第四 いのり

藤井武

一 祈祷の精神

人は語る。彼はその心の思いを何処かに吐露せずしては已むことが出来ないように造られたのである。人は誠に発言的生物である。

多くの人は常に人を目あてにして語る。彼等の口を開くは人に聴かれんが為である。その期待する所は人よりの反響にある。しかしてかく人よりの反響を唯一の又は最大の期待とする発言は、自ら不純なるを免れない。何となれば人と人との関係そのものが乱れているからである。又人は何人も他の人を完全に了解する事が出来ないからである。人の耳を本位として、我等の告白はよし虚偽と迄堕落しないにしても、少なくとも心の最も深き所を留保したる皮相なるものに終り易きを免れない。

故に深き告白は屡々独白(monologue)の形を取る。誰を相手ともなく、恰も自己に向って語るが如くに語るのである。筐底きょうていに蔵められたる日誌、又は密室にて綴られし懺悔録等にその例を見る。これらの文態の生まれ出でしは素々もともとかくの如き要求に応ぜんが為であったのである。人に向って語るに適せざる、理解なき者の接触を許さんには余りに主観的なる消息を隠れたる所に漏らさんが為に、特別の文態が要求せらるるのである。従って伝記の資料として、日誌又は懺悔録等は書翰の類にもまして貴重である。人の深き思いを如実に描き出さんと欲するブラウニングの詩が、殆ど皆独白の形を取れる所以もまた此処にあるのではないか。人よりの反響を求めんが為ではなく、ただ己が心に溢れしものが何処かに漏れざるを得ずして自ら唇をいて出でたる独白は確かに偽りなき声である。獄窓に倚れる囚人の独り言、秘められたる政治家の手記、書斎に於けるファウストの呟き、ネクルドフの月下の歎声等に、この世の論客の叫びの及ばざる真理がある。霊魂の発言は、人を目あてとせざる所に於いて遥かに純粋であり、自然である。

しかしながらここに疑問がある。独白といいて全く相手方なき単独の告白は、果たして我等の霊魂を満足せしむることが出来るか。そもそも語ることその事が何者かを対象とせずしては意味を為さない事ではないか。人が発言的生物である所以は、彼が個性を備える人格者であって、従って他の人格者との間の交渉なくしては生くるに堪えないからではないか。すべて個性的存在者即ち人格者の生命は他の人格者との関係に於いて存立する。絶対的孤独は彼等の堪えざる所である。しかして人格者間の完全なる交通は言語に由らずしては果たされない。心と心との間に架せらるる最も優れたる橋は言語である。言語は実に人格者の特権である。「言語の能力こそ奇しきもの、否、むしろ聖なるものである。それは低き被造物の曾て渡りしことなきルビコンである」(アドルフ・サフィール。動物学者は猿の言語について云々するも、それは自己意識の発表としての言語ではない)。人は語る。然り、彼は聴かれんが為に語る、何者か自己以外の人格者を目あてとして語る。全く相手方なき絶対の独白、虚空に向かっての告白は彼に取って無意義である。人格的存在者はかくの如き寂しさに堪えない。

ここに於いてか知る。独白は実は言語の変態であることを。それは人に聴かれんと欲する発言の不純性より免れんが為に、已むを得ずして選ばれたる避け所に過ぎない。言者の自覚するにもせよ、又はせざるにもせよ、独白もまた必ず何者かを目あてとして漏れ出づるのである。それは或いは知己を後世に求めつつあるであろう。或いは漠然と誰かは知らず自己を了解し得べき人格者を何処かに期待しつつあるであろう。兎に角独白は言語の正統なる形態ではない。その響きは世の反響を求めないだけに、より多く純粋であり深刻であるとはいえ、もしその対象にして後世の知己にあらんか、すなわち矢張り人を本位とする声に外ならない。またもし何ら明確なる対象を有せざる告白ならんか、然らば如何にしてそれが我等の霊魂に満足を与えることを得ようか。

我等は己が全霊全心の声をそのままに吐露し得べき完き人格者を要求する。人としての凡ての悩みと喜びと願いとを注ぎ出してこれを託し得べき偉大なる心を見出さんと欲する。かくの如き心と絶えざる交通に入りてこそ我等の内的生命の発展がある。かくの如き人格者に対する残なき告白にこそ我等の自己意識の全部が籠もっているのである。

かくの如き心を求めて之を得ず、遂に自己の良心を相手としてその『瞑想録』を綴りし者はマーカス・アウレリアスであった。かくの如き人格者に訴えることを知らず、いたずらに世間を目あてにしてその『懺悔録』を認めたる者はルソーであった。然るに独り福いなりしはアウガスチンである。彼もまた聴かれんが為に己が生涯を告白した。しかしながら彼の前に立ちたる対象は自己でもなく世間でもなかった。彼はその目を衷に向けずまた周囲に着けずして上を仰いだ。しかして曰うた、

「ああ主よ、汝は偉大にまします、汝はいたく讃美せらるべき方である。汝の能力は偉大にして汝の智慧は無限である。」

これ彼が自叙伝の巻頭の詞であるに注意せよ。暫くの絶え間もなく彼はただ「主」を仰ぎ見つつ筆を進めて居る。『懺悔録』一篇、悉く主に対する彼の告白である。彼より後幾多の人が同じように自叙伝をものしたるに拘わらず、何人も厳密に彼の態度に倣いし者はなかった。アウガスチン懺悔録の比なき貴さは主として此処にある。それは人に対するの告白ではない、さりとて又目ざす者なき空しき独白でもない、偉大なる能力と無限の智慧との所有者なる讃美すべき「主」に聴かれんが為の懺悔である。即ち真実なる意味に於いての懺悔である。故に飽く迄に純粋である、また極めて深刻である。

誠に福いなるはアウガスチンの如くに、自己の全人格を以て迫り得べき「主」を見出したる人である。彼の前に立ち、その大いなる心を以て抱擁せらるる時、さながら豊かなる日光に包まれし草木の如く、我等の生命は伸び伸びとして、限りなき調和を獲得せざるを得ない。人としての存在の最も正しき状態は、かくして主と交わる所にある。人としての心の最も深き発言は、主に対するの告白に於いてある。

主に対するの告白殊に願い、之を称していのりという。故にいのりは主を知らざる者の絶対に経験する能わざる所である。人は意識的にか無意識的にか、皆祈らんことを欲する。何となれば彼は本来発言的生物であって、しかしてその対象は人より以上のものたるを要するからである。この本来の欲求は屡々いのりに似たる形態を以て表わるるを見る。例えば神社仏閣の前にぬかづき、又はその他有形無形の信仰的対象を捉えて、己が衷心の願いを披瀝ひれきするの類である。通常これをも祈祷の名を以て呼んでいる。しかしかくの如きは断じて真のいのりではない。イエス・キリストの父なる唯ひとりの神を対象とせずして、いのりは何人の口にも上らないのである。人は祈らんことを欲しながら、まことの神を知らざる間、遂に祈ることを知らない。

