第二 空の鳥、野の百合

藤井武

我等の霊の渇きは、おそかれ早かれ、ナザレの人の子に向かって帰らねばならぬ。イエスの言葉にまさりて清冽なる泉はない。もし聖書が人生の緑の野であるならば、福音書は特に瑞々みずみすしき若葉のくさむらである。ガリラヤの山上よりまた湖畔より響き出でし声の鮮かさよ、なつかしさよ。ここに神学の衣を着けない真理の単純なる発露がある、ここに土の匂いを帯びない真清水の味がある、ここに永遠の生命そのもののいぶきがある。

この故にわれ汝らに告ぐ、何を食らい、何を飲まんと、生命いのちのことを思い煩い、何を着んと、体のことを思い煩うなかれ。生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。(マタイ六の二五)

時はいま春である。うす霞の空に雲雀ひばりは声をつくして歌い、若草の野に花はよそおい美しくかおる。ひとり市に村に人の子らわびしく思いわずらうは何ゆえか。

我等に生命がある、養わねばならぬ。我等に体がある、まとわねばならぬ。まず生活の保証なくして、何の善き事か完うし得られよう。まず充ち足るまでに糧を我等に与えよ、また衣をも。然らば我等は安んじておのおの己が使命にいそしむであろう。まず貧しさより我等を解放せよ、然らば我等にも修養の余裕は生まるるであろう。まず我等をして必要なる資金を積ましめよ、然らば我等が献身的の奉仕は始まるであろう。

然るに人は多くして地は狭い。土は呪われて徒らに荊棘とあざみとを生ずる。加うるに社会組織は乱れて階級は階級を圧制する。虐げらるる者は額に汗するもなお食うことを許されない。

ここに於いてか生活問題の脅威は大である。人々みな己が家にありて思いわずらう、曰く生命のために何を食らい何を飲むべきか、曰く体のために何を着るべきかと。

愚かなるかな、生命を懐いて糧のために憂え、体を備えて衣のために悶える人々!思え、汝らの生命は如何にして獲得せられ、汝らの体は如何にして具備せられたかを。汝ら曾て自ら思いわずらって之等のものを造り出さなかったのである。汝らみな価なくして之を受けたではないか。汝らの天の父は汝らの知らざる時、知らざる所に於いて、之を造り、しかして之を汝らに与えたではないか。

愚かなる者よ、生命と糧といずれがまさるか、体と衣と何れが貴いか。汝らのために生命をさえ産み体をさえ造って之を与えた者は、何とてそれに添えて必要なる糧および衣をも汝らに供給しないであろうか。

生活の保証をと人々はあせり求める、或いは雇主に向かって、或いは社会制度に向かって、或いは国家政府に向かって。何たる見苦しき戸惑いぞ。汝等は神の保証を見ないのか、汝等自ら労せずして受けたところの汝等の生命又は体そのものの中に、何よりも確かな神の保証を。疑いもなく、神は汝等をして飢え又は凍えしめんが為に之等のものを造らなかったのである。もしくは汝等をして思い煩わしめんが為でもない。断じてさる筈がない。神は或る高き目的のために健やかなる生命と体とを造り、之を汝等に与えていう、めぐまれたる子らよ、往け、往って汝等の使命を完うせよと。然るに汝等答えて曰う、父よ、我等飢え且つ凍えんことを恐れる。我等をして先ず何を食らい何を飲み何を着んかを思い煩わしめよ。我等をしてまず何処かに生活の保証を求めしめよ。然るのち我等己が使命にくであろうと。さながら生命と体とを神より貰わなかった者の口吻こうふんである。禍いなるかな、勝れる賜物を忘れ、使命を後にして思い煩いを先にする者。

