第三 患難について

藤井武

一 患難問答 最も善き事

問 「あなたは今度の災害(大正十二年関東大震災。――編者)を国民に対する神の審判と見るならば、多くの罹災者もまた自分の罪のために罰せられたのであると考えますか。」

答 「いや、断じてそうではありません。そういう風な考え方は、何か言いがたき不快を覚えさせるほど私に縁遠きものであります。人(個人)の患難を見て、冷ややかにも直ちにその人の罪を連想するような心持はイエスの僕たる者の胸のうちに場所を見出すべからざるものであると私は信じます。その事を教えんがためにヨブ記という世界最大の書が著わされたではありませんか。又イザヤが「まことに彼は我らの病患なやみを負い我らの悲しみを担えり。然るに我ら思えらく、彼はせめられ、神にうたれ苦しめらるるなりと。」と言ったのも、かかる高ぶりの心情に対する大いなる皮肉ではありませんか(ヨハネ九の三参照)。私は今度の罹災者もまた我らの病患を負い我らの悲しみを担ったのであると信じます。彼らは我らに代わって撃たれたのであります。我らは彼らに負う所こそあれ、審くべき何ものをもちません。私はただ心よりの哀悼と同情とを彼らに寄せるのみであります。」

問 「然らばなぜ彼らのみが選ばれたのでありましょうか。」

答 「それはほんとうに聖旨みこころであります。神は彼らひとりびとりについて、最も善き事を為したもうたのであるに相違ありません。そしてその動機は深き深き愛であったに相違ありません。恐らくすべての罹災者が、此の事なかりせば受くべからざりし大いなる恩恵を既に受け、又は受けんとしつつあるのでありましょう。そして大いなる災害が彼ら自身にとっては大いなる感謝に値するのでありましょう。例えば横浜フェリス女学校長ミス・カイパーの立派なる最期のことなどを聞きます時に、私共は不幸というごとき感じを悉く忘れて、彼女のために感謝の声を挙げざるを得ません。神は確かに彼女を選びて最も善き事を行いたまいました。そしてその他の人々の場合にも、神の方より見ましたならば、みな同様であろうと思います。」

問 「あなたのいわゆる最も善き事とは何ですか、霊性の進歩とでもいうような事を意味しますか。」

答 「霊性の進歩はすぐれて善き事ではありますが、しかしそれにもまさりて最も善き事があります。聖旨の成る事であります。人生の或る患難は余りに深刻であって、それが自分の霊性の進歩のために与えられし恩恵であると聞いても、なお尽きざる所あるの思いを禁じ得ません。しかし最後にそれが神自身のためであることを知る時に、私共の心は満たされて余りあります。けだし聖旨の成就は霊性の進歩よりも遥かにまさる事なるが故であります。人は結局自分の為に生き得るものでありません。生命は愛であります、従って生命は相対的存在者であります。生命は愛する者に己をささぐるに由てのみ充実します。そしてその愛の対象たる人格が偉大であればあるほど、生命の充実は全きを得るのであります。神のため、その聖旨の成就のためにわが生命をささぐるにまさる幸福が何処にありましょうか。人生最も善き事は神の聖旨の成就であります。そのための患難と解して、患難は最大の恩恵であり、特権であり、幸福であります。」

注 フェリス女学校長ミス・カイパーは、震災当時校舎の梁の下敷になりながら、救助に来たらんとする女生徒を危険の故に制止し、別辞を述べ、讃美歌「ややにうつりきし」を歌いつつ、猛火につつまれて聖国に去ったとの事であります。何たる壮烈の最期でしょう!

〔第四一号、一九二三年一一月〕

二 嬰児の死 或る幼き姉妹の告別式に臨みて

ひとりの嬰児おさなご殊に小さき乳児ちのみごの死は、世の人々より見れば何でもない事であります。役場の吏員りいんは訳もなく戸籍帳簿に一本の棒を引くでありましょう。医者は無雑作に死亡統計に一つの数を加えるでありましょう。かくて何ら特別の注意を惹くこともなく、物の失せしが如くに忘れ去られるでありましょう。

しかしながら世の人々に取って何でもないこの一つの出来事は、その父たり母たる者に取っては最大の問題であります。彼らに取っては実に全世界を失うにまさる問題なのであります。おのが愛する子を失う事、その事よりも心をかれる何事がありましょうか。

