第一 世とその欲とは過ぎゆく

藤井武

なんじら世をも世にあるものをも愛すな。人もし世を愛せば、父を愛するの愛その衷になし。

世、即ち不信の社会全体(Kosmosは宇宙を意味し、或いは人類を意味し、或いは特に不信の社会を意味する)またその中にある諸々の美しきものを、基督者は如何に取扱うべきであるか。実際我らは屡々ここに心ひかれるのである。我ら近代人は屡々信仰と芸術との調和を夢みる。イエスの足跡を踏みつつギリシャ主義の美的生活を実現することは出来ないものか。もし日々におのが十字架を負うべくあらば、黄金に真珠をちりばめしものもまた善くはないか。不信の社会なればとて一概に之を排斥すべき理由はない。その中にある所の美しきものまでみな之を罪の端くれの如くに呪わんとするは、何たる狭き精神であろう。我らは世のものたると否とを問わず神の与えたもう凡ての悦楽を感謝して享くべきである、しかして限りなく自己を育て上ぐべきである――と。此の種の思想の傾向に共鳴を感じない基督者が今日果たして幾人あるか.

しかしながらこれ実は小ざかしき考え方である。聖書は断じて斯の如き思想を認容しない。この問題についての聖書の発言は常に簡単明瞭である。使徒ヨハネがここに言うとおりである。曰く「なんじら世をも世にあるものをも愛すな」と。愛するなかれである。世と世にあるものとに対して我らの取るべき態度はこの一言に尽きる。たとえ如何に真実らしき理由があってもいけない。世と妥協するな、世の精神に倣うな、世の習慣を採用するな、世の喝采を求めるな、信仰を芸術のくびきにつなぐな、ギリシャ主義の風をしてシオンの山の上を吹かしめるな、すべて世とそのものとを愛するな!

何故?理由をくどくど説明するまでもない。世を愛する心そのものが最上の説明である。疑うものは自ら世を愛して見よ。不信の社会と慣れあいて見よ、そこに円満なる交際を続けて見よ、帝劇又は帝国ホテルなどに頻々と出入りして見よ、盛装の異性と共に踊りて見よ、新聞界雑誌界に自己宣伝を試みて見よ、論文を提出して学位を得て見よ、新時代の花形と謳歌せられて見よ、芸術味ゆたかなる家庭を作りて見よ。……それらの事が善いか悪いか私は知らない。ただ一つの事は確かである、すべて斯の如き傾向にあるところの生活には、神をおもう心が決して溌剌と生きていない事これである。私は小さき外側の問題の是非を争う余裕をもたない。踊りたき人をして踊らしめよ。しかしながら彼らをして告白を偽らざらしめよ。世を愛しつつなお神を愛すると言う者があるならば、私はその人の偽善をにくむであろう。

けだし神の国の趣味と世の趣味とは根本的に相容れない。彼処に貴き事は此処に卑しとせられ、彼処に醜き事は此処に美しと感ぜられる。イエスの教えに逆説の充ち満ちていたのはそのために外ならない。「異邦人の君のその民をつかさどり、大いなる者の民の上に権を執ることは汝らの知る所なり。汝らのうちにては然らず、汝らのうちに大いならんと思う者は汝らの役者えきしゃとなり、かしらたらんと思う者は汝らの僕となるべし」(マタイ二〇の二五―二七)。世の大は神の国の小であり、世の賢は神の国の愚であり、世の光栄は神の国の恥辱である。実に二つの世界のプログラムは全体に於いて相矛盾する。我らは必然いずれの世界かに対して異邦人とならねばならぬ。「我らの国は天にあり」と言い得る者は、世にある「凡てのものを損なりと思い、彼(キリスト)のために既に凡てのものを損せしが、之を塵芥のごとく思う」(ピリピ三の八)。之に反して我ら世を愛するとき我らは事実上神の国の異邦人である。その律法は一つとして我らの心にふさわない。すべてが何とはなく奇怪である偏狭である峻烈である。かくて神を愛するの熱心は我らの衷に漸く衰え、遂に全く消え失せる。

おおよそ世にあるもの、即ち肉の慾、眼の慾、所有の誇りなどは、父より出づるにあらず、世より出づるなり。

世にあるものは多い。その中には甚だ高尚に見えるものも少なくない。屡々我らの心惹かれる所以である。しかし高尚らしく見えるものの実質如何。おおよそ世にある一切のものは、之を三種の範疇に大別することが出来る。肉の慾、眼の慾、および所有の誇りこれである。

肉の慾は世にあるものの第一である。飲食の事、生殖の事、衣服の事、住宅の事、これらに勝りて世の人の心をそそぐものはない。社会問題といい、性の問題といえば、ほぼ現代社会の問題を尽くすのである。

しかして肉体の要求必ずしも悪しくない。肉体そのものは聖い。それは神の造りたまいしものである。それは霊魂と共に人の生命の要素である。それはまた聖霊の宮として神の栄光を顕わすべきものである(前コリント六の一九、二〇)。故にキリストの救いは霊魂のみに止まらない、必ずやその機関たる肉体にまで及ぶ。「……我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと即ちおのが体の贖われんことを待つなり」(ロマ八の二三)。神の創造にして人の生命の要素であり、聖霊の宮たるに適するものにして、霊魂と共に完うせらるべきもの、斯の如きものの要求が始めより悪しくあろう筈がない。肉体の神聖であるが如く、その要求もまた本来神聖である。

