうすれば秘密の中に見たもうあなたの父が報いて下さるだろう。断食は秘密にです。およそ善行はみなそうです。すべてあなたの義をおこなうとき、人に見せなさるな。秘密の中に父にのみ見ていただきなさい。人に見られようとおもう心は、義をその源から濁してしまうのです。いやしくもこの心があっては、どんな善行も神には喜ばれない。

第四信 信頼

あなたがたの財宝たからは何処にありますか。それを地に積んでは駄目ですぞ。ここでは虫も食えば錆もつくのです。また盗人ぬすびとが穴をあけて盗むのです。せっかく積んでもむだです。財宝を天に積みなさい。あすこは虫も食わず、錆もつかず、また盗人が穴をあけて盗むこともないのです。安全なのは此処ではなく、あすこです。なぜそんな事を私は言いだしましたか。つまりあなたがたの財宝たからのある所に、あなたがたの心もあるからです。もしあなたが財宝を地に積むなら、すなわちあなたの心を地に繋ぐなら、あなたは結局馬鹿を見なければならない。地のものを慕う心は、そのものと一しょに朽ちるのです。地の財宝はあなたの心をいたましくも裏切ります。之に反して、あなたがもし財宝を天に積むなら、すなわちあなたの心を天に移して、あすこにあるものを慕い求めるなら、それならあなたはいつまでも安全です。天の財宝はあなたを裏切ることがないから。頼るべきものは地のものではなくて天のものです。

これは小さな問題ではありませんよ。財宝を何処に積むべきかを見わける目は大事です。元来、目というものは身の燈火ともしびなのです。全身の光はただ目から来るのです。だからもしあなたの目が正しくものを見ることができれば、あなたの全身があかるいのです。けれどももしあなたの目がわるければ、全身が暗いのです。目のよしあしは馬鹿にできない。全身の運命がそれに係わるのだから。同じように、心を何処に置くべきかの判断は大きな問題です。地のものに頼ろうか、それとも天のものに頼ろうか。ここに正しい理性の判断が必要です。もしあなたの中にある光、すなわち理性が暗かったら、あなたの全生活の暗さはどんなだろう。即ちもしあなたの理性が判断を誤って、あなたは天のものに頼らず、地のものに頼るとしたら、実にあなたの生涯のすべてが失望に終らなければならない。

地か、天か。二つに一つです。どちらかを選ばなければなりません。両方ともというわけにはゆかない。人はふたりの主人に兼ね仕えることはできないのです。或いはこの人を憎んでかの人を愛するか、或いは反対にこの人に親しんでかの人を軽しめるか、とにかく人の心はどちらか一方にかないではいられないのです。あなたがたは天にも地にも財宝たからを積むことはできない。あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない。もし天に心を置くというなら、断然、地を慕うことをおやめなさい。もし神に頼るというなら、絶対に富に頼るこころをお棄てなさい。

だから私はあなたがたに言います、何を食らおうか何を飲もうかと、生命いのちのことを思い煩いなさるな、また何を着ようかと身体からだのことを思い煩いなさるな。生命は糧よりも勝るではないか。身体は衣よりも勝るではないか。あなたがたは既にその勝る方のものをっているのです。神がそれを与えてくださったのです。すでに身体を与えたもうた神は、どうしてそれに必要な衣を与えてくださらないだろうか。すでに生命を賜わった神は、どうしてそれに必要な糧をも下し賜わらないだろうか。空の鳥をごらん。播きもしなければ、刈りもせず、また倉に収めもしないのです。然るにあなたがたの天の父はこれを養ってくださる。あなたがたはかれらよりも遥かに優れた者ではないか。よしまた自ら思い煩ってみたところで、それが何になるのです。あなたがたの誰がそのために生命を寸陰なりとも延ばすことができよう。生命の事はみな神の聖手みてにあるのです。また何ゆえ衣のことを思い煩いますか。野の百合はどうして育つかを考えてごらんなさい。労しもしなければ、紡ぎもしない。それだのに、私はあなたがたに言います、栄華を極めたソロモンさえ、その装いはこの花の一つにも及ばなかったのです。数えるに足らぬ野の草ではありませんか。今日あって、明日ははや炉に投げ入れられる野の草。それをさえ神はこのように装いたもうのです。然らばいわんやあなたがたに於いてをやです。ああ信仰のうすい人たち!