まず勝れるものを与えて、必然劣れるものを待ち望ましむるは、神の取りたもう途である。「己の聖子みこを惜しまずして我ら凡てのためにわたし給いし者は、などか之にそえて万物を我らに賜わざらんや」(ロマ八の三二)。神の独子にまさる貴き賜物は絶対にない。しかして神は先ずこの至上のものを我等に賜うたのである。ここに人類の偉大なる希望の根拠がある。既にキリストを受けた者が、どうして天国の栄光を望まずにいられようか。既にエホバを捉えた者が、どうして豊かなる生活を期待せずにいられようか。「エホバは我が牧者なり、我れ乏しきことあらじ」(詩二三の一)。我等に造られたる生命がある、故に豊かに養われるであろう。我等に与えられたる体がある、故に美しく装われるであろう。

空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父はこれを養いたもう。汝らは之よりも遥かにすぐるる者ならずや。汝らのうち誰か思い煩ってその生命を寸陰も延べ得んや。(マタイ六の二六、二七)

真理は研究室よりも寧ろ野にある、神学書よりも寧ろ自然にある。暫く出でて、一羽の鳥、一茎の野花に、尽きせぬ恩恵の音ずれを学べ。

春、朝まだき、窓外既に喜ばしきさえずりの声を聴く。思いわずらいを知らぬ小さきものが、早やその讃美を始めたのである。かくて日の落つるまで、きょうも彼等は福いなる空中の舞踏を続けるであろう。彼等は曾て播かない、刈らない、また貯えない。しかも彼等に糧の欠乏ありしを聞かない。踊りつつ彼等は集め、歌いつつ彼等はついばむ。彼等に生命を与えた者が、ひそかに餌をも所在に備えて、以て彼等を養いたもうのである。

大空に鳥の歌たかく響きわたる時、地には讃美のこえ絶えて、憐むべき人の子らの呻吟のみ伝わるとは、何たる自然の皮肉ぞ。ああ我等は何ゆえに歌うことが出来ないのか。兄弟姉妹よ、何ゆえに我等は歌い得ないのか。空の鳥をすらかく養う者は実に我等の天の父ではないか。「二羽一銭にて売られる雀」よりも我等は劣る者であるのか。神は如何ばかり遥かに優るる者として我等を造ったかを思え。「われ汝の指のわざなる天を観、なんじの設け給える月と星とを見るに、世の人は如何なるものなれば之をみこころに止め給うや、人の子はいかなるものなれば之を顧み給うや。ただ少しく人を神よりもひくく造りて、さかえ尊貴とうときとをこうぶらせ、又これに聖手のわざを治めしめ、万物をその足下に置き給えり」(詩八の三―六)。また贖われしのちの我等の特権の高さを思え。「見よ、父の我らに賜いし愛の如何に大いなるかを。我ら神の子と称えらる。既に神の子たり」(ヨハネ一書三の一)。この故に人としては、嬰児みどりご乳児ちのみごの口にさえ讃美を備えられ(マタイ二一の一六)、クリスチャンとしては、詩と讃美と霊の歌とをもて語り合い、また主に向かいて心より且つうたい、かつ讃美せんことを奨められている(エペソ五の一九)。「聖徒は栄光の故によりて喜び、そのふしどにて悦びうたうべし」とあるではないか(詩一四九の五)。然るに何事ぞ、讃美は之を雀や雲雀に譲って、思い煩いは首のうなだるるまでに自ら之を引受けようとする。己が尊貴と神の栄光とを汚すこと之よりも甚だしきはない。浅ましいかな、人の子、殊に神を父と呼ぶクリスチャンのやから。

自ら思いわずらう事によって我等は生命のために果たして何ほどの貢献を為し得るか。神取らんと欲したもう時に当たって、たとえ一代の名医がその天才を尽くすとても、之を寸陰だに延ばすことが出来ない。生命の建造と保護とはいつにエホバの聖手にある。「エホバ家を建てたもうにあらずば、建つるものの勤労はむなしく、エホバ城を護りたもうにあらずば、衛士えじの醒め居るは徒労むなしきことなり。なんじら早く起き遅くねて辛苦の糧を食らうは空しきなり」(詩一二七の一、二)。思いわずらいに勝る徒労はない。これ生命の保存ではなくして、却ってその最大の浪費である。