ただ神の創造には大いなる秩序がある。万物各々自ら止まるべき地位を有する。その地位に止まり、その従うべき所に従ってこそ宇宙の調和は実現する。秩序一たび紊乱びんらんしては自然は悉く壊れざるを得ない。肉体は聖い、しかしそれは何処までも霊魂の機関である。均しく人の生命の要素であるとはいえ、肉性は霊性の配下に立たねばならぬ。まず神の国と神の義とを求めよ、然らばすべて肉体の要求は適当に満たされるであろう。之に反して、卑きもの却って高きものを支配し、霊魂は肉体の要求の奴隷たるに至らんか、人の生活の穢さ、豚も之には及ばない。肉の「慾」というは大抵この乱れたる要求を意味する。しかして世にあるものの第一は実に肉の慾である。

第二は眼の慾である。眼もまた肉の一部には相違ないが、しかしその職能より考える時、眼は肉よりも寧ろ霊に属する。「身の燈火は眼なり」という。光明は眼より来る。知識と想像、思索と鑑賞、批判と憧憬、すべてそれらの働きを代表するものが眼である。眼の慾即ち精神の慾である。

精神又は霊魂の要求そのものが聖いことは肉体の要求の場合と異ならない。しかしここにもまた堕落したる慾がある。精神といい、心といい思いという、素々もともと何のために造られたのであるか。神を愛せんがためである。故にいう「汝の心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして主たる汝の神を愛すべし」と。精神がその奉仕を造り主に致さずして被造物に致す時、精神は淫を犯しているのである。芸術を愛し哲学を愛するはよい。しかしすべてが神のためでなければならぬ。汝の芸術を以て芸術の創造者たる神を讃美せよ。汝の哲学を以て哲学の本源たるエホバの栄光を揚げよ。美は神のもの、真理もまた神のものである。すべては彼のものである。然らば神を忘れて美を慕い、神を斥けて真理を求むる、これ彼に対する盗みでなくして何か。ああ多くの芸術家は芸術と淫しつつある、多くの学者は真理を盗みつつある。眼の慾すなわちここに実現する。

第三は所有の誇りである。慾すでに成れば誇りを生む。肉の慾眼の慾達せられて所有の誇りと化する。学者のひたいに知識の誇り、政治家の肩に権勢の誇り、芸術家の手に美の誇り、ささやかなるものを能くも誇り得ることよ。「なんじのてる物に何か受けぬ物あるか。もし受けしならば、何ぞ受けぬごとく誇るか。」

肉の慾と眼の慾と所有の誇り、すべて世にあるものはこの三者の何れかに属する。世の人の理想は之らのものの外には出でない。しかして之らのものの価値はまず第一にその起源によって知られる。紊乱びんらんせる肉の慾は何処から出たのか、淫蕩なる眼の慾は何処から、浅ましき所有の誇りは何処から出たのであるか。父なる神からでない事は確かである。何となれば、斯の如きげられたる本能、濫られたる自然、損われたる秩序は、神の性格の中に絶対に場所を見出し得ないからである。神からではない、世からである。おおよそ世にあるものは世の産物である。かくて彼らは相互に堕落を証明しあう。

世と世の慾とは過ぎゆく、されど神の聖意みこころをおこなう者は永遠とこしえとどまるなり。

世よ、また之に属する慾よ、汝らは確かに大いなる勢力である。汝らは屡々強く神の子たちの心を誘う。汝らに誘われて遂に神を棄てし所謂背教者は昔から決して少なくはない。汝らは確かに大いなる勢力である。

しかしながら如何に大いなる勢力であるにもせよ、汝らは既に運命づけられてあるのである。汝らは過ぎゆかねばならぬ。汝らは滅びねばならぬ。キリスト再び来ます日、不信の世はその中にある所の肉の慾、眼の慾、所有の誇りと共に、悉く審かれねばならぬ。世の人が幸福と呼ぶ所のものはその日までである。その日、世は世として、慾は慾として、誇りは誇りとして、みな適当なる最後の待遇を受ける。

ひとり最後の問題のみであろうか。現に我らが世とその慾とを味わうときに之が予感を経験するではないか。肉の慾、眼の慾、所有の誇りを満たす者にして、誰か永遠の生命を握りたるを感ずるものがあろうか。彼等は皆その満足の底に深き空虚感を抱きつつあるのである。世の幸福は何故かは知らず空しきものに感ぜられる。肉の慾眼の慾の満足はいかばかり濃厚であっても暫時的に過ぎない。実にこの言いがたき空しさの感じこそ、すべて世とその慾との満足をくらう苦さである。

世とその慾とは過ぎゆく。我らはそれを予感する。満足そのものの中にさびしさがある。厳粛なる事実である。人の霊魂は世の幸福を以て満たさるべく余りに深い。霊魂は永遠を要求する。しかして世とその慾とは之に応じないばかりでない、却ってその悲哀を一しお切実ならしめる。

世の慾を満たすは空しい。之に反して神の聖意を行うは福いである。そこに永遠なるものの予感がある。僅かに一杯の冷水の給与でもよい。その悦びは消ゆべき性質のものではない。

けだし神の聖意を行う者は彼自身に永遠の生命を有するからである。その行為は永遠の生命の破片に外ならない。彼は自らとこしえに生きる、しかしてその業は彼に従う。「彼が今ある所のものにて彼は後にもあるであろう、彼が今なす所のものを彼は後にもなすであろう。変化はただ現に小事に忠なるものが後に大事を任かさるるに過ぎない」。誠に神のみこころを行うの生活そのものが永遠の生活である。

〔第五六号、一九二五年二月〕