いのりは人として発し得べき最も正しく且つ深き言語である。何となればこれ我等がまことの神の前に正しき立場に立ちて己が全心を吐露するの声であるからである。生まれながらの人としてにあらず、信仰によりて新たに生まれし者、神の子たるの霊を受けたる者、キリストをその心に宿す者、かくの如き者として我等が神に対して発表する心一杯の告白であるからである。故にいのりは肉につける人の声ではない、新たに生まれたる霊の人の声である。然り、それは語る者自身の声たると共に、また彼の衷に宿る所のみたまの声、キリストの声である。キリストが彼を動かして、父たる神に向かいその口を開かしむるのである。人は一たび神にそむきしが故に、もはや何人も人としての正しき言を発することが出来ない。ただ完き人なるキリスト・イエスのみこれを為し得る。彼が地上にありし間、山の上にて、湖の畔にて、天を仰ぎつつ語りし熱き言こそ、人の最も純粋なる霊的生活の表現であった。人類はその唯一の典型たる人の子イエスに於いて、神に対する理想的の告白を発表したのである。しかしてすべて彼イエスを受くるものは、今も彼の霊によりて神の子らしく語る事が出来る。祈りは実にキリストの霊が神に対するの発言である。我等がキリストを信じて受けたる「子とせられたる者の霊」がアバ父と呼びての告白である。故にそれは我等が人として発し得べき最も正しく且つ深き声でなくてはならぬ。

いのりは人格的交通の経験としてこの上なく親しきものである。それは霊と霊との接触である。霊なる神に対する子たる者の霊の肉薄である。いのりに於いて我等は己が全人格を意識的に父の前に暴露するのである。いのりに於いて我等の霊魂はその凡ての衣を脱ぎ棄てて、全く赤裸々となるのである。いのりに於いて我等は最も深き思いを残なく神の手にささぐるのである。かくも親しき人格的経験は極度の誠実を条件とせずしては成り立たない。祈らんとする者の心はひとえに神に向かって集中せねばならぬ。彼にしていやしくもその目的を神以外の所に置かんか、それは断じて祈りではない、偽善である。然り、誠実を欠きたる祈りはすべて偽善である。およそいのりと相容れざるものにして不誠実の如きはない。

汝等祈る時、偽善者の如くあらざれ。彼等は人に顕わさんとて会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝等に告ぐ、彼等は既にその報いを得たり。(五)

偽善なる祈りの標本は多くのユダヤ人にあった。彼等は神を識れる人々であった。即ち当時の信者たちであった。しかし彼等に誠実が欠けて居った。彼等が祈る時にその目的は神に聴かれんよりもむしろ人に見られん事にあったのである。己が篤き信仰的態度に人の注意を惹かん事にあったのである。故に彼等は隠れたる祈りについて熱心と興味とをたなかった。彼等は好んで人の集まり易き場所を選び人の目に立ち易き態度を以て祈った。即ち或いは会堂或いは大路の交叉点に突立ちて祈った。誠に彼等の言は神に対する祈りに相違なかった。しかしながらその内実の目的は人よりの反響にあった。これをしも祈りと言わんか、然り、或る意味に於いてはそう言い得る。何となれば凡ての祈りは聴かる。しかして彼等の怪しき祈りもまた既に報いられたからである。即ちそれを人に見られし事に於いて、彼等の願いは見事に達せられたのである。安価なるかな、偽善者の祈り。ここに我等はイエスの意味深き諧謔を聴く。

しかしてかくの如きはイエス時代のユダヤ人のみの事であろうか。現在の基督者の間にも同じようなる醜態を我等は認めないか。講壇の上より演説するが如き教師の祈祷、会衆の感動をそそらんために特殊の調子を帯ぶる伝道者の祈祷等は我等の屡々遭遇せねばならぬ禍いである。殊に甚だしきに至っては祈祷に事よせて兄弟姉妹の誰彼に宛てつけたる批評又は感想を発表する信者さえ有る。否、有るどころではない、我国の基督教界には何故にやかかる不思議なる信者が充ちている。何たる卑劣の精神ぞ。誰かかくの如き偽の祈りに和して聖なる「アーメン」を唱えることが出来ようか。余は思う、今の基督教界に於いて「エホバの言を聴くことの饑饉」ももとより激烈であるとはいえ、なお「祈祷の霊」の饑饉には及ばないと。ああ、我等は全地の基督者の上に純なる祈祷の霊の雨の如くに注がれんことを切に願う。かくて祈祷らしき祈祷の芳香が到る所より天に向かって立ち上らんことを願う。

誠に今の多くの祈祷は祈祷ではない。神のみを目あてとする誠実を以てせずして、我等の声は少しも彼に訴えないのである。しかして多くの場合に於いて祈る者自身もまた必ずしも神に訴えんことを願わない。彼等はむしろ人に訴えんことを欲する。或いはただこれによって一箇の形式を充たさんと欲する。或いは高々自己の精神状態を清新ならしめんことを目的として祈る、かくて彼等もまた「既にその報いを得たり」である。会衆の悪感、教師の虚栄、形式の履行、又は主観的感情の満足、これその報いである。彼等の祈祷によって天は開けず山は移らざるは勿論、神の栄光は如何なる態に於いても一切現われないのである。現に見よ、今日何処の教会に聖徒の集いらしき腸に浸み亙るほどの恩恵味を湛えるものがあるか。「はらから相睦みて共に居り、ヘルモンの露下りてシオンの山に流るるが如き」集会は果たして何処にあるか。しかしてその主たる原因は外ではない、会衆全体の純なる祈祷の霊の欠乏にある。

汝は祈るとき、己が部屋に入り、戸を閉じて、隠れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隠れたるに見給う汝の父は報い給わん。(六)

祈祷は何よりも個人的なる交渉である。神とその子との水入らずの対話である。モーセは友と物言う如くに面を合わせて神と語った。イエスは「父よ、汝われにいまし、われ汝に居る」「我がものは皆汝のもの、汝のものは皆わがものなり」といって、人称の差別を没却せんほどに父と一つになって居った。ルーテルのいのりについて彼と共に在りし人の記録にいう「彼が一日に三時間しかも最も研究に適する時を祈祷の中に過ごさない日とてはない。或る時私は幸いにも彼の祈りを聞くことが出来た。ああ、彼の言に現われたる信仰よ。その敬虔なる態度に接しては、何人も彼が真に神と共に語りつつあることを認めざるを得ない。しかもその信頼と希望との溢れたる有様はさながら父又は友と語るものに異ならない云々」と(ヂェトリッヒよりメランヒトンヘの書翰の一節)。

かかる個人的の経験である。その処には人に見られんがため又は人に聴かれんがためというが如き不純なる分子の一亳いちごうだに介在するを許さない。凡ての神聖なる事実と同じく、祈祷もまた局外者の干渉を絶対に排斥するのである。故にもし祈祷の精神に適わしき環境を求めんか、まず第一に己が部屋である。他人を交えざる己が部屋に入り、戸を閉じて、唯ひとり見えざる所にいます父と相対し、しかして心ゆくばかりに彼と語るべきである。密室に於ける単独の祈祷こそ祈祷の最も純粋なる形式である。

ただし己が部屋というも、それは必ずしも木材と石材とをもて組立てたる家屋の中たるを要しない。「我等の家の棟梁は香柏、その垂木は松の木なり」(雅歌一の一七)とあるが如く鬱蒼うっそうとして茂る大樹の森も我等の部屋である。天を摩してそびえる山の頂もまたそうである。その他野原も川端も海浜も、いずれか静かなる祈祷の場所に適せざるものがあろうか。否、森の部屋に入り緑葉の戸を閉じて、又は峯の部屋に上り白雲の戸を鎖しての祈りの如きこそ、天地の主なる父と語るにこの上なく適わしき方法である事はこれを実験したる者のみ知る。イエスは屡々ひとり山に入りて夜もすがら父と語った。何故に彼は巷の中にて屋根の下にて祈るのみにては満足することが出来なかったか。他なし、この世に属せざる彼に取っては、ヘルモンの山又はゲッセマネの園こそ「己が部屋」であったからである。誠にワーヅワースの歌いしが如く、田園に暫く手を休めて真昼の讃歌をささぐる労働者の為には「田畑は聖所、小屋はその祭壇」である。