いずれが果たして正当でしょうか。嬰児の生と死とは顧みるに足らぬ小事であるか、或いはその中に何か深き意味があるのであるか。神は果たして如何にこの問題を見たもうのでありましょうか。

イエスは常に嬰児を重んじたまいました。彼は言いました、「幼児らを許せ、我に来るを止むな、天国はかくのごとき者の国なり」と。また「まことに汝らに告ぐ、もし汝ら翻りて幼児おさなごの如くならずば、天国にるを得じ。されば誰にてもこの幼児のごとく己をひくうする者は、これ天国にて大いなる者なり。また我が名のためにかくのごとき一人の幼児を受くる者は、我を受くるなり」と。殊に注意すべきはその後に附け加えられし次の一言であります。

汝ら慎みてこの小さき者の一人をも侮るな、我なんじらに告ぐ、彼らの聖使みつかいたちは天にありて天にいますわが父の御顔を常に見るなり。(マタイ一八の一〇)

言葉は少しく不思議でありますが、意味は解するに難くありません。彼らの聖使みつかいたちは天にありて神の聖顔みかおを常に見るというは、神の聖座にいと近き所に侍する天使たち、即ち多くの天使たちのうち最も位高き少数の天使たちが、特別に嬰児の保護者として選ばれているとの意味でありましょう。言い換えれば、神は宇宙間何ものにも勝りて嬰児を重んじたもうとのことであります。実に驚くべきみことばであります。

何故に数えるに足らぬ嬰児が神の眼にさほどに貴いのでありましょうか。その問題に答えて、ユダヤの詩人が既に数千年前に申しました。

我らの主エホバよ、なんじの聖名みなは地にあまねくして尊きかな。その栄光を天におきたまえり。なんじは嬰児おさなごちのみごの口により力の基をおきて敵にそなえたまえり。こは仇人あたびととうらみを報いるものとを鎮静おししづめんがためなり。(詩八の一、二)

神はその栄光を天におきたもう。太陽と月と美しき遊星、更にその一つ一つが太陽であるところの無数の恒星、はてしなき蒼穹に各々幾億万哩の距離を隔てながら荘大無比の密集団を形造って輝いているあの星また星、あすこに言いがたき神の栄光が顕われている。しかしながら天のすべての栄光にもまして地には神の尊き聖名が崇められつつあると詩人は言うのであります。地の何ものによってでありましょうか。曰く嬰児おさなごであります、乳児ちのみごであります。神はまだ片言さえ操られぬ乳児の口に城砦を築いて以て彼の敵に備えたもう、神の栄光を汚さんとするサタンとその軍勢とを之によって鎮静せしめたもうというのであります。その奇しき勝利によってあまねく聖名を発揚したもうというのであります。

それは戯言たわごとでありましょうか、はた誇張でありましょうか。否、それは驚くべきしかしながら疑うべからざる事実ではありませんか。嬰児乳児を子にもつ親は知るのであります、その母の胸によりすがれる小さきもののあどけなき口の動きに、いじらしき眼の輝きに、そのすべての挙動に、然り、ただその存在その事に、言うべからざる不思議が籠もっていることを。彼らの柔らかきほほえみに天使の面影がないと誰が言いましょう。彼らの身のまわりに何処となく天国の余光が漂っていないと誰が申しましょう。実に天上幾千万の星にもまして地上一人の嬰児こそは驚くべき奇蹟であります。その小さき身の中に限りなき栄光が秘められてあるのであります。その無意味なるが如く見える一切の行動は神に対する大いなる讃美であります。サタンの軍勢もこの純潔にして無邪気なる奉仕の前には攻撃の鋒先を悉く鈍らせざるを得ないのであります。まことに聖徒の強き信仰にも勝りて堅固なる城砦は嬰児乳児の口であります。

故にたとえ世にあること僅かに数ヶ月に過ぎませんでも、彼らの生涯は立派なる勝利の生涯であります、彼らの死は神の前に貴き凱旋であります。今日野にありて明日炉に投げ入れられる一輪の百合すらソロモンの栄華の極みにもまさる栄光を帯びるではありませんか。必ずしも短きを惜しむに足りません。神の眼には千年も一日に過ぎません。長さではありません、質であります。いかによく神の栄光を顕わすことが出来たか、それによって人の生涯の価値が定まるのであります。