又なにゆえ衣のことを思い煩うや。野の百合は如何にして育つかを思え。労せず、紡がざるなり。されどわれ汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装い、この花の一つにもかざりき。今日ありて、明日炉に投げ入れらるる野の草をも神はかく装いたまえば、まして汝らをや。ああ信仰うすき者よ。(マタイ六の二八―三〇)

小だかき丘のかげ、うち繁る小草の間に黙然としてかおる白百合一輪、之を見出でて心躍らぬほどの者はめぐみに与かるべくもない。

その気高き装いは誰が手のわざか。無心の野花に思い煩いはない。百合は曾て自ら労せず、自ら紡がないのである。ただ己に体を与えし者に凡てを委せて、その装いたもうままにかおるのみ。神は野の草を生え出でしめたが故に、また之がために美しき衣を備えたもうのである。

神の備えたもう装いの美しさよ。人の技巧に成る装いの卑しさよ。

人そのものは一切の聖手のわざを治むるの地位に立たしめられ、諸の天、その星と日と月、全地、その万物、野の獣、空の鳥、海の魚、諸の海路をかようものまで、みな其の足下に置かれている。かくて一人の嬰児みどりご乳児ちのみごに全宇宙を以てしても代えがたき尊貴がある。しかして人のうちのいとも位高きもの、大王ソロモン、しかしてまた彼自身が栄華の極みにあった時のそのたぐいなき装い(ソロモンの栄華が如何ばかり盛んなるものであったかは歴代志下九の一五以下を見よ)、恐らくそれは人の手の営み得るかぎりの美しさであって、世は前にも後にも之にまさるものを示し得ないであろう。人の自ら思いわずらって造り出すべき装いは此処に至って窮まる。

然るにこの燦爛としてまばゆき大王の栄華を、一たび野の百合に対比せよ。人そのものを神のわざとして見て、栄光に充つる大自然の全体だに、その貴さ、乳児ちのみごのひとりにもかないことを我等は知った。然るにいま人のわざに着目する時、栄華を極めたるソロモンだに、その装い、自然のうちのいと小さき野花の一つにもかないことを見るのである。何たる対照!何たる倒錯!何たる諷刺!

価値判断は神の目に於いて顛倒する。自然に近きものほど、装いとして美しくある。柔和、恬静なる霊の婦人が、それにふさわしき飾りなき清潔の衣をまといたる、又は忠実なる農夫が土に塗れし粗布の労働服を着けたる、いずれも遥かにソロモンの装いにまさりて、美しき好箇の画題である。虚飾を排斥せよ。美は人の技巧に無い、神の直接のみわざにある、もしくはそれに似たるものの中にある。もし多くの人が、殊に婦人たちが、この一つの単純なる真理に目さむるならば、如何ばかり無益の思いわずらいが節約せられ得るであろう。かつまた如何ばかり我等の社会が美化せられ得るであろう。

体を与えし造り主は、またそれに添えてふさわしき衣を備える。これその者をして使命を完うせしめんがためである。野の草の使命は何か。恐らくは一夕、村の童らの鎌にかけられて、貧しきかまどを温むるの料とせらるる時に、彼等の謙遜なる望みは足るのであろう。かく今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をすら、まばゆきほどの美しさを以て神は装いたもうものを、まして我等をや。ああ我等の使命は何か。人として、クリスチャンとして、我等の負わせられたる使命は何か。思うてここに至る時、「ああ信仰うすき者よ」との一言が両刃の剣のように我等を刺すを覚える。まことに思い煩いはただ迷謬ではない、不信である、罪悪である。

さらば何を食らい、何を飲み、何を着んとて、思い煩うなかれ。これみな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり。(マタイ六の三一、三二)