しかしながら祈祷の事畢竟ひっきょう形式又は環境の問題ではない。イエスのここに教える所は勿論その精神にある。精神にして謬らざらんか、会堂に於ける共同の祈祷素より可である、路傍に立ちての祈りまた決して不可ではない。否、神の子たる者はたとえ如何なる場所にありても、断えず祈るべきである。ただ祈りをして常にその神聖を保たしめよ。最も個人的なる経験に適わしき誠実を失うことなからしめよ。然らばその声は必ず隠れたるに見給う父を動かすであろう。

また祈るとき、異邦人の如くいたずらに言を反覆するなかれ。彼等は言多きによりて聴かれんと思うなり。されば彼等に倣うなかれ。汝らの父は求めぬ前に、汝らの必要なる物を知り給う。(七、八)

不誠実なるいのりに次いで戒むべきは無知なる祈りである。前者は信者たるユダヤ人の陥り易き弊害であったが、後者は未だ神を知らざる異邦人の精神に類するものである。前者は偽善である、後者は浅薄である。祈祷のこころは誠実であらねばならぬと共にまた深くなくてはならぬ。祈祷の本領即ちその根本精神は何処にあるか、この深き消息に通ぜずしては、まことの祈りは口に出でない。

いのりは決して我等の努力ではない。これによって神の知らざる事を彼に告ぐるの努力ではない。これによって神の欲せざる事を為さしむるの努力ではない。神は告げざる前に凡てを知り、求めざる前に我等の必要物を知り給う。神はまた自ら欲せざる事を如何に熱心に求められたればとて永遠にこれを実行し給わない。いのりを我等の功績となし、その努力のうちに神を動かすの理由を見出さんとするの誤謬は、行為によって義とせられんとするの誤謬と少しも違わない。いのりは言多きによりて聴かれない。異邦人の如く徒らに反覆の言を用いるは、祈りの根本精神を解せざる無知の所為である。それは確かに真実のいのりではない。

然らば何故に祈る必要があるか。我等の父は求めぬ前に我等の必要なる物を知り給うならば、唯に反覆の言を用いるに及ばぬばかりでなく、祈ることその事が無用ではないか。

世には論理上一応もっともにしてしかも実験上発生の余地なき疑問が少なくない。この疑問の如きもまたその一つである。試しに思い見よ、相愛する者の間に於いては、既知の事柄といえども屡々新しき熱心を以て告白せらるるではないか。彼等は素より言多きによりて聴かれようとは思わないから、徒らに反覆の言は用いない。彼等の発言は簡潔である。しかしながらまた熱心である。然るにこれをしも無用であると言って、彼等をして沈黙を守らしむることが出来るか。論理的には或いは無用であろう。しかし実験的には必要である。愛の抑えがたき要求である。愛の世界は論理を超越する。愛は語らずしては已むことが出来ないのである。

いのりは愛の発言である。父なる神に対する子たる者の霊の発言である。我等子たる者の霊を与えられて父の前に立つ、如何にして沈黙を守るに堪えようか。たとえわれ黙さんとするも、キリストの霊我が衷に躍りて、我をして口を開かざるを得ざらしむるのである。しかしてかく祈る時に、我等の心に言いがたき喜びがある。

Sweet hour of prayer! sweet hour of prayer! 「静けき祈りの時はいと楽し」とは誠に我等の実験である。祈りにまさる慰めはない。祈りは決して義務ではない、特権である。祈らざるは愛の堪えがたき苦痛である。しかして神もまた子たる者の告白を聴くことを上なき悦びと為し給う。愛なる彼はこれを聴かずしては安んじ給わないのである。かくて天には聴かんと欲する父の愛あり、地には聴かれんと欲する子の愛がある。この二つの大いなる愛の間に生まれしものが即ちいのりである。然らば誰かこれを冷たき論理の鞭をもて葬り去らんとするものぞ。

更に深き考察を用いんか、愛の告白たるいのりの霊は永遠の昔よりキリストに在って働いて居ったのである。永遠の昔より、子たるキリストが父なる神に対するの発言は即ち聖なるいのりであった。しかして天地の創造を始として、代々に亙る救贖の事に至るまで、一つとして神とキリストとの合議によらないものはない。キリストの欲求と神の意思とが相合致して、万物は存在するに至ったのである。キリストこれを求め神これを聴きて、凡ての事が成りつつあるのである。故にいのりは愛の産物であると共に、世界はいのりの産物である。今も我等に関するキリストの偉大なるいのりは間断なく神の前にささげられつつある。祈りなくして造化もなく救いもない。神に対するの愛ある所必ず祈りがなければならぬ。

努力ではない、愛の発言である。故に言の反覆は無用である。愛は冗長なる告白を厭う。愛を包むの言は出来得る限り簡潔にして意味深きものでなくてはならぬ。一語にして我が全心を籠むるに足るもの、一句の中に天地を蔵め得るもの、かくの如き言を以て神の中心に迫る所に、愛の発言たるいのりの特色がある。ゲッセマネの園にひれ伏して、血の雫の如くに汗を垂れつつ主は祈った、

「わが父よ、もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給え。されど我がこころのままにとにはあらず、みこころのままに為し給え。」

又十字架の上より彼は叫んだ、

「父よ、彼等を赦し給え。その為す所を知らざればなり。」

これらの短かき言の中に包まるる意義の大きさを思え。その他殉教者ステパノの最後の祈り、ウオルムス議会に於けるルーテルの祈りの如きみな同じ例に漏れない。

しかし言の簡潔なるは勿論祈りの長きを妨げない。我等は短かき言を以て多くの事を祈らねばならぬ。「その頃イエス祈らんとて山に往き、神に祈りつつ夜を明かし給う」(ルカ六の一二)。これ恐らく彼が常の習いであったであろう。同じようにフランシスもまた屡々「涙をもてそのふすまひたし」つつ夜を徹して祈った。ルーテルがコーブルヒ滞在中日毎に少なくとも三時間を祈りの為にきしは前に見たる通りである。長き祈りは短くして頻繁なる祈りと共に、神の子の甘き習慣とならねばならぬ。

二 祈祷の典型=主のいのり

いのりは神の子たる者が父に対する愛の発言である。故にその内容は無限であって、その形式は自由である。およそ人としての生活の触れ得べきものにして祈りの目的たり得ないものはない。己が事、人の事、神の事、肉の事、霊の事、地の事、天の事、そのいずれたるを問わない。「ただ事毎に祈りを為し、願いを為し、感謝して汝の求めを神に告げよ」とパウロも言うている。しかしてこれを表わす所の言辞もまた聖霊の導くがままである。例えば水の流るるが如くに、何の拘泥もなく自由に流露すべきである。衷より溢るる霊の声を束縛すべき法則はない。