嬰児の生涯が栄光の生涯であるように、その死もまた栄光の死であります。嬰児に罪はありません。彼は死するに当たりて自ら罪なくして苦しむのであります。罪なき者の死!それは正しく贖罪の死ではありませんか、或る程度に於いてイエスの十字架の再現ではありませんか。嬰児の臨終を見守る親の胸が剣にて刺し貫かるるのおもいあるは、主としてその為ではありませんか。嬰児の死は殉教者の死よりも貴き犠牲の死であります。まことに栄光の死であります。

もしキリストの十字架が全人類の運命を永久的に変化せしめるほどの事実であるならば、もしイエスの死が宇宙万物の大調和を復興せしめるほどの原因であるならば、然らば嬰児の死もまた何らかの有力なる原因でなくてはなりません。少なくともそれは両親の生涯を一変せしめるに足るだけの事実ではありませんか。

一たびその経験をもった者はみな言うのであります、人生最も辛き事は子を失う事であると。私は自ら経験せざるが故にその味を知りません。しかしながら人の経験の辛さは随分と深刻な所まで往き得るものであるのに、その最も甚だしきものとしてすべての経験者が殆ど例外なく一致するところのこの酒杯は、余程苦いものであるに相違ありません。それを思って私は両親の君たちと共に泣きたくあります。同情の及ばない事をうらみとします。何の言葉を以て慰め上げましょうか。

ただ私にも私相応の一つの経験があります。今は私もまた少しく苦き酒杯について語ることを許され得るとおもいます。ここに私は明白に申上げます。患難は最大の恩恵であると。患難に遭わずして神に近づくことは出来ません。十字架を負わずして神をることは出来ません。少なくとも私一人の実験としては、涙の中より神を見上ぐる時に、最も明らかに聖顔を拝することが出来るのであります。そして神の聖顔を仰ぐにまさるさいわいが何処にありますか。神の心を識るに勝る善事が何処にありますか。

神はその愛する者を懲らしめたまいます。殊にその生涯の危機に於いて。然らば人生最も辛き経験と称せらるるものに遭遇するが如きは、まさしく意味深き時ではありますまいか。愛する者を天国に送るは大いなる経験であります。これ実は送るにあらずして共に往くのであります。生涯の立場の一変であります。今より後天国本位の生涯が始まるのであります、始まらなければなりません。従って必ずや多くの新しき恩恵と能力とが加えられるでありましょう。再び新しき家庭が実現するでありましょう。

嬰児の生涯はいと小さきつぼみのままに散りました。しかし勿論それで終ったのではありません。蕾はかの国に至って膨らみつつあります、生命はなおも成長を続けつつあります。しかも今はすべての苦痛を取り除かれて。かくて私は信じます、来たるべき復活のあしたには、もはや昨日までの如き幼稚にして惨ましき姿に於いてではなく、生命発達の絶頂に於ける最も美しき装いに於いて、再び彼女を抱き、永遠にわが子として抱くを得るであろうことを。

〔第五四号一九二四年一二月〕

三 神を義とすること

信ずるとは何か。ヘブル語にて「アーマン」という。アブラハムがエホバを信じてその信仰を義と認められたという時に、「彼はエホバを(に)アーマンした」とある(創世一五の六)。アーマンはアーメンと同義の動詞である。アブラハムはエホバに対してただアーメン(然り)と言ったのである。いかばかり理性にかなわず常識にそむく事であっても、いやしくもエホバの言いたもう事、為したもう事である以上、アブラハムはただ然りと言って無条件に之を受け入れたのである。ただそれだけである。それが彼の信仰であった。しかしてその信仰をエホバは彼の義と認めたのであった。

信ずるとはかくのごとくにアーマンすることである。ただアーメンのみを以て神に対することである。彼の一切を単純に無条件に肯定することである。彼が与えるというものは、よしいかばかり値せざる高大なる恩恵であっても、遠慮せず狐疑せず辞退せずしてこれを受けることである。彼が奪い取るものは、よしいかばかり手放しがたき惜しきものであっても、つぶやかず逆わず背かずしてこれを聖手に委ねることである。いかなる場合にも目を閉じ彼の為すがままに従うことである。即ち文字どおりの盲従である。神に対して盲従すること、これを信仰という。