棄てよ、不信のこころを。やめよ、思い煩いを。父の愛の充つる世界にありながら、何を食らおうか何を飲もうか、何を着ようかと、如何に不信者(異邦人)らしき心理よ。我ら願わくは信頼ぶかき子どもの如くあらんことを。凡て之等のものの我等に無くてならぬ事を、我等自身よりもく知っている者は天の父である。彼をして我らのために適当なる糧と衣とを備えしめよ。しかして我等をして彼を信じつつ委ねられたる使命のために全力を尽くさしめよ。

再び問う、我等の使命は何か。人として、クリスチャンとして(クリスチャンは人の最も人らしきものに過ぎない)、我等に負わせられたる使命は何か。

まず神の国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。(マタイ六の三三)

神はまことに我等をして食いもの飲みもの着物の類を思い煩わしめんが為に我等を造り又は贖い給わなかったのである。否、彼の目に於ける我等の貴さは我等自身の日ごろ想像するよりも遥かにまさる。彼は我等をして彼自身の仲間たらしめんことを欲するのである。換言すれば、彼は己の国を、己の義を、そのままに我等のものたらしめんことを欲するのである。我等が天国の民たらんこと、しかして神の義なるが如くに義なるものとならんこと、ここに我等の使命がある。糧と衣との思いわずらいではない、神の国と神の義との追求である。そのための生命であり、そのための体である。

求めよ、天国を、義を。之を求めつつある時にのみ我等は天の父のみむねにかなって己が本分を尽くしつつあるのである。子弟が余念なく修学しつつある時、之に学資を給しない父兄があろうか。軍人が生命を賭して国の為に戦いつつある時、之に兵糧を送らない国民があろうか。然らば我等の天の父を世の父兄又は国民よりも劣るものとなすは誰であるか。疑う者は先ず自ら試みよ。試みに先ず汝の一切をささげて神の国と義とを求めて見よ。証明は実験にある。疑いの声を出す者はみな実験を惜しむ卑怯の徒である。私は敢えて問う、天国と神の義との追求にその生涯をささげたる聖徒らにして、「わがさかづきは溢るるなり」との歓びの叫びを挙げなかった者が唯の一人でもかつてあったかと。あらば私に告げよ、読者よ、如何。

しかし私は強いて多くの人の執拗なる懐疑に一歩を譲って、或る場合を仮想する。もしここにひとりの男もしくは女が、イエスの奨めに従って、神の国と神の義との追求に一切をささげたが為に、例えば餓死してしまったとせよ。

すべての人がいとつまらぬ思い煩いの為に討ち死にしつつある間に、ひとり天国と神の義とのための戦死!ああそれは如何ばかりの光栄ぞ、幸福ぞ。かくてたおれたる彼又は彼女に何の後悔のおもいがあり得ようか。かえって之を羨むことを知らない者こそ呪われたる人でなければならぬ。

この故に明日のことを思い煩うなかれ、明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。(マタイ六の三四)

今日に迫れる餓死又は凍死の危険はない。すべての思い煩いは少なくとも明日以後に係わると言うことが出来る。未だ実現せざる、しかして実際ついに実現せずに終るべき危険のために、人々は思いわずらいつつあるのである。

さらぬだになやみ多き人生である。思いわずらわずとも我等の経験すべき苦労は決して少なくない。何を苦しんで重荷の上に更に無益の重荷を重ねようか。今日には今日に属する苦労がある。きょう一日の分としてはそれにて既に足るのである。然るをそれにて足らずとて、慾ふかくも明日の分までをも盗み来たり、かくて苦労の上になお思い煩いを積むものは誰であるか。明日に属する苦労は明日自身をして之に当らしめよ。しかして知る人ぞ知る、明日がやがて今日の限界内に移り来る時、それは糧と衣との危険をまた次の一日に委ねて来ることを。

クリスチャンもまた神に似て永遠の現在に生きる。彼は後ろにあるものを忘れる、それと共に明日のことを思いわずらわない。ただ今日と称うるうちに神の国と神の義とを求めてしかして自ら安んずる。かくの如くにして今日既に彼は神の国に在るのである。

〔第三四号、一九二三年四月〕