しかしながら祈りは放恣ほうしなる肉の人、生まれながらの人の声ではない。それはキリストを信じて彼の霊を受けたる者の告白である。故に内容は無限であり、形式は自由ではあるが、その根底に自ら神の心にかなう原理がなくてはならぬ。聖霊は神の心にかなわない事を求めない、彼の告白には自ら事の軽重に従う順序があり、これを包む言辞には自ら天的の面影を宿している。この順序に従い、この特徴を保ちて、我等の口に上り得べき一切の祈りを煮詰めたるもの、即ちいのりの正味、その真髄、その典型たるものは何であるか。いのりは聖霊の自由なる発言なるが故にこれが典型について学ぶの必要はないと言うことは出来ない。聖霊は勿論個々の場合に直接我等を導くといえども、それは必ず聖書に啓示せられたる原理の下に於いてである。聖書の啓示を離れて聖霊は働かない。いのりについてもまた我等はその原理に関する聖書的啓示を必要とする。我等が神に対する無限にして自由なる告白も或る大いなる原理の外に出づることは出来ないのである。

この故に汝等はかく祈れ。(マタイ六の九)

「かく祈れ」というも、祈祷の方式又は法則ではない。故に勿論いつもこの通りに祈らねばならぬ筈はない。祈祷の原理である。典型である。我等の衷なる聖霊は、この典型に従って、自由なる発言を我等に供給するのである。しかし又我等の総ての祈りの正味がここに最も簡潔に言い表わされている以上、それはまた屡々そのままの言にて我等自身の自発的祈祷として我等の口に上るべきである。キリストによって選ばれたる言は、比いなく優秀なるものでなければならぬ。

 天にいます我等の父よ、
願わくは聖名の崇められんことを。
聖国の来たらんことを。
聖意の天の如く、地にも行われんことを。
我らの日用の糧を今日も与え給え。
我らに負債ある者を我等のゆるしたる如く、我等の負債をもゆるし給え。
我らを嘗試こころみわせず、悪より救い出し給え。
 国と威力と栄光とはとこしえに汝のものなればなり。
アーメン

ルーテルが言ったそうである、「主の祈りほど気の毒なる殉教者はない。それはいつも何らの尊敬もなく了解もなくして濫用せらるるからである」と。誠に彼ならずしては能わざる適切なる言い方である。教会に於いて、又は家庭に於いて、この貴き祈りがいとも無雑作に機械的に合唱せらるるを聴く時、我等は堪えがたき悲しみを覚える。かくの如きは仏寺に於ける善男善女が弥陀の称号の合唱に比して果たして何ほどの差があるか。

主の祈りをしてかくも悲惨なる殉教者たらしむるは言う迄もなく信者の祈祷の霊の欠乏による。しかし我国に於いてこの悲劇を一層助長しつつある原因として、邦訳聖書の不完全という事実をも見逃すことが出来ない。祈祷は子たる者が父と面を合わせての個人的対話である。故にその言辞は一切形式的のものたるを許さない。主のいのりをして神の子の父に対する発言そのままたらしめよ。然らずして、これを我等各自の現実の祈りとなさんと欲するも能わないのである。

主の祈り私訳

 天に御出なさる私どものお父さま、
どうぞあなたの聖名みなが崇められますように。
どうぞあなたの聖国みくにが来ますように。
どうぞあなたの聖意みこころが行われますように、天に於いてと同じく地に於きましても。
私どもの日用の糧を今日私どもに与えて下さい。
そして私どもの負債をゆるして下さい、私共も私どもの負債者等をゆるしますように。
そして私どもを誘惑の中に陥れないで下さい。
しかし私どもを悪から救い出して下さい。
国も力も栄も永久にあなたのものでありますから。
アーメン

先ずその著るしき構成に注意せよ。始めに呼びかけの辞である、終わりに頒詞である。しかしてその間に願う所のもの七、明らかに前後の両部分より成る。前半三条はいずれも「あなたの」といって、みな神の事に関わる、後半四条はいずれも「私ども」といって皆我等自身の事である。かくて三、四、及び七等の数に附着する特別の意味はここにも鮮やかに現われている。即ち三は神に関する数である。四は地に関する数である。しかして七は地上に於ける完全を表わすの数である。この一事を記憶して、我等は主の祈りの構成の偶然に非ざることを知る。

個人的の対話である。故に自ら最初に呼びかけの辞がある。しかして呼びかけの辞は大抵その語句の簡単なるに似ず中に無量の意味を含む。恰も顔を合わせて相見る時、最初の一瞥いちべつにすべての情誼の籠もれるが如く、又はピアノを弾ずる伶人の最初の一撃に全き調べの代表せらるるが如きである。相手方に対する親しみと尊敬、否その個人的相対的の心もちの全部が、何かの形に於いて呼びかけの語調に影響せずしては済まない。我等各自が多くの友に送る書翰の場合の実験にこれを徴すれば、けだし思い半ばに過ぐるものがあるであろう。

原語の順序に従えば「お父さま、私どもの、天に御出なさる」である。子として父を呼ばんとするに当たり、何よりも先ず口を衝いて出づる言が「お父さま!」であるは素より当然である。

天地の神を呼んで父という。偉大なる経験である。神は我等の創造者なるが故に父であるのではない。我等は生まれながら当然に神の子であるのではない。かくの如くに教える近代の所謂基督教的思想は、聖書にも基かず、事実にも合わない。聖書は力強く主張して曰う、人はみな神の心にかなわない者である。却って彼の怒りにのみ値する者、彼の顔を仰ぎ見ることの出来ない者、彼に少しもない者(彼にかたどられて造られながら)、彼より嗣業を受くべからざる者、即ち如何なる意味に於いても子と称すべからざる者であると。しかして事実もまた証明する、或る新しき創造によらずして神との間に父子の関係を実現したるものの一人も存在しない事を。

誠に人は霊によって新たに生まれずしては、神を現実に父と呼ぶことが出来ない。ただキリストを信じて、彼の霊を受け、全く新しき生命に入りて、始めてこの経験を味わうのである。神の子たるは十字架を信ずる者のみの特権である。

しかして彼等に取って、神は真実に父である。人の父がその子に対して抱く所の凡ての心を、最も高き理想的の態に於いて、神は己を信ずる者に対して抱くのである。彼は限りなく彼等を愛し、常に彼等を護り且つ導き、親しく彼等を慰め又励まし、己が有する一切のものを彼等の為に与えんと欲する。この聖なる父の愛に対する満腔の信頼が即ち基督者の子ごころである。

「お父さま!」如何に単純にして深き信頼の表白ぞ。ここに一たびキリストと共に十字架にけられし後また彼と共に甦りたる者の、新しき子ごころの発露がある。ここに再生の実験者の全信仰の告白がある。

次に「私どもの」という。信仰によって与えられし子たる者の霊を以て父の前に出づる時、我等は同じめぐみに与かりし凡ての兄弟姉妹を忘るることが出来ない。神は唯に自分一人の父ではない。彼は又彼等の父である。即ち彼等を包括したる「私どもの父」である。我等はみな同じ霊を与えられ同じ祈りのこころを以て彼の前に在るのである。何となれば、共に一つみたまを以てバプテスマせられて、我等はひとりの主キリストをかしらとせる有機的一体の関係に結ばれたる者であるからである。かくて真実の基督者はみなその祈りを共にせざるを得ない。彼等のいと小さき一人が隠れたる所にて「父よ」と呼ぶ時、全地に於ける一同の霊がこれに和しつつある。祈りの世界に於いて、我等はみな霊と霊とをもて互いに相見、相合うのである。これ誠に如何ばかりの慰めであるか。我等はいかなる場合にも、ただ自分一人の父として神に近づくことが出来ない。愛は我等をして凡ての聖徒を憶わしむる。我等は常に彼等と共に父の前に在る。