少しく言い換えれば、信仰とは神を義とすることである。神の道はすべてそのままに「義しい」と定めてしまうことである。神が神である限り、これは当然の事でなければならぬ。「されば汝ものいうときは義しとせられ、なんじ審判さばくときは咎なしとせられたもう」とダビデはいった(詩五一の四)。そのとき彼は真の信仰を言い表わしたのであった。「なんじの道は義なるかな、真なるかな」と殉教者らが歌うをヨハネは聞いた(黙示録一五の三)。そのとき彼は真の信仰の告白を聞いたのであった。神は永遠より永遠までを目ざして、人の解しがたき大股を以て、憚らず踏みつけ踏みつけ歩み給う。我らは踏みつけられながら、ただ神の道であるがゆえにこれを不義とせずして義とし、しかして之を甘受する。その時我らはすなわち神を信ずる者である。

アブラハムは夫妻ともにすでに年老いて死にたるごとき状であるにも拘わらず、天の星にたぐうべき数多の子孫を与えんとの神の約束を聞いて、神を義とした。しかしてアーメンを以てこれに応じた。彼はまたその後、漸くにして与えられたる独子イサクを燔祭として献げよとの神の命令を聞いて、再び彼を義とした。しかしてアーメンを以てこれに応じた。理性は何とでも言わば言え、常識は何とでも言わば言え、人情または道徳または世の人は何とでも言わば言え、アブラハムはただ目を盲にし、心を石にして、頭から無条件に神の道を義としたのである。

私は如何にして神を義とすることを学んだか。五年前に私の妻が逝った。人には何でもなきこの出来事が、私には嘗め得るかぎりの苦杯であった。私のいのりは投げやられ私の信頼は裏切られた(と私は思った)。私は神を見失った。私は彼を恨み、彼を責め、彼を疑った。告別の式の日が来た。某教会堂の教壇の前に彼女のなきがらをすえ、数多の会衆に取囲まれながら、黙然として私は坐した。私の心は暗黒そのものであった。友人の司会により式は始まった。恩師は壇上に立った。力づよき錆び声の演説は始まった。あたかも私の心を代言するかのごとき数句がつづいた。しかしそののちに「しかしながら神様にもまた申し分があると信じます」との前置に次いで、左のごとき一句が来た、曰く「私どもは神様の御言葉を聞き、その聖業みわざを義とし奉るべきであります」と。神の聖業を義とし奉るべきであります!この一言が私の耳に響いたときに、私の心の奥底から確実なるアーメンが湧き上った。ほんとうにそうである。神の為したもうた事である。私は有無をいわず頭を下ぐべきである。たとい死であればとて、彼のみわざを彼是あれこれと批議すべき筋が何処にあろうか。アーメン!アーメン!

神を義と!ああ然り、私のために
 準蝿なわはトペテの谷に落ちても
 わたしは神を義とすべきである。
さらば私は血まみれのまま
 受けよう、感謝して、すべてのむちを、
 讃めたたえよう、聖名を、とこしえに。
かく思いさだめしその時に
 わたしの霊は会堂をけて
 かがやく栄光の国にあった。
――羔の婚姻第一歌より

そのとき真実に私の霊は私の肉体を離れ、会堂を脱けて、何処かいとさいわいなる国に入った。私の周囲には光が充ち満ちて居った。私ははじめて鮮やかに神を見た。

かくして私は神を義とすることを学んだ。それは私にとっては最大なる経験であった。私の回心であり更生であった。その時までも回心更生の前味はなかったではない。しかし私が確実に新生命を獲得したのは実にこの日であった。

〔第八四号、一九二七年六月〕

四 祝福の病床 病床旬日の感

病気そのものが本来の性質上、慕い求むべきものでない事は言うまでもない。聖書の教える所によれば(デリッチの研究に従う)、第一に、病気の本質的理由は神の怒りにある。「われらは汝の怒りによりて消えうせ、汝の憤りによりてじまどう」(詩九〇の七)。「エホバよ、願わくは憤りをもて我をせめ、烈しき怒りをもて我をこらしめたもうなかれ。……われ萎みおとろえるなり」(詩六の一、二)。罪(人類の)がある、故に神の怒りがある。怒りがある、故に霊魂の衰弱と天然の萎靡いびとがある。人の堕落ゆえに、すべての造られたるものは虚無に服せしめられた(ロマ八の二〇)。天然は人知れず大いなる萎靡負頽に苦しんでいる。しかして人の肉体は天然の一部である。故に肉体の病気もまた「造られたるものの歎き」(ロマ八の二二)に属し、神の怒りの発現をあかしする。病気をその根本に遡って観察するとき、この性質を否定することが出来ない。