だから何を食らおうか、また何を飲もうか、また何を着ようかといって、思い煩うことはおやめなさい。これらはみんな神を知らない異邦人たちが切に求める事柄です。あなたがたには天の父がある筈です。そのあなたがたの天の父は、すべてこれらの物があなたがたに必要だということをご存じであられる。だから一切みずから思い煩うことをやめて、彼にお委せしておけばよろしい。糧のことや衣のことをとやかく思い煩うのは孤児みなしごです。あなたがたは孤児ではありますまい。

一体、神は何のためにあなたがたに身体からだを与え生命いのちを与えてくださったのです。まさか衣や糧のことを思い煩うためではあるまい。生活、生活といって、衣食の問題に追われている人は、生まれなかった方がよかったのだ。あなたがたの身体の本領はどこにありますか。神の義をおこなう事にあるのではありませんか。あなたがたの生命の目的は何ですか。神の国につらなる事ではありませんか。だからあなたがたは地につける詰まらぬ心配を断然棄て去って、まず第一に神の国と神の義とを求めなさい。神の国の市民たるに相応しきものとなること、神の義しいように義しいものとなること、何を措いてもまずそれを求めなさい。そうすればすべてそれらのもの、飲みもの食いもの着ものなどは、必ずあなたがたに加えられるでしょう。あなたがたが自分の分を尽くせば、神は彼の分を尽くしてくださる。

だから明日あすのことを思い煩いなさるな。明日のことは明日に委しておきなさい。その日にはその日の苦労だけで十分だ。何を苦しんで翌日の分までを先取りする必要があろう。信頼の「その日暮し」がほんとうの生活です。

第五信 審くなかれ

あなたがたは人の過失あやまちを見ると、とかく自分の過失を忘れて人をさばきたくなるでしょう。しかし審きなさるな、審かれないためにです。あなたがた自身を顧みてごらん。大きな審判さばきを受くべき身ではありませんか。そんな憶えがないと誰がいえますか。活ける神の手に陥るのは恐ろしい事です。そのようにみずから審かるべき身でありながら、なお厚かましくも人を審こうとするとは。むしろ人の過失を見たら自分の罪を思いだしなさい。そうでなくて、もしあなたがたが自分を忘れて人を審くなら、もしあなたがたが高ぶった心をもって人を量るなら、そのあなたがたが審く審判で、あなたがた自身が審かれなければなりません。そのあなたがたが量る計量はかりで、あなたがた自身が量られなければなりません。神は審くものを審きたもうのです。人を審くものは自分の審判を積むのです。なぜあなたは兄弟の目にある塵を見ながら、あなた自身の目にある梁木うつばりを認めないのですか。どうしてあなたは兄弟にむかって、お前の目から塵を取りのぞかせろと言おうとするのですか、ごらん、あなた自身の目に梁木があるのに。偽善者よ、まず自分の目から梁木を取りのぞくがいい。そうしたらはっきりと見えて、兄弟の目から塵を取り除くことができるだろう。

虚しい事のついでに、もう一つ私は注意しよう。聖なる物を犬に遣ってはいけませんよ。また真珠を豚の前にほうってはいけませんよ。恐らくかれらはそれを足の下に踏みつけ、そうして振りむいてあなたがたに噛みつくだろう。あなたがたは思うかも知れない、犬でも豚でもただくしてやりさえすればいいのだと。しかしそういう親切の虚しさは、妄りに審くことと変わらないのです。犬には犬に遣るべきものがあり、豚には豚にほうるべきものがある。もしあなたがほんとうに聖なる物の聖さを解するなら、また真珠の貴さを知るなら、どうしてそれをパン屑や蝗豆のように、造作もなく犬豚のまえに投げだすことができよう。偽りの謙遜は倣慢ほどわるい。

第六信 求めよ

求めなさい、そうすれば与えられるでしょう。尋ねなさい、そうすれば見いだすでしょう。叩きなさい、そうすれば開かれるでしょう。ついに与えられるまで、見いだすまで、開かれるまで、ひたすらに求めなさい、余念なく尋ねなさい、一心に叩きなさい。なぜというに、すべて求める者は得、尋ねる者は見いだし、叩く者は開かれるに相違ないのだから。昔からそうでした。今もその通りです。この後とても変わりはありません。天にいますあなたがたの父は、与えることを喜びたもう方です。必ず惜しむことなく与えたもう方です。彼は限りなき富を天に備えて、あなたがたの求めるのを待っておいでなさる。求めて与えられなかった人は誰ですか。必ず与えられることを信じなかった人ではありませんか。そんな人は仕方がない。疑うものは風に動かされる海の波のようなものだ。求めるようでもあれば、求めないようでもある。結局ほんとうには求めていないのだ。その人が何物も受けないのは当然の事です。あなたがたは疑わないで信じなさい。信じて、子どもらしい信頼をもって、求めなさい。あなたがたの中には子どものある人もあるだろう。そういう人にその子どもがパンを求めたとき、誰が石を与えますか。また魚を求めたとき、誰が蛇を与えますか。それならば、あなたがたはとても比べられぬほど悪い者でありながら、なお善い賜物を子どもらに与えることを知っているではありませんか。まして天にいますあなたがたの父は、求める者に善いものを与えて下さらない筈があろうか。善いもの、そうです、一ばん善いものです。それをきっと与えてくださるのです。断じて間違いはありません。この事に関わるかぎり、あなたがたを失望させるおそれは絶対にないのです。