しかしながら「私どもの」の意義はこれのみにては尽きない。この一語に二重の意義がある。天地の神を父と仰ぐ我等のこころは、唯に凡ての聖徒に繋がるるを感ずるのみならず、又その他雲の如き無数のたましいの存在を忘るることが出来ない。いのりの霊はキリストの霊である。しかしてキリストの霊は全人類を熱愛するの霊である。彼は暫くも全人類を忘れない。否、凡ての人をして遂に神の子たらしめんことを希って、彼自ら断えず祈りつつある。然らば彼に動かされて我等もまた父を呼ぶ時、如何にして彼等を忘るることが出来ようか。神はただに我一人の父ではない。また現在の基督者のみの父として終らない。彼は遂に全人類の父たらんことを欲し給う。我等の最も切なる願いもまた其処にある。故に曰う「お父さま、私どもの」と。これ全人類を抱擁したる偉大なる同情の声である。然り、人類的熱愛の叫びである。我等はこの意味に於いてこの語を口にする。しかして言いがたき悦びを痛感する。またこれを聴く父の大いなる満足を予感する。然らずしてもし基督者の愛なるものがその同志の間にのみ限らるるものならんか、禍いなるかなクリスチャン。我はその一人たることを恥辱とする。然れども悦べ、安んぜよ、たとえ凡ての基督者が如何にあろうともイエスこそは白熱的人類愛の人であったのである。感謝すべきは、彼のこころを以て神に祈るの福いである。「お父さま、私どもの」という、子たる者が神に対する呼びかけの辞として、もはや尽きているように見える。しかし実験上、なお或るものの欠乏を感ぜざるを得ない。

愛と希望とは如何なる場合にも必ず信仰に伴う親しき姉妹である。そのいずれかを見失う時、信仰に大いなる痛みがある。神の子たる者の生活の基調はこの三のものにある。彼は信ずると共に愛する、愛すると共にまた望む。愛せずして、望まずして、信ずる者の心は堪えがたき欠乏を感ぜざるを得ないのである。

「お父さま」と言って、我等は満腔の信頼を吐露する。「私どもの」と言って、我等は人類的熱愛を告白する。然らば何処ぞ、我等が永遠の希望の表現は。曰く「天にお出なさる」の一句がそれである。

我等の神は素よりいまさざる所なき神である。「天も諸天の天もるること能わざる」神である(歴代下二の六)。彼は天地に充ち、また天地を超越して存在し給う。彼は或る場所を限りて拝すべき方ではない。ただ霊とまこととを以て拝すべき遍在的超自然的霊的存在者である。聖書は神のこの性質を高唱するに於いて如何なる強き言をも惜しまない。

しかしながらそれにも拘わらず、聖書はまた屡々神の特別なる住所として天について語る。神の栄光の玉座の据えらるる所、神の権威ある統治の中心たる所、神の聖なる意思の完全に実行せらるる所として天を見る。従って神を呼んで特に天に在す者という。

この両様の思想は果たして矛盾であるか。否、そうではない。例えば我なる者は我が全身に遍在する。しかしそれと共に、我が意思又は感情又は思想の中心たる事実に着目して、我は頭脳の中に又は心臓の中にあると言うも、誰かその真理を認めないであろうか。神は宇宙到る所にいまし、また宇宙を超えていまし給う。しかしながら同時にまた彼は特に天にいます。彼処にて彼の栄光は現われ、彼処より彼の統治は全宇宙に及ぶ。彼処より彼の霊は降り、彼の使いは来る。復活のキリストがその栄光の体をもて上りて今に至るまで在る所もまた彼処である。それが天文学上宇宙のいずれの部分を指すかの問題に至っては素より容易に解決すべくもない。その明確なる場所は未だ我等に啓示せられないのである(思うに諸天体の幾多の系統の上に更に全宇宙の中心と見るべき場所が存在するのであろう)。いずれにせよ、その意味する所は単なる譬喩ではない、現実の場所である。しかしてかかる場所的観念を神に結び付くる事は決して彼の純霊的性質と矛盾しない。

天!神とキリストとのいます所、彼の栄光の充つる所、その聖意の成る所である。やがて彼処よりキリストの再び来たる時、その天的栄光と完全とがそのまま地上に実現するであろう。我等の望みは彼処にある。我等の国籍、我等の嗣業、我等の慕う所はみな彼処にある。しかして祈らんが為に父を呼ぶ時、我等は彼処を憶わずして、ただ彼のみを見ることが出来ない。「お父さま、私どもの」と言い出づる中に、天の光景は早や我等の眼前に浮かび出づるのである。祈りに於いて我等の心は既に天に在るのである。

「天に御出なさる私共のお父さま!」信仰と愛と希望とに充ちたる如何に美しき辞よ。我等の神を呼ぶにこれよりも勝りたる言があるか。こは単に呼びかけではない。祈祷そのものである。我等の祈りの凡てがいみじくもその中に言い尽くされているのである。尊敬すべき説教者チャルマーズが死の前夜、彼は己が庭園を漫歩しつつ、低けれども強き調子にてこの一語を繰返して居ったという。その時実に彼の全生涯の祈りが吐露せられつつあったのである。我等もまたもし他の何事をも為す能わざる日に至らば、ただ安んじてこの一語のみを繰返すであろう。感謝す、主よ、この貴き詞を我等に教え給いし事。

かくの如くにして神を呼べば、彼は応と答えて我等の顔を見守りつつ求め如何にと待ち給う。言う迄もなく彼はその子らが己に求むるに最も善きものを以てせんことを欲し給うのである。神の子として我等の求め得べき最も善きものは何であるか。

確かにそれは我等自身に関する事ではない。何となれば我等は一たび己が罪を認め、又かかる罪人に対する神の限りなき恩恵を識って、自己を全然彼の前に投げ出したる者であるからである。神の子とせられたる者の最も著るしき特徴は、自己本位の撤廃にある。しかして之に代わる神本位の確立にある。彼は再び自己の為に生きない。彼に取って「生くるはキリスト」である。求むるは神のためである。たとえ自身は如何になろうとも、ただ神の栄光の挙らん事をのみ彼は願う。神の立場に於いての要求、これ彼の祈りの第一である。

神の立場に身を措いて見て、我等は今更の如くに我等の世界の荒廃を痛感せざるを得ない。始めに神、天地を創造し、植生と光明と動物とを以て地を飾り、己にかたどりて造りし人をその間に置き給いしは、疑いもなく人をして彼の聖名を崇めしめ、彼の聖意を行わしめ、しかして遂に彼の聖国を地上に実現せんが為であった。この目的を以て生まれし世界はそのあしたには、彼のこころに適って「はなはだ善く」あった。然るに見よ人は忽ち彼にそむき、万物は之が為に呪われて、造化の目的は早くも蹂躙じゅうりんせられたのである。しかして霊界並に物界の荒廃は年を経る毎に烈しくなりまさるように見える。崇めらるべき筈の聖名はかくて汚されつつある。行わるべき筈の聖意は背かれつつある。来たるべき筈の聖国は阻まれつつある。

この故に我等の祈りは、先ず第一に聖名の為でなければならぬ。アダム夫妻が楽園に於いてサタンに惑わされ、エホバの禁じ給いし樹の果を食ろうて彼の聖名を汚しし以来、凡ての禍が人の世界に臨んだのである。聖名の冒涜は害悪の本源である。しかして独りアダムのみならず凡ての人が同じ事を繰り返しつつある。凡ての人が神にそむき、或いは彼の聖名を忘れ、或いは之をけなし、或いは之を斥け、或いは之を嘲りつつある。