第二に、病気の本質的状態は混乱である。「人床にありて疼痛いたみに攻められ、その骨の中に絶えず戦闘たたかいのあるあり」(ヨブ三三の一九)。戦闘の原語 rib は shalom(平和)の反対であって、力と力との間に相互的調和が失われたる状態を示す。病気は人の生命を組立つる諸要素の間に於ける調和の消失である、平衡の混乱である、その相互的敵対である。身体と血気と霊との諸勢力が各自の中にまた相互の間に平和を維持するとき、その状態を呼んで健康という。旧約聖書は平和と健康とに同一の語(shalom)を共用する。平和即ち健康である。これに反して病気は戦闘であり、騒擾であり、混乱である。

第三に、病気の本質的経過は死への傾向である。聖書に「癒える」ことを「生きる」(chaiah)という。故に病むはやがて死ぬのである。聖書を待つまでもなく何人もその事を知る。

理由に於いては怒りであり、状態に於いては混乱であり、傾向に於いては死である。その出発点よりその目標まで、病気自体に美わしき所は一つもない。

この故に通常、病気は人生最大の不幸の一つと見られる。この不幸より脱るべく人々はあらゆる熱心をそそぐ。癒されんがためには如何なる犠牲を払うことをも惜しまない。霊魂のなやみを憂えるものは少なくして、肉体の平安を希うものは巷に満ちる。二人暫くぶりに相会するとき、互いにまず問うはこの意味に於ける平安である。神癒を標傍するところ老若男女の蝟集いしゅうせざるはない。癒されしものの感謝は熱くしてその証詞は高い。

しかしながらかくのごとくにのみ病気を見るは果たして正当なる見方であるか。病気は如何なる場合にも禍いであるか。これにかかりしものはひたすら癒されんことをのみ願うべきであるか。我らはイエスが或る人の盲目について「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕われんためなり」と言ったことを知る(ヨハネ九の三)。またヨブの悪疾は彼に対する神の愛より出たことを知る。またパウロがその肉体の刺の取り去られんことを祈ったときに、「わが恩恵めぐみなんじに足れり」との答を聴いたことを知る(後コリント一二の九)。病気を見るに必ずしも暗き方面よりのみすべきでない事は確かである。我らはここに病気の明るき見方の一二を考えて見ようと思う。

まず注意すべきは、病人のみが病人でない事である。医学は知らず、聖書の立場よりすれば、世に病人ならぬものは一人もないのである。人の霊魂とその身体との間に密接の関係がある。霊魂が義しき状態にあらぬときに、身体もまた調和の状態にあるを得ない。何となれば曲がれる霊魂は或いは積極的に身体を罪の衝動の道具として用い、或いは消極的にこれが制御を誤まりてその機能を撹乱に導くからである。故に病気の起源は堕落の始めに遡る。アダムが罪を犯した日に彼は既に病めるものとなったのである。その日以来、入はみな罪人であり又みな病人である。之を霊魂について見れば、「義人なし、一人だになし」である(ロマ三の一〇)。倫理的に見て優れたる義人も神の前には大いなる罪人である。同じようにこれを身体について見れば、「健康者なし、一人だになし」である。医学的に見て珍しき健康体も創造者の前には甚だしき病体である。

この事実はまた他の方面よりも立証せられる。先に見た通り、人の肉体は天然の一部である(創世二の七)。しかして天然は或る理由によって既に創造当初の完さを失い、その全体として滅亡の僕たる状態にあるとは、聖書が教える重大なる真理の一つである。天然全体が病者である。万物が病の床に呻吟しているのである。完全なる健康状態は何処にもない。人という人はみな病人である

この故にいわゆる病人は特に病気の人ではなくして、病気の自覚ある人たるに外ならない。いわゆる健康者は自覚なき病人に過ぎない。

しかしてすべて自覚者は福いである。何はともあれ、彼らは実在なるものの一端に触れたのであって従って人生に関する正確なる知識のいとぐちを握ったのである。この経験は決して軽んずべきものでない。自覚なきところに人生はない。故に古の哲人は「まず汝自身を知れ」と叫んだのである。すべての自覚は高き代価を払うに値する特権である。