このように、天の父はおしみなく善いものをあなたがたに与えてくださる。そうしてそれは言うまでもなく、あなたがたにとって最も望ましい事です。あなたがたに最も望ましい事を、神は必ずかなわして下さる。けだし彼はあなたがたの要求をご自身の要求のように感じたもうのです。天にいますあなたがたの父はそういう性格の方です。だからあなたがたも考えなければならない。ほんとうに私はあなたがたに言う、凡て人にられようと思うことは、そのようにまた人になさい。これこそ神のみこころです。これこそ律法そのものです、預言者そのものです。この事ができれば、律法の義はことごとく完うされるのです。およそ誡命いましめは「姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ」と数々あるが、しかしすべてはこの一言に帰するのです。もう一度私は言います、「凡て人にられようと思うことは、そのようにまた人になさい」と。これは律法の完全まったきです。

第七信 磐の上の家

狭い門から入りなさい。なぜなら、滅亡ほろびにみちびく門は大きくて、その路は広いのだから。立派です、愉快です、便利です。宮殿の玄関のようです、大都会の広小路のようです。大いに心惹かれます。だからそこから入る者が多いのです。大抵はその方に押しよせます。これに反して、生命いのちにみちびく門は狭くて、その路は細いのだから。窮屈です、陰気です、貧弱です。墓地の入口のような、裏街うらまちの露地のような。少しも見栄みばえがありません。だからこれを見いだす者は少ないのです。何千人に一人とかいうほどの、極めて僅かの人たちだけがこれを選ぶに過ぎません。誰しも大きくて広い方が好ましい。けれども気をつけなさい、だまされぬように。そちらの行先にまつものは滅亡の谷だ。却ってこちらの見すぼらしい方にこそ輝かしい生命の国が横たわっているのです。生命は狭い門からです。

また気をつけなさい、偽預言者たちに。彼らは羊の皮をかぶってくるけれども、一枚剥いで見れば、内は奪い掠める狼なのです。あなたがたを真理から虚偽へ、生命から滅亡へ、神から悪魔へと堕落させようとするのが、彼らの目的なのです。実に恐ろしい奴らです。だまされては大変だ。だが、よく気をつければ、見ぬくことは必ずしも難かしくない。その結ぶによって知ることができる。果というものは正直なものです。考えてごらんなさい。いばらから葡萄をとる者がありますか。あざみから無花果を摘む者がありますか。そのように、すべて善い樹は善い果をむすぶのです、悪い樹は悪い果をむすぶのです。反対に、善い樹は悪いを結ぶことができない、悪い樹は善い果を結ぶことができない、さればこそ、すべて善い果をむすばない樹は悪い樹ときめられて、伐られて火に投げ入れられるのです。偽預言者たちを見わけるのも同じことだ、やはりその果をよくしらべるのだ。すなわち彼らがほんとうに義をおこなっているかどうかと。彼らは預言者らしい言を発してはいる。しかし私にむかって主よ主よという者がみんな天の国に入るのではない。ただ天にいます私の父のみこころを行う者だけがそこに入るのです。そうでなかったら、その日々の実生活が義しいものでなかったら、たとえどんなに神の子らしい装いをしていても、伐られて火に投げ入れられるよりほかない。恐らくその日には多くの者が私にむかって言うだろう、「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言したではありませんか」「主よ、私たちはあなたの名によって悪鬼を逐い出したではありませんか」「私たちはあなたの名によって多くの能力ちからあるわざをしたではありませんか」と。その時私は明白に彼らに言うだろう、「私はちっともお前たちを知らない。そこを退きなさい、この不法をおこなう人たち!」と。

それゆえ、行うことが肝心です。行うかどうかによって、真実ほんとう虚偽うそかが判るのです、真実ほんとうに私の言を聴くものは、必ず行うのです、行なわないではいられない。これに反して、聴いて行なわない者は、実は聴かないのだ。心から私にき従う者ではないのだ。偽りの従者に過ぎないのだ。だから凡て私のこれらの言をきいて行う者は、ちょうど磐の上に家を建てたかしこい人になぞらえられるだろう。やがて来るべき日が来る。そのとき豪雨は沛然はいぜんとふりそそぐ。濁流は滔々と氾濫する。暴風はすさまじく吹きあれる。そうしてその家をうつ。けれども倒れない。それは私という磐の上にしっかりと建てられたからです。また凡て私のこれらの言をきいて行なわない者は、ちょうど砂の上に家を建てた愚かな人になぞらえられるだろう。雨がふる。流れがみなぎる。風が吹く。そうしてその家をうつ。すると忽ち倒れる。しかもその倒れ方たるや惨憺たるものだ。

* * *

イエスの言はようやく終った。人々は長いあいだ彼の容子ようすに目をそそぎながら、電気にでも撃たれたかのように黙然と聴いていた。聴いている間は自分の心もちもはっきりと意識されなかった。しかしいま声が消えてみると、彼らは何か大きな感じに圧されている。驚きである。それはイエスの話ぶりが学者のようではなくて、権威ある者のようであったからであった。

〔『旧約と新約』第一〇四号、一九二九年二月〕