我等は父の名のかく蹂躙せらるるを見るに忍びない。我等は祈る、「どうぞあなたの聖名が崇められますように」と。ああ聖名をして崇められしめよ、全人類をして神の前に跪かしめよ。凡ての人をしてその最も愛惜するものを主の前にささげしめよ。嬰児乳児の口より讃美を溢れしめよ。若き人の恋を主の為に犠牲にせしめよ。婦人の容色を信仰の為に衰えしめよ。老いたる人の心を希望の為に躍らしめよ。政治家をして正義の為には亡国を覚悟せしめよ。資本家をして愛の為に労働者の足を洗わしめよ。労働者をして内なる酒杯の溢るるにより外なる不満を忘れしめよ。凡ての家庭に於いて神をその家長たらしめよ。商店と工場とを祈祷の室となし田園を礼拝の堂と化せしめよ。かくて全地の上より偉大なる讃美の合唱を挙らしめよ。聖名はかくの如くにして崇められねばならぬ。エホバの栄光は他の一切のものの上に高く高く聖め別たれねばならぬ。

我等はこの偉大なる祈祷の確かに聴かれつつある事を知る。キリスト十字架の上に死して、人類はその良心にかつて見ざりし革命を経験したのである。彼等は漸く己が罪を自覚し、キリストの贖いを信受して、彼を崇めつつある。しかしてキリストこそは最も適当なる神の聖名である。彼は「神の栄光の輝き、神の本質の像」である。彼に於いて聖名は確実に崇められつつある。しかしながらそれは僅かに少数者の間に過ぎない。多数者は依然として神の冒涜者である。ああ我等の願いの充たさるべき日は果たして何時か。我等は知らない。ただその日の到るまで、我等は日々にこの大いなる祈りを繰り返すであろう。

第二に我等は聖国の為に祈る。聖名は発端であって聖国は終局である。聖名は礎であって聖国は冠である。造化の目的は完全なる国の建設にあった。しかしてもし聖名にして汚されなかったならば即ちアダム及びその子等にして神に背かなかったならば、完全にして福いなる国が幾千年の昔既に地上に実現して居ったであろう。然るに人は罪を犯し、罪は更に死をもたらして、我等の世界は涙と血とに塗れたる惨憺たるものと成ってしまった。このままにして終るは素より神の子たる者の堪え得る所でない。聖国来たらずしては造化は遂に失敗に帰するのである。故に我等は聖名の崇められん事に次いで、之が為に祈る。曰く「どうぞあなたの聖国が来ますように」と。

この国来たらば世界は実にその面目を一新するであろう。「エホバは地の果てまでも戦争をやめしめ、弓を折り、ほこを断ち、戦車を火にて焼き」凡ての軍艦をダイナマイトにて爆破せしめ給うであろう。その日、我等は再び「海軍休日」といい「制限比率」というが如き微温ぬるき声を聞くことが出来ぬであろう。また「彼は民の苦しむ者の為に審判をなし、乏しき者の子らを救い、虐ぐる者をくだき給う」であろう。従って血腥ちなまぐさき労衝争議や物騒なる社会主義無政府主義又は過激主義等の運動は全く絶滅して、あらゆる弱者より歓呼の声が湧き出づるであろう。また彼は「とこしえまで死を呑み、すべての面より涙を拭い」給うであろう。また「昼は再び我等の光とならず、月もまた輝きて我等を照らさず、エホバ永遠に我等の光となり、我等の神は我等の栄と成り給う」であろう。加之しかのみならずすべての造られたるもの即ち自然そのものさえ「滅亡の僕たる状より解かれて、神の子らの光栄の自由に入る」であろう。詩人シラーが歌いし「ああ我が上なる天はいつまでも地に触れず、彼処は遂に此処と成らない」との歎きは、その日全く癒さるるであろう。

この福いなる聖国は、回復せられたる楽園ではない、その完成せられたるものである。人も自然もここには創造当初の状態より遥かに完全なるものに化せらるるのである。造化の終局的目的たる国、万物の理想に達したる国、神が凡てに於いて凡てたる国、これ即ち聖国である。

ああ聖国をして来たらしめよ。天地の創造をしてその目的を達せしめよ。神の理想をしていみじくも成就せしめ、彼の心に聖なる満足を覚えしめよ。この国地上に成るを見るまで、彼は産みの苦しみをやめ給わないのである。

しかして聖国は確かに来たりつつある。その建設者たるキリストの迎えらるる所に、聖国の準備的実現を見つつある。信者各自の胸の中に建設せらるる平和の王国は即ち之である。この準備的実現なくして、聖国そのものは来たらない。やがて平和の王国の市民等の数満ちて、準備の完うせらるるや、俄然として聖国は地上に到来するであろう。キリスト再び顕われて、之を成就するのである。我等はその日を待ち望む、まことに衛士えじあしたを待つが如くにその日を待ち望む。

第三に我等は聖意みこころの為に祈らざるを得ない。聖名の崇拝に始まりて、聖国の到来に終る迄の間に、聖意が実行せられねばならぬ。神は己が名の崇められん事のみを欲し給わない。更に進んで己が意の確実に行われん事を求め給う。「我に向かいて主よ主よという者、悉くは天国に入らず、ただ天にいます我が父の聖意を行う者のみ之に入るべし」とキリストは言った。然るに事実は如何。神を知らざる人は言う迄もなしとして、彼の聖名を唱える者の間に於いてさえ、聖意にそむく事の如何に多きぞ。ああ基督者の誘惑に対する見苦しき敗北、彼等相互の憎悪と暗闘、教会の偽善と俗化、基督教国の私慾と不義、凡て之等の事実が神の心を痛ましむること如何ばかりなるかを思う時、我等はただ涙をもて祈るの外を知らない。曰く「どうぞあなたの聖意が行われますように、天に於いてと同じく地に於きましても」と。

然り、我等の願いは聖意が天に於いて行わるると同じように地に於いてもまた行われん事にある。天に於けるその美わしき状態を思え。彼処にて聖意を行う者は誰か。天使である。天使と聞いて今の人、基督者までが、ただ之を詩人又は小児の想像と見る。これ確かに信仰の堕落である。我等は勿論天使について中世紀に行われたる如き迷信を抱いてはならない。又いたずらに好奇心を働かせてはならない。しかしながら天使の実在とその美しき活動とは聖書の啓示する厳粛なる真理の一つである。彼等は神の統治と摂理とに仕える機関であって、ひたすらに聖意を行う事を以て己が生命とする。彼等は「天にありて常に神の聖顔を見」彼と共に喜び彼と共に悲しみ、彼の欲し給う所をその声に応じて直ちに実行するのである。思うに宇宙に於ける最も讃美すべき光景の一つは、天にありて実現する神の聖意と天使の活動との完き調和にあるであろう。ダビデが彼等を呼びて「聖意を行う僕ら」と言いしは誠に適切なる命名である。

しかして我等は願う、凡て地にありて聖名を崇むる者もまた彼等の如くに神に仕えんことを。基督者よ、天使の如くに神と親しくあれ、彼等の如くに潔くあれ、彼等の如くに愛に充ちてあれ、彼等が神の指図に従わずしては思わず、語らず、行わざるが如くに、汝の心の小さき思い、汝の口の一言、汝の歩むと立つと坐るとに至るまで、悉く之を聖意にかなうものたらしめよ。しかして地に於いてもまた天に於けるが如き偉大なる調和を実現せしめよ。