「心の貧しき者は福いなり」とイエスは言った。客観的に見て、世に心の貧しからぬ者があろうか。義人なし、一人だになしである。人はみな霊的の乞食である。然るにも拘わらず、多くの人はそれを自覚しない。世のいわゆる義人、道徳家は自覚なき不義者に外ならない。イエスが謂うところの心の貧しき者はただその自覚ある者である。彼らはその自覚のゆえに福いである。同じ真理をイエスはまた別の言葉に表わしていった、「健やかなる者は医者を要せず、ただ病める者これを要す……我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて来たれり」と。

病気の自覚は無力と苦痛と寂寞との自覚である。しかしてその故に人々は病気を厭う。何ぞ知ろう、この自覚こそ却って真実にして健全なる経験であることを。

思うに人々は人生について甚だしき誤解を抱いている。彼らは恰もアダム夫妻の大いなる間違いが曾て無かったかのように考えている。彼らは今の人生をこのままに享味エンジョイしようと欲している。しかし聖書の教えるところによれば、宇宙は創造の始めとは全く別のものに変わってしまったのである。今の世界は悪しき酒に酔い且つ狂える世界である。これと共に歌いこれと共に踊るほど愚かなる事はない。真実に生きんと欲するものは必ず世に対して死なねばならぬ。

病床に於いて我らに醒めくる無力と苦痛と寂寞とは、即ち我らが世に対して死ぬことの実際的訓練の一つである。病気は少なくとも暫時我らを世より葬る。しかしてかく葬らるるは福いである。何となればその時人の真実の故郷をおもう思いが我らの胸に湧くからである。

人の故郷は何処にあるか。「永遠」にある、永遠の父の家こそ我らの住処である。「永遠」の幻を以てしなければ我らの霊魂の饑は満たされない。然るに世と共に歩むとき幻は我らの眼より消え失せる。身いよいよ肥えて魂いよいよ衰える人の何ぞ多いか。

病床は幻を見るに適する。ここに我らは苦痛や孤独に促されて、我らの眼を世より人よりそむけ、之を挙げて山にむける。病者は他の一切の事に無能である。しかしただ祈りの事に有能であり得る。病室の空気は世の擾乱の噂を伝えるには余りに重い。しかし静かなる細き声を聴くにふさう。主は病める者を顧み、屡々その枕頭をおとずれたもう。彼はわづらう者を慰め、これを祝福するをこのみたもう。

もし私の信ずるように、人生の目的は神を知るにあるとするならば、然らば病気の意味は深い。之がために蒙るべきすべての損失も、永遠の立場より見て畢竟ひっきよう何であるか。

病室人なく、窓外風やみて、夕日地のはてよりガラス戸を射る。「平安なれ」とわがたましいに告ぐる声をきく。

〔第七〇号、一九二六年四月〕

五 病床感話

〔一九二九年十二月八日朝、集会の感話として病床にて口授したるもの。――編者〕

かくてさきに天より聞きし声のまた我に語りて『汝往きて海と地とにまたがりて立てる御使みつかいの手にあるひらきたる巻物を取れ』と言うを聞けり。われ御使のもとに往きて小さき巻物を我に与えんことを請いたれば、彼いう『これを取りて食らい尽くせ、さらば汝の腹苦くならん、然れどもその口には蜜のごとく甘からん。』われ御使の手より小さき巻物をとりて食らい尽くしたれば、口には蜜のごとく甘かりしが、食らいし後わが腹は苦くなれり。(黙示録第十章八~十節)

使徒ヨハネは一人の天の使いから小さな巻物を受けとってそれを食べました。すると口には大変に甘くお腹には大変に苦くありました。私も今度神様の使いから小さな巻物を戴きました。そうしてそれを食べさせられました。ヨハネの巻物は世界の審判に関するものでありましたが、私の戴いたものはヨハネのそれとは違って、私一個に関する極小さなものに過ぎませんでした。それは即ち私の病気でありました。私は自分の病気が自分の不注意に本づくことを知っています。そうして神様に対して、また私を愛する人に対して、その外すべて私と関係ある人々に対して、誠に申訳なく感じて居ります。しかしそれにも拘わらず、私はこの病気がやはり神様のおゆるしなしには起こらなかったことを信じます。否これもまた神様御自身の聖心による、神様御自身のみ業であることを信じます。一羽の雀さえ聖心みこころによらなければ地に隕ちません。どんな小さな事でも悉く神様の御業であるということは、近年に至って私の愈々いよいよハッキリと思わせられる真理であります。

私の病気はそれ故神様から戴いた賜物であるとしか考えられません。そうしてこの病気は偶然にもお腹に関するものでありましたから、私がそれを食べましたときにお腹は苦くありました。ただそれは肉体の苦痛であったばかりでなく、また様々の意味に於いて私の苦痛でありました。たとえば、そのために安息日の礼拝に出席できないこと、また尽くさねばならぬ勤めを尽くすことが出来ないこと、多くの人にわずらいをかけることなどは、みな私にとっての苦痛より外のものではありません。私のしようとすることが善きことであり、神様の聖心に叶うことであると思えば、尚更それを妨げられたことが残念でもあり、不思議でもあります。神様のなさることは昔も今も変わらず、苦いもので満ちて居ります。私がもし神様に対する絶対の信頼をっていませんでしたら、かかる苦痛も堪え易きものでなかったに相違ありません。しかしながら、私にとってもまたヨハネにとってと同じ様に、もう一面の消息があるのであります。ヨハネのお腹に苦くあった巻物は、彼の口には大変にスイートなものでありました。丁度その様に、私に与えられた辛い賜物も、私にはまた最も甘美なものと感ぜられざるを得ないのであります。私を喜ばせるものは多くありますが、何よりも勝るものは神様を知ることであります。神様を知り、その真理にあずかるということが、どんなに恵まれた事であり、かつ自分にとって力づよき事であるかということを、近年私は泌み泌みと味わわせられました。もしこの一つの経験がありませんでしたら、過去数年の間私はどんな谷底におちいっていたかわかりません。神の真理の甘さが私を救ってくれた唯一の力でありました。そして不思議なことに、神の真理の甘さは所謂幸福の中に於いてよりも、むしろ苦痛の中に於いて一層ハッキリとさとられるのであります。神様の御業が自分にとって辛くあるとき、それが自分の願いに背き予定を打破し、自分の理解を超越するときに、始めて神様がどういう方であるかをハッキリと知ることが出来るのであります。私は今度の病気におきましても、また新しくその事を経験しました。偶然なことが原因になって、重大な結果を惹き起こすことなど、普通の考えからは余りに心外なことと思われます。私の今度の病気も一寸した不注意がもとになって、意外の重態にたち至ったらしくあります。神様は何故そういう意地悪をなし給うのであるかとさえ、思われないではありません。しかし私は知っています、神様のなさり方はいつもそれであることを。それが何故であるか、理由を知りません。しかし神様のなし給うたことであります。それ故にそれが一番いいことであったに相違ありません。そうして私の様なものがこの様に理智にも感情にも欲求にも背く様な事の中に在って、神様に絶対の信頼と感謝と讃美とを捧げ得るということ、そのこと自体が、驚異すべき恩恵でなくてはなりません。私はこういう心持が自分に与えられたと云うだけで、神を讃美せざるを得ないのであります。神様は本当に讃美すべき方であります。すべての苦きものが甘くせられます。すべての暗きものが明るくせられます。神様を信じ神様と共にあるということその事が、やはり人生の至上善であると思います。私の巻物は苦くあると共に甘くあります。それは蜂の巣のしたたりにも勝る甘さであります。私は今日一言このことを御報告して讃美を共にしたくあります。

〔第一二二号、一九三〇年八月〕

六 病床の三発見

〔一九三〇年二月二日安息日の朝集会の為に病臥のまま自ら執筆したるもの。――編者〕

皆さんにお目にかからないのも昨年秋以来の事です。随分久しくなりました。今度こそと思っていましたが、どうしても医者の許しが出ません。それで、出席の代わりに今日は一言所感を代読していただきます。

病床に於いて私は色々のものを発見しました。その中三つだけをここに報告したいとおもいます。

第一は、食物の味についてであります。胃病だから又食物の話かと笑わないで下さい。

度々絶食したあとで少しづつ摂取する食物がどんなに味のよいものであるかは、経験して見なければ到底分りません。皆さんもどうですか、一度試みて御覧になったら。およそその種類の如何を問わず、何でもであります。牛乳でもスープでも、ビスケットでもカステラでも、おまじりでも葛湯でも、ジャガイモやホウレンソーのウラゴシでも、乃至は氷の一かけでも、一切です。一切私の舌に触れるかぎりの食物が、みな驚くべき美味を備えている事を私は初めて発見しました。ミルトンの楽園喪失に、アダムとエバとが天の使いをもてなした御馳走の事が書いてありますが、此頃私が病床においていただく御馳走は決してそれに劣りません。それこそは所謂いわゆる山海の珍味ばかりです。