神はこの祈りに応えんが為に、聖霊をおくりて貴きみわざを果たさしめつつある。聖霊は風として人の知らざる所に自由に動き、火として凡ての汚れを焼き尽くし冷たき又は微温ぬるきものを熱せしめ、水として干からびたる心を潤し之を育み、油として人の生活をいともかぐわしき香の中に浸らしめつつある。驚くべきは飽く迄も周到にして且つ力強き聖霊のみわざである。彼はやがて必ずそれを完うし給うであろう(ピリピ一の六)。我等はかく信じつつ、なおも切にその善きみわざのために父に向かって祈る。

聖名と聖国と聖意、この三について祈りて、我等が神の為に祈るべき事は尽きたのである。しかして神の為に祈れば、神の子たる者の願いは尽きると言うことが出来る。聖名にして崇められ、聖国にして来たり、聖意にして行われさえすれば、すなわち足る。その上に我等また何をか求めようか。

しかしながら我等は神の立場より普遍的一般的の求めを抱くべきと共に、また自己の置かれたる立場に於いて個人的の願いをたねばならぬ。何となれば、聖名の崇められ、聖国の来たり、聖意の行われんが為に、我等各自もまた或る役目を務めねばならぬからである。神の聖業に我等自身の参与することを得んがため、神の栄光の我等各自を通して挙らんがため、我等は更に自己についての祈りをささげざるを得ない。ここに於いてか「あなたの」との二人称に次いで「私共に」又は「私共を」との一人称の願いが来るのである。

自己について我等は何を願うべきか。それは明らかに我等の二重の立場に基かねばならぬ。第一に造られたる者として、第二に罪びととして。

第一に我等はみな造られたる者である。我等の生命は少しも己に属しない。その存在、その持続、その発達、悉く神による。我等は自ら生命を寸陰も延ぶることを得ず、頭髪一筋だに之を白くしまた黒くすることが出来ない。生命の事について、我等は絶対的に神に依頼せねばならぬ。

生命の存続と発達との為に必要なるものは何か、言う迄もなく糧である。我等は生きんが為に日々に適当なる糧を要求する。霊の糧、肉の糧、之なくして生命は死滅を免れない。然らば如何にして之を獲得すべきか。糧の供給を、ひとしく造られたる者に期待するほど愚かなる事はない。「汝等鼻より息の出入する人に頼ることをやめよ。かかる者は何ぞ数えるに足らん」。ただ之を創造者たる父に求むべきのみ。故に我等は祈る、「私どもの日用の糧を今日私どもに与えて下さい」と。

この祈祷の位置より見て、我等は之を肉の糧にのみ限るべき理由を知らない。よしその原語 ton arton を糧と読まずしてパンと読むとも同様である。イエス自ら言った「我は生命のパンなり」と。人の生命は肉のみより成らない。我等は造られたる者として肉のパンと共にまた勿論霊のパンをも日毎に父に求めねばならぬ。否、我等のたましいの日毎に緑の野に臥させられ憩いの水浜みぎわに伴われん事こそ、肉の充足にもまして切なる願いである。

しかしながらそれにも拘らず、この祈りの力はより多く肉の方面にある事を拒むことが出来ない。何となれば霊的生命については、造られたる者としてよりもむしろ罪人としての立場に於いて強く之を祈らざるを得ないからである。故に我等は暫く肉の糧の一方面よりこの祈りを観察しようと思う。

「私どもの日用の糧を今日私共に与えて下さい」之を要求の発表といおうか、むしろ信頼の告白と言うの適切なるにはかぬであろう。これ糧に関する配慮を全然父に一任したる者の声である。聴け、その響きの如何に平安に充つるかを。「日用の」という、その原語 epiousion は此処及びルカ伝十一章三節を除く外ギリシャ語に於いて何処にも見当らざる語であるがため、その意味を確定することは甚だ困難であるが、之を epi ousia(存在のため)の組み合わせと見るの説は多分謬らないであろう。かくてその意味は箴言三十章八節に「ただ無くてならぬ糧を与え給え」とあると全く一致するのである。一般に行わるる訳語「日用の」の意味もまた之に外ならない。「無くてならぬ」糧!必要以上のものはいざ知らず、必要のものだけは必ず父によって備えらるるのである。「空の鳥を見よ、野の百合を思え、神は之等をも養い又は装い給えば、まして汝等をや」とイエスは叫んだ。我等は之を確信する。しかして安心する。しかして又決して必要以上のものを求めざらんことを欲する。

次に「今日」与え給えという。必要以上のものは絶対に之を求めないばかりでない。明日以後のものは予め之を求めないのである。今日は今日の分にて足る。明日の分は明日また更めて之を求むるであろう。

この心を以てして、糧に関する思い煩いは残なく我等の胸中より排斥せらるるのである。神に背かざる生活を営む者にして、誰か今日一日だけの糧を手にし得ざる者があろうか。明日又は月末の事を取り越すをやめよ。天にいます汝の父を信ぜよ。一日の苦労は一日にて沢山である。生活問題の根本的解決は実にこの祈りの精神に於いてある。

第二に我等はみな罪びとである。罪とは何か。それは造られし者としての弱さではない。自己の責任である。神に対して果たさねばならぬ重き負債である。しかも絶対に果たすことの出来ない負債である。その事は我等が人に対して犯せし罪についてさえ良心の実験の証明する所である。人に対して為すまじき事を為したる時、誰か或る方法によりてその責任を悉く果たし得ると思うものがあろうか。必ず之を償わざるべからずとは勿論良心の要求ではあるが、しかもたとえ如何なる償いを実行したればとて、それによって当然我が責任が解除せられたとは何人も考えない。「済まぬ」との自覚は何時までも良心の上より消え去らないのである。罪に関する良心の苦痛を消滅せしむる途は唯一つのみ。何か。曰く赦さるる事である。

我等が神の子と成りしはキリストの贖いを信じて罪を赦されたからである。我等は既に赦されたる罪人である。しかしながら一たび赦されて神の子と成りたる後、我等は果たして全く罪を犯さないか。否、誠に残念ながら我等は今もなお日々に罪を繰り返しつつある。これ如何ともすべからざる事実である。罪について最も鋭敏なる感覚をたねばならぬ筈の基督者が、却って自己の罪を意識することの甚だ鈍きを我等は心より悲しむ。「もし罪なしといわばこれ自ら欺けるにて、真理我等の中になし」、誰かこの言を現在の我に適用なしと言い得るものぞ。

「そして私共の負債をゆるして下さい」。「そして」の一語の語勢を注意せよ。前の祈りと同じ心もちの継続である。矢張り日毎にである。日毎に我等の罪の赦しを得ずして、我等の良心の苦痛は消え去らない。今日犯せし凡ての罪を、またキリストのいさおしの故に悉く赦されんことを我等は伏して希う。

罪の赦しの理由はキリストの贖いより外に何もない。我等自身の如何なる功績にもよらない。しかしながら之を願うこころは誠実でなければならぬ。しかして我等もし赦されたる罪人としての誠実を失わざらんか、我等は必ず自己に対して悪を為したる者の罪を、喜びて赦すべき筈である。己が大いなる負債を免されたるの歓喜に溢るる者が、いかでか己に対する遥かに小さき負債を免さずしていらるべきか。自ら赦さんと欲する心こそ、赦されたる者の誠実のしるしである。故にこの心なくして我等は再び神の赦しを求むることが出来ない。ここに於いてか附加して言う「私共も私どもの負債者等を免しますように」と。赦しを願う者のこの誠実の必要を高調せんが為に、主は祈りの後にも再び注意して言い給うた。