これは何故ですか。飢えのためであるといえば至って簡単に説明がつきます。そうしてそれに相違はありません。ダンテも「飢えをもってドングリに味をつける」と申して居ります。しかし私はもう一歩進んで尋ねます。なぜ飢えが物に味をつけるのですか。どんなに飢えたからといって、まさか塵芥ちりあくたや垢などにまで味がつく訳はありますまい。物がおいしいのは、たしかにその物の味と我々の舌又は腹との間に微妙な調和が存在するからであります。聖書に「目に日を見るは楽し」とあります。日の光と我々の目との間に美しい調和が備えられてあるからであります。つまり光は目のため、目は光のためです。同じように、聖書には又「食物は腹のため、腹は食物のため」とあります。神様は人をおつくりになると共に、又その食物をおつくりになりました。そうして二者の間に微妙な調和を備え、又相互的要求をお備えになりました。それ故に本来すべての食物が我々には限りなくおいしい筈なのであります。それが当り前なのです。然るに私どもは贅沢をして、却って物の原始的の味を忘れてしまいました。言いかえれば人間の罪のために自然界本来の調和が失われてしまいました。世の人々は「飢えを以てドングリに味をつける」のではなく、反対に飽満を以てネクタルの味を掻き消しているのであります。まことに愚かな事です。

私は病床に投ぜられて、食を断たれました。そのとき人々は「好きな物も食べられずに」などといって同情してくれました。けれども私自身の経験はその反対でした。断食のために、私は一旦失っていた食物との調和を回復しました。すべてが私に無限の美味を呈して来ました。アダム以来忘れられていたものを私は発見したのです。即ち神様のおつくりになった世界の大調和の一部です。実に天地には人の知らない驚くべき大調和が秘められてあるのであります。それは私共の想像することのできないほど素晴らしいものであります。ベートーフェンの交響楽がどんなに優れているといっても、到底比較にも何にもなりません。ゲーテが歌いましたように、太陽ははらからの星の群れと共に、合唱しながら上って来ます。万物にそのような調和が備えられてあります。それを今私共は見ることが出来ません。しかしやがてそれを発見する日が来るであろうと聖書は預言しています。すなわち申します、「エホバいいたもう、その日われ応えん、我は天にこたえ、天は地にこたえ、地は穀物と酒と油とにこたえ、また是等のものはエズレルに応えん」と。神と天との調和であります、天と地との調和であります、地とその産物との調和であります、そうしてまた地の産物と人との調和であります。天地万物の大調和であります。この大調和は人の罪のために今はみな掻き乱されています。今は神の怒りが天から顕われています。今は混乱と争闘とが宇宙に充ちています。今は天災があります、地変があります。飢饉があります、戦争があります。人と万物とが相軋ります。食物さえ原始の味を失っています。どこを見るも矛盾だらけです。ほんとうにつまらぬ世界であります。けれどもこれで終るのではありません。神様は又調和回復の途をお開き下さいました。キリストの十字架によってその途をお開き下さいました。「その十字架の血によって平和をなし、或いは地にあるもの或いは天にあるもの、よろづの物をして己と和がしむるを善しとしたまいたればなり」とあります。失われた大調和は必ず回復せられるでありましょう。すべての争いはなくなり、戦はやむでありましょう。人は人と和らぎ、また万物と和ぐでありましょう。万物はまた神と和ぐでありましょう。罪と死ともろもろのわざわいとが消え失せるでありましょう。私どもの涙がみな拭われるでありましょう。そうして心から溢れるところの大讃美が全宇宙にみなぎるでありましょう。これは病床における私の空想でしょうか。そうではありません。聖書の預言であります、神の約束であります。キリストの十字架がこれを保証します。何と福いな希望ではありませんか。私は皆さんと一緒にもう一度神様の聖名をたたえたくあります

ここまで書いて疲れましたから、今日はこれで失礼します。平安と恩寵今日も皆さんの上にあふれんことを。

〔第一二二号、一九三〇年八月〕