汝等もし人の過失あやまちゆるさば、汝らの天の父も汝らを免し給わん。もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給わじ。(マタイ六の一四、一五)

我等が人を赦す如くに神は我等を赦し給うという。素より原因結果の関係ではない、また程度の比例でもない。しかしながらその実質上確かに或る共通のものあるを拒むことが出来ない。然り、我等が人を赦す時に、その時我等は最も神らしくあるのである。

罪人として我等のまず祈るべき事は、犯したる罪の赦しであった。次には必然、犯さんとする罪についての助けでなくてはならぬ。

目を挙げて見れば、我等の周囲に又前途に、無数の誘惑が我等を呑もうとして待っている。ああ誘惑の恐ろしさよ。誰か之を侮るものぞ。およそ人の恐るべき敵にして誘惑者サタンの如きはない。彼の策略は無限である。彼は凡ての人に応ずべき最も適切なる方法を知っている。青年には青年の、婦人には婦人の、貴族には貴族の、学者には学者の、皆それぞれ特有なる誘惑がある。性質、能力、境遇、その他如何なる事情の差別を問わず、誘惑の迫り得ない人は一人もない。しかして一たびその中に陥らんか、如何なる悪しき事と雖も、之を為さざるを得ざるに至るのである。

犯したる罪を思う時、罪は悲しむべき負債として我等の良心を圧する。犯さんとする罪を見る時、罪は恐るべき誘惑の方面に於いて我等の良心を脅かすのである。誠に誘惑の前に我等は戦慄する。如何にして之に打ち勝つべきか。誰か自己の力に頼って誘惑に打ち勝ち得る者があろうか。負債としての責任についてはただ神の赦しを求むるより外なきが如くに、誘惑の力に対しては我等はただ神の断えざる助けを願うより外を知らないのである。故に祈る「そして私どもを誘惑の中に陥れないで下さい」と。

神は進んで我等を誘惑の中に突き入れ給わない。しかしながら彼が一たびその聖手を引き給えば、もはや望みは絶えるのである。彼の手にすがらずして、我等は誘惑の大波にさらわれざらんと欲するも能わない。ただ彼われと共にいましてのみ我は危うくもしかし安全に逃るることが出来るのである。この間の消息は、誘惑に遇いし時の我等自身の実験に照らさなければ解らない。ダビデ歌って曰く、

エホバもし我等のかたいまさざりしならんには、
水は我等を蔽い、流れは我等の霊魂たましいをうち越え、
高ぶる水は我等の霊魂たましいをうち越えしならん。
エホバは讃むべきかな、
我等を彼等の歯に渡して噛み食らわせ給わざりき。
我等のたましいは捕鳥者とりとりのわなを逃るる鳥の如くに逃れたり。
わなは破れて我等は逃れたり。
我等の助けは天地あめつちを造り給えるエホバの聖名にあり。(詩一二四)

祈る、彼つねに我等の方にいまして、我等を誘惑者の歯に渡して噛み食らわせず、捕鳥者の羅を逃るる鳥の如くに逃れしめ給わんことを。

造られたる者として、我等は霊と肉との糧について祈り、罪びととして、我等は犯したる罪の赦しと犯さんとする罪の助けとについて祈る。これみな我等が日々に与えられんことを欲する恩恵である。これらの祈りにして断えず聴かれさえすれば、我等は神の子らしき日々の生涯を続くることが出来るであろう。しかしながら我等の祈りはなおここに尽きない。我等は何時迄も罪と誘惑との間に生きんことを欲しない。我等の切なる願いは、何時いつか遂には凡ての悪より永久的に救い出されんことにある。罪とそれに基くあらゆる害悪、良心の苦痛、家庭の荒廃、人との関係の素乱、社会組織の不秩序、戦争、殊にまた死、また自然界の欠陥、すべてこれらの悪より永久的に救い出されて、再び悲しみ歎きの存せざる生活に移されん事こそ我等の終局的の願いである。何人か之を望まずしてただ日々の断えざる保護と赦免と指導とのみを以て満足することが出来ようか。

故に自己に関する最後の祈りはこの総括的終局的の一条でなければならぬ。曰く「しかし私どもを悪から救い出して下さい」と。「そして」を繰り返せる後に「しかし」といって、まずそのの心もちの一転せるを見る。不断の恩恵より終局の恩恵へ、日々の生涯より永遠の生涯への転回である。我等の祈り此処に至りて、我等は時を超越したる彼方とこしえの国を望みつつある。其処には誘惑者は既に滅ぼされ、我等罪人はみな栄光の姿に化せられ、天地もまた全く新しきものに造り更えられて、悪の痕跡をだに発見すること能わず、之に代わりて義が宇宙に充ち満つるであろう。我等は之を望む。しかして之が為に祈らざるを得ない。

聖名、聖国、聖意、次に糧と赦しと導き、しかして最後に悪よりの救出である。始めに神のため、終に我等のため、この七箇条を以て我等の祈るべき凡てが尽くされている。しかして一語の贅疣ぜいゆうを見ない。実に完全にして極美である。

これらの願いに次いで多くの聖書写本に載せらるる「国と力と栄は永久にあなたのものでありますから、アーメン」との頌詞しょうしは、現に存する最も古き時代の写本には大抵欠けているという。従って最初の原本にはそれが多分無かったものであろうとの推定は、その反対の想像よりも有力ならざるを得ない。しかしながら誰が之を決定することが出来ようか。この一句もまたイエスの口より出たのであるかも知れないとの保留を打ち消し得る材料はない。

仮にそれが本来主の祈りの一部を形作らなかったにもせよ、この祈りをささげ終りし者の思いを代言する声として、かくも適切なるものがあろうか。愛の発言たる祈りは事実上願いのみを以て終ることが出来ない。願いの底に讃美の潜流がある。凡ての願いのささげられたる跡より、引き続き熱き讃美は上に向かってほとばしらざるを得ないのである。「讃美は祈祷の冠であり、その安息である。」

神のための祈りも我等のための祈りも、共に永遠の国をその目標とする。しかして国そのものと、之を実現するの力と、之によって顕わるる栄光とは、みな永遠に彼に専属するのである。彼は必ず己が国を己が力をもて己が栄光のために実現せずしてはやまぬであろう。従って聖名は必ず崇められ、聖国は必ず来たり、聖意は必ず行わるるであろう。我等の糧は必ず与えられ、我等の負債は必ず赦され、我等は決して誘惑に渡されず、しかして遂に我等は必ず凡ての悪より救出さるるであろう。

ここに於いてか確信より出づるアーメン(かあれかし)は讃美の叫びとして声高く我等の口より溢るるのである。

* * *

かの日に於ける我等の讃美

 天と地とに御出なさる私どものお父さま。
あなたの聖名は崇められました。
あなたの聖国は来ました。
あなたの聖意は行われました、天に於いてと同じく地に於きましても。
私共の日用の糧は日々に与えられました。
そして私共の負債は悉く免されました、私共も私どもの負債者等を免しましたように。
そして私共は誘惑に陥れられませんでした。
しかし私共は凡ての悪から救い出されました。
国と力と栄は永遠にあなたのものでありますから。
アーメン

〔第二〇号、一九二二年